京都市は老朽化整備と「市民に愛され世界に誇れる美術館としていくため」の費用の一部を、企業への命名権の売却により賄うのだという。そして命名権を50億で購入したのが京セラであり、その結果、京都市美術館は「京都市京セラ美術館」になるという。
こうした動きに京都の美術業界の人達は反対運動を展開しているのだが、これが過半数の意見だとは到底思えない。私は求められた反対署名を拒否した。
こうした動きに京都の美術業界の人達は反対運動を展開しているのだが、これが過半数の意見だとは到底思えない。私は求められた反対署名を拒否した。
私見だが、それはメリットとデメリットを比べると、メリットの方が遥かに大きいと思うからだ。
以前「芸術と経済」で述べたが、日本の芸術の運営の殆どが作家本人の贈与、つまり作家本人のボランティアに因っており、これはヨーロッパやアメリカと比べても突出している。それはボランティアが出来る余裕のない者は芸術に口を出すなということであり、それは才能の発見、登用、あるいは文化の継承、発展を著しく阻害する。そしてグーグルでもなくサムスンでもない京都の名門企業京セラが50億を出し、新しい展示スペースが増設されるというのだから、これを白紙撤回せよは無いと思う。
デメリットはネーミングの一点であり「京都市京セラ美術館」は京がだぶり如何にも耳障りが悪い。しかしネーミングの問題は京セラとの交渉が未だ可能だと思うし、そのための署名なら私は喜んでする。
以前「芸術と経済」で述べたが、日本の芸術の運営の殆どが作家本人の贈与、つまり作家本人のボランティアに因っており、これはヨーロッパやアメリカと比べても突出している。それはボランティアが出来る余裕のない者は芸術に口を出すなということであり、それは才能の発見、登用、あるいは文化の継承、発展を著しく阻害する。そしてグーグルでもなくサムスンでもない京都の名門企業京セラが50億を出し、新しい展示スペースが増設されるというのだから、これを白紙撤回せよは無いと思う。
デメリットはネーミングの一点であり「京都市京セラ美術館」は京がだぶり如何にも耳障りが悪い。しかしネーミングの問題は京セラとの交渉が未だ可能だと思うし、そのための署名なら私は喜んでする。
しかし、反対運動をする人達の気持ちは解る。それは既得権の存亡とビジネスがあるのではないかということだ。反対運動の矢面に立つ京都市美術館問題を考える会が配布したパンフの一項目の「京都市美術館は誰がつくったか」において、その既得権の根拠となるものが示されている。
美術行政が未だ整わなかった30年代、京都市美術館は国や市が設立したのではなく、京都の財界の浄財や京都画壇の作品の寄贈により創られたのだ。そうした根拠において、かつての京都画壇を源泉と自負する地元作家の利用権を揺るがす行政の勝手な運営は許されないということなのだろう。そして美術館問題を考える会が主張する「市民不在の新館建設に反対」というスローガンと180度異なる一般市民と最も縁遠い美術館が現在の京都市美術館であると私は思う。そのことは、以前書いた「京展について」が全く同じ構図として思い起こされる。
美術行政が未だ整わなかった30年代、京都市美術館は国や市が設立したのではなく、京都の財界の浄財や京都画壇の作品の寄贈により創られたのだ。そうした根拠において、かつての京都画壇を源泉と自負する地元作家の利用権を揺るがす行政の勝手な運営は許されないということなのだろう。そして美術館問題を考える会が主張する「市民不在の新館建設に反対」というスローガンと180度異なる一般市民と最も縁遠い美術館が現在の京都市美術館であると私は思う。そのことは、以前書いた「京展について」が全く同じ構図として思い起こされる。
改正以前の京展は「全国規模の新人作家の登竜門」と謳いつつも、それは全くインチキで、京都市美術館を年間を通して押さえている各美術団体の顔見世興行であった。その審査は各美術団体から審査員として幹部が出向き、各美術団体の勢力維持のため、その所属者を談合により選出するのだ。それにより当然ながら一般市民や学生は排除されるのは以前書いた通りだ。そしてその審査員が美術館学芸員や団体と無関係な評論家、ジャーナリストなどではなく、何故各美術団の幹部なのかというと、その根拠が上のパンフの一項目ありそれは既得権の何物でもない。
