パースは「思考が我々の中にあるのではなく、我々が思考の中にある。」と言い、ソシュールは「観念は言語によって生じ、その言語は社会において体系化されている」と言った。このことは思考や観念、あるいは心は唯名論的に我々の個別の頭の中にあるのではなく、宇宙空間、あるいは世界や社会という外部に在るということなのか。
 しかし西洋美術は外部世界の個物、自然物、創作物それ自体に心の内在は一切認めなかった。
 以前、「法然、親鸞展と宗教改革」で取り上げたが、2011年の春、宗祖親鸞の生誕750年に「親鸞ー生涯とゆかりの名宝」という展覧会が京都市美術館で開催された。
 その折、全国の浄土真宗の信者たちがバスを連ね、全国各地から美術館にやって来たのだが、私はそこで繰り広げられる場面を想像した。
 美術館に安置(展示)された親鸞聖人坐像の前で、当然、信者の集団ならば読経が始まるだろうと。そして後日談として、信者で高校教師の知人から実際に読経がなされたという証言を得た。
 そしてまもなく、その展覧会はバスを連ねてやってくる信者と一般入場者が分けられ、信者だけが入場できる日を、本来休館日である月曜日に充てられた。
 これは恐らく、美術館側がそうした座像に向かい読経するという行為をふさわしくないと判断したか、又、その場に出くわしたいわゆる美術通の一般入場者からのクレームによるものだと思う。こうした行為は美術作品を鑑賞する態度ではないというものだ。
 美術館は西洋由来の定義により施行され、当然、そこに展示される作品は美術の定義に依っている。美術作品は崇拝やそれを拝むことなどを含めた一切の使用目的から解放され、ただただ鑑賞するためにある。そこには西洋の偶像崇拝の禁止という戒律の絡みもあり、教会でさえキリスト像それ自体拝むのではなく、その偶像の背後にあるキリストを拝むという建前で成立している。それと全く同様に美術作品自体は偶像であり、抜け殻であり、単なる物質であり、それ自体に心は無く、それ故に鑑賞、あるいは解釈の態度として、その作品の背後にある作者の意図に思いを馳せねばならない。これはスーザンソンタグがかつて反省的に指摘した通りだ。

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 しかし信者なら、又、そうではなくとも、安置された親鸞聖人坐像から、それを作った仏師に思いを馳せる人など一人もいないだろう。そこに見るのは親鸞である。いくら西洋人にそれは偶像、あるいは美術作品だと言われても、それは拝む対象の親鸞であり、我々には全く存在しなかった西洋の戒律に何故従わなければならないのかということである。
 アトムやサザエさんを読む読者は、アトムやサザエさんそれ自体の心の動きや行動を読むのであって、作者の意図を読むのではない。像は作者と独立し、作者の役目は像それ自体に思考や観念、あるいは心を注入することだ。そして心を注入された像は作者を離れ一人歩きを始め、その像だけが持つ個性において「キャラ」となる。
 一方、明治以降、西洋美術を盲信した美術家たちは、彼らが作る像それ自体から思考や観念、心を抜いてきた。その像とは、作者が見る視覚的三次元空間に在る視覚的対象物のメディウムによる再現だ。従って、その像は作者の三次元空間、あるいはそれを作者の特権でデフォルメしたものであり、当然、思考や観念、心は作者の側にあり、像には無い。

高村光太郎
 しかし昨今、こうした西洋由来ではない、別次元の、いわゆる「キャラ」的な像が、主に日本から発信されている。そうした潮流に焦点をあてたであろう展覧会が開催される。キュレートする美術家松山淳は従来の西洋人体彫刻と区別し、それを「ひとがた」と名付けた…。

ひとがた1
ひとがた2

当工房で参加作家のトークイベントあり

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