神楽岡奥津城

 京都吉田山神楽岡に小野清生は眠っている。墓標には「黒住教神楽岡奥津城」とある。奥津城とは「おくつき」と読み、神道系の墓であり、彼は黒住教の信徒だったのだ。
 墓地名は吉田神葬墓地とあり、黒住教宗忠神社のすぐ南に位置し、その北西に吉田神社、そして京都大学がある。

 先だって、私はそこを探し当て、訪ねたのだが、その墓地にひときわ目を引く墓石があった。田能村直入の墓石だった。田能村直入は幕末から明治にかけて活躍した画家であり、最後の文人画家といわれる。
 そして直入は京都府画学校の設立に尽力し、初代校長を務めていた。京都府画学校とは清生、それに私が在籍していた京都市立美術工芸学校(現銅駝美術工芸高校)の前身であり、そして京都市立芸術大学の前身でもある。
 2016年版美工同窓会名簿「歴代校長」には一行目に「摂理 田能村小虎(雅号直入)明治14年〜17年、とあった。そして彼も清生と同じ郷里の大分だったのだ。
 同じ郷里の、在籍した学校の創立者が、しかも同じ墓地で眠っている。清生が京都にやって来た理由として、これが全くの偶然とは思えない。

宗忠神社

 前回引用した国立国会図書館デジタルコレクションにアーカイブされている東京美術学校卒業者名簿月報第二十五巻第六号付録(大正十五年版)によれば、清生の所在地は「京都市上京区(現東山区)粟田口三條坊町四〇」となっている。彼は最初大分から京都にやってきて、京都市立美術工芸学校彫刻科(図案科クラスメートに堂本印象がいる)を明治43年に卒業し、そして東京に渡り東京美術学校彫刻科(現東京芸術大学)を大正五年に卒業する。そしてこの名簿が編纂された10年後、つまり大正十五年には彼は再び京都に戻り、粟田口三條坊町に住んでいたことになる。

 粟田口三條坊町四〇といえば、当工房から徒歩僅か約5分の所だ。現在は宿泊施設のビルが建っている。そして大正十五年には私の祖父英次郎(父方)により、今私が居るこの工房は既に開かれており、私の父萬治は当時5歳である。私の母、つまり清生の四女妙子はこの時、未だ生まれていない。
 この極めて近い所に同世代だったであろう二人の祖父、清生と英次郎は居を構えていたことになる。道ですれ違ったことはあったかも知れないが、この時二人は何の接点も無い全くの他人だったのだろう。
 それが如何なる経緯で清生の四女妙子と英次郎の長男萬治が結婚し私が生まれることになったのか。

 家に伝わる、これも謎だった二枚の写真がある。

積慶園1

積慶園2

 この二枚の写真は祭壇や鴨居の形状から撮られた年代は異なるが同じ場所だと解る。一枚目の花嫁の左隣にいる人物は二枚目では後列左隅におり、前回で示したように私を抱く妙子と五女道子が写っている。そして二つの写真の襖には同じ丸い紋章が描かれている。
 この紋章は江戸中後期に長松清風によって開かれた日蓮系本門仏立宗の紋章である。そして本門仏立宗は祖父英次郎が浄土真宗から改宗した宗派であった。

 この二枚の写真が意味することが府立図書館に所蔵されていた「積善 (積慶園)創設七十周年」(2016年出版)という書籍により全て判明したのは僅か数週間前のことだった。
 積慶園という名称は私が小さい頃、母妙子がよく口にしていたので私の記憶にこびり付いていた。…ごねる私に「そんなこと言うてると積慶園に預けるよ」…と言う具合に…。

 「積善(積慶園)創設七十周年」によると、積慶園とは1945年(昭和20年)旧宥清寺の敷地に京都府知事の要請を受けた吉村正樹が当時の戦災孤児の受け入れを主たる目的として設立した施設だった。又、宥清寺とは日蓮門下の関西最古の寺院であり、本門仏立宗の根本道場である。
 そして吉村正樹(僧名昭正師)が積慶園初代園長となる。

 この書籍「積善」の頁を繰っていて又しても私の目が凍り付いた…!「積善」55p、「積慶園の歩み」の項で何と私の父萬治と母妙子の写真が「園の花嫁」として掲載されていたのだ。

積善  創設七十周

 上の写真は間違いなく私の父萬治と母妙子の婚礼の写真であり、撮影場所は当工房の二階奥の間の床の間の前である。この原本と思われる写真が家に遺されている。
 そしてこの掲載写真により、上記の謎だった二枚の写真の意味することが全て判明したのだ。
 上記二枚の写真の撮影場所は旧宥清寺の積慶園であること。一枚目に写った花嫁は母妙子であること。そして左隣にいる人物は積慶園初代園長の吉村正樹氏であること。二枚目の写真はその数年後の同窓の記念写真であると思われる。
 これらのことにより、次のような物語が示唆される。

 前回でも記したように、清生の死後、4姉妹の内、幼かった4女妙子と5女道子は当時設立されたばかりの孤児院、積慶園に預けられる。積慶園で成人した4女妙子は親代わりの園長吉村氏の尽力により、その宗派の関係において岡田家との婚姻を成就させたのではないか。そしてその「園の花嫁」第一号として園の歴史の一端を担っているのではないか、…ということだ。

 これに関して私の出生には積慶園、そして本門仏立宗、あるいは初代園長吉村正樹氏には多大の恩義があるのは言うまでもない。しかし、ここで母妙子の生前の言を記さない訳にはいかない。

 母妙子は幼い私に常々言っていた。暴力を振るう父清生との生活は辛かったが、積慶園の生活はもっと辛かったと…。そしてここから逃れられるのであれば添い遂げる相手は誰でもよかったと…。
 そしてこの工房において萬治とのささやかな婚礼を終え、夜のとばりが降りる頃、関係者が皆引き上げ、二人きりになり、殆ど初めて萬治の顔をまざまざ見る。
 …そしてこの一寸先、どうしていいか全く解からなかったと…。本当に、本当に、先程の皆と一緒にこの場から引き上げたかったと…。



 …小野清生の作品の所在、あるいは情報を求めています。…






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