そうしたことから京都市美術館問題を考える会が配布したパンフの二項目の「市民 芸術家不在の新館建設に反対」には全く違和感がある。市民不在を作りだしたのはそうした既得権を持った既成の各美術団体ではないのか。
京展はいわば市民の税金で運営される市展である。市展は例えば大津市展のように美術館に併設される市民ギャラリーなどで公平に行われるが、京都市美術館はそうしたものはなく一般市民が出品する余地は殆どない。
改正後の京展は各美術団の人達は排除されたものの、今度は大学の宣伝機関になっているように思う。京展の審査員に各大学と利害関係のない人が選ばれない以上、一般市民や大学に行かず芸術家を目指す人たちが参加する余地はこれからも無いだろう。
京展はいわば市民の税金で運営される市展である。市展は例えば大津市展のように美術館に併設される市民ギャラリーなどで公平に行われるが、京都市美術館はそうしたものはなく一般市民が出品する余地は殆どない。
改正後の京展は各美術団の人達は排除されたものの、今度は大学の宣伝機関になっているように思う。京展の審査員に各大学と利害関係のない人が選ばれない以上、一般市民や大学に行かず芸術家を目指す人たちが参加する余地はこれからも無いだろう。
京都市美術館は年間を通じ、市民から負託された美術館学芸員の仕事と無関係な、そうした既成の団体展で殆ど押さえられている貸し施設なのだ。失礼ながらそうした団体展の殆どは形骸化し、今や何の話題すら登らないド素人以下の作品が彼らのマスタベーションのためだけに由緒ある京都市美術館に年間を通じ臆面も無く独占しているのだ。
開示されている市民に向けての美術館の利用規定など無く、もし一般市民がグループ展に貸してほしいと申し出ても、今では既成の団体展が独占してしまっており、そんな余裕はありませんと門前払いだろう。もし、絵の好きな一般市民や画学生が京都市美術館に展示を望むならば、そうした独占している既成の団体展に会費を払い、その団体展から出品する他は手が無いのだ。つまりこれは既得権をベースにした大きなビジネスであり、京セラの介入により、その既得権が脅かされることにおいての反対運動ではないのか。
開示されている市民に向けての美術館の利用規定など無く、もし一般市民がグループ展に貸してほしいと申し出ても、今では既成の団体展が独占してしまっており、そんな余裕はありませんと門前払いだろう。もし、絵の好きな一般市民や画学生が京都市美術館に展示を望むならば、そうした独占している既成の団体展に会費を払い、その団体展から出品する他は手が無いのだ。つまりこれは既得権をベースにした大きなビジネスであり、京セラの介入により、その既得権が脅かされることにおいての反対運動ではないのか。
もしこの反対運動がそうした自らの既得権ビジネスの危惧から発するのなら理解できるが、それを軽々に市民の要望と転化しないで欲しい。これは全く勝手な転化だ。
恐らく一般市民はそんなこと考えてもいないし望んでもいない。ド素人が展示する多くの団体展を一般市民は観たいとも思わないし関心も無い。現に多くの展覧会はいつもガラガラで立ち寄るのはその団体展の出品者だけだろう。一般市民はそんな美術館はあたりまえだが利用しないのだ。ましてや観光客を呼べるしろものでもなく、世界に誇れる美術館には程遠いだろう。一般市民を遠ざけるこうした言わば既得権を得た一部の人達のマスタベーションとビジネスのため我々の血税が使われているのだ。したいのならそれなりの費用を払い、街の画廊や施設、あるいは各大学で展示すべきではないか。それが道理だろう。
これを機に本来の美術館機能である市民が託した、美術館学芸員の責任において全面的に彼らに運営を任せればよいと思う。それが公平、公正というものだと思う。
確かに門川市政は強引だが、それなりに答えはだしている。この京都市美術館を含む私が愛する岡崎公園一帯の近年の変化はすさまじい。
