日本美術史、特に一般的な彫刻史をざっと俯瞰すると、奈良飛鳥の仏像群、法隆寺の薬師如来や四天王像、阿弥陀三尊、薬師寺の薬師三尊、興福寺の阿修羅像などが直ぐ思い浮かぶ。続いて平安期、鎌倉期の神護寺五大虚空蔵菩薩像や三十三間堂の立体曼荼羅、運慶、快慶の木彫となる。そしてその次はといえば、余程の識者でないかぎり、思い浮かぶのは江戸期の欄間師左甚五郎の逸話であり、それから運慶、快慶から遥か後の明治期の初代東京美術学校彫刻科教授の仏師高村光雲だろう。つまりこれが義務教育で刷り込まれる教科書の記述だ。運慶、快慶から光雲までの殆ど空白の約700年間、日本の仏師や彫刻師、彩色師や乾漆師は眠っており、ろくな仕事しかしていなかったのだろうか。
 奈良飛鳥の仏像群にはエジプト、アルカイック、ギリシャ彫刻、ガンダーラの影響、継承が見られるという。つまり、言うならば、西洋において、ギリシャローマ美術が一旦途切れたのに対し、日本においては遥かシルクロードを通じ、それが光雲までずーと何代もの職人たちによって繋がり進化、変遷、洗練されたと考えても奇異なことではないはずだ。いや、光雲までではなく、それは現代のフィギュア作家にも言えるかも知れない。
 700年間、あるいは900年間、日本の立体クリエーター達は殆ど眠っており、ろくな仕事しかしていなかったのではない。それは明治期の近代化において為政者が、…象徴的には天心やフェノロサが一方的にそれらの仕事は価値はないと美術史から排除し封印したことに因るものだと思う。それは後年復権されることになる、書や浮世絵、書画文人画と同様にだ。しかし、彫刻や塑像の分野ではその復権は本質的に未だ無いと言えるだろう。そして為政者が美術史から運慶快慶以降の仏像や欄間、人形などを排除、封印し、お手本にせよと命じたのが近代彫刻象徴のロダンであり、そこに仏師光雲と西洋帰りの彫刻家光太郎の確執がある。

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 「ひとがた」展は2017年4月8日から16日にかけてKUNST ARZTで開催され、最終日に出品作家のトークイベントが行われた。出席作家は当日欠席の北川宏人を除く、東京造形大学彫刻科出身の木下雅雄、京都精華大学彫刻科出身の花岡伸宏、京都芸術大学油画出身の上原浩子、京都芸術大学彫刻科出身の名和晃平、そして展覧会のキュレーターでもある京都芸術大学漆工科出身の松山淳の各氏である。
 トークイベントは松山が規定の質問を浴びせ、各作家がそれに答えるという進行で為されたが、切られた口火は仏師高村光雲と彫刻家光太郎親子の逸話だった。
 それによると、ロダンを吸収した光太郎が西洋近代美術を知らず、デッサンも出来ない光雲の作品に対し、「それは彫刻ではない」と、言ったという。そしてこの二者を自分の(松山の)作品に当てはめ考えれば、紛うことなくそれは光雲の方だという。
 光太郎の作品、つまりロダンを象徴とする近代彫刻を「人体(彫刻)」とし、光雲の作品、仏像、あるいは人形などを「ひとがた」と区別するならば、「ひとがた」を作る作家が昨今多く見られるという。こうした美学的動向に焦点を当てたのが松山の企画意図なのだろう。そしてその意図は4番目の質問「エスキースをしますか?マケットを作りますか?」に端的に表れている。
 エスキース(デッサン)をせず、いきなりマケットを作り始める乾漆工程を持つ松山にとって、この質問は「人体」と「ひとがた」の区分けに関して特に重要なのであろう。しかし面白いことに、と言うべきか、残念にも、と言うべきか、参加作家はそうした巨視的な美学的動向の問題など鼻から気にしていないようだった。
 エスキースすると答えた木下は、偶然出会ったフィギュア制作で、そのテクスチャーが持つ細密さと美しさに今後の立体作品の可能性と魅力を淡々と語り、エスキースしなくて仏像が最初の作品制作だという花岡は、マテリアルと身体感覚の親和性、調和性を語った。実物大のエスキースを丹念にするという油画出身の上原は、出会った球体関節人形の魅力と思い入れを語り、PCでエスキースするという名和は気にしていないどころか、ロダン的西洋近代彫刻や、それを踏襲する日展彫刻などを今更持ち出して区分けすることに何の意味があるのか、…みたいなことを言った。これはそうした問題設定はとっくの昔にカタが付いている、ということなのだろうか。そして松山が振った名和の学生時代の作品「少年と神獣」について興味ある話が聞けた。
 この作品のキーワードは「依り代(ヨリシロ)」であり「依り代」とはインドあたりに源流を持つ宗教的概念で、神が依り憑く器である。例えば山車や神輿がそれで、儀式の間、神が宿る。そして依り代としての少年に宿る神獣は、やがで成長過程の少年の心と読み替えられ、その少年の心は脳のデジタル情報と読み替えられていく。
 そして今回の名和の出品作のキーワードは「トランス」であり「トランス」とは「変換」の他に「入神状態」「恍惚状態」という意味を持つ。脳のデジタル情報において現実とされる身体をスキャンし、デジタル信号に「変換」し、3Dプリンターで出力される。その時、「現実」の多層性が示唆されるという。
 こうした創作の志向性はロダン的近代彫刻の「人体」と180度異なり、それは松山の言う「ひとがた」に適合するだろう。少なくともこのような「人体」と「ひとがた」の区分けによる巨視的な美学的動向のアプローチは類がなく、貴重な試みだと思う。
 約1時間半のトークの後、参加作家と観客の皆さんにカレーとビールが振舞われ、懇親会が行われた。岡本さん。これって例のマンハッタンの展覧会のパロディーですか?





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