北奥に広大な平安神宮、その東南にテニスコートと球場。その西に近年遊歩道に改装され週末にはイベントで賑わう神宮参道があり、その西側に、これまたローム社が命名権を得たロームシアターがある。そこには蔦屋とスタバが入り、早朝から近隣市民が集いテラスでカフェラテを飲んでいる。向かいの都メッセではイベント誘致により連日賑わい、テニスコート東南にあるリニューアルされた京都市岡崎動物園も親子連れで賑わっている。近隣住民である私が見る限り、この辺りはかつて無い程、市民や観光客で賑わい、近くのうどん屋やレストラン、ショップは行列が出来るほど潤っているのだ。
…だだしこれに引きかえ、岡崎公園のかなりの部分を占める京都市美術館は以上の理由からひっそりしている。現在の美術館は一般市民において利用の対象ではないということだ。
ロームシアターテラス
都メッセのマンガアニメフェス開催の時、入場者の列は都メッセの外周を一周し、京都市美術館の中庭に至るという途轍もない行列が毎回出来る。
ひっそりとした美術館。右後方の人の群れは都メッセに入場をする行列。
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恐らく一般市民はそんなこと考えてもいないし望んでもいない。ド素人が展示する多くの団体展を一般市民は観たいとも思わないし関心も無い。現に多くの展覧会はいつもガラガラで立ち寄るのはその団体展の出品者だけだろう。一般市民はそんな美術館はあたりまえだが利用しないのだ。ましてや観光客を呼べるしろものでもなく、世界に誇れる美術館には程遠いだろう。一般市民を遠ざけるこうした言わば既得権を得た一部の人達のマスタベーションとビジネスのため我々の血税が使われているのだ。したいのならそれなりの費用を払い、街の画廊や施設、あるいは各大学で展示すべきではないか。それが道理だろう。
これを機に本来の美術館機能である市民が託した、美術館学芸員の責任において全面的に彼らに運営を任せればよいと思う。それが公平、公正というものだと思う。
確かに門川市政は強引だが、それなりに答えはだしている。この京都市美術館を含む私が愛する岡崎公園一帯の近年の変化はすさまじい。
北奥に広大な平安神宮、その東南にテニスコートと球場。その西に近年遊歩道に改装され週末にはイベントで賑わう神宮参道があり、その西側に、これまたローム社が命名権を得たロームシアターがある。そこには蔦屋とスタバが入り、早朝から近隣市民が集いテラスでカフェラテを飲んでいる。向かいの都メッセではイベント誘致により連日賑わい、テニスコート東南にあるリニューアルされた京都市岡崎動物園も親子連れで賑わっている。近隣住民である私が見る限り、この辺りはかつて無い程、市民や観光客で賑わい、近くのうどん屋やレストラン、ショップは行列が出来るほど潤っているのだ。
…だだしこれに引きかえ、岡崎公園のかなりの部分を占める京都市美術館は以上の理由からひっそりしている。現在の美術館は一般市民において利用の対象ではないということだ。
ロームシアターテラス
都メッセのマンガアニメフェス開催の時、入場者の列は都メッセの外周を一周し、京都市美術館の中庭に至るという途轍もない行列が毎回出来る。
ひっそりとした美術館。右後方の人の群れは都メッセに入場をする行列。
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コメント
コメント一覧 (25)
また一企業に名前を売る以外でも岡田さんのおっしゃるような事は実現できませんか?
市議会議員も知らなかったと言っているみたいですが
かつてあなたの所属する団体は帝展や官展のカウンターとしてあったはずです。にも拘らず、こともあろうに今やそれらを始祖に持つ日展の既得権を例に持ち出し、自らの既得権を主張するなど、これが私が言う既に形骸化しているという所以です。これを既得権を守るための団体展の護送船団方式というのです。上の文言はそういう風に聞こえます。
戦後、かつて無かった京都の企業が、京都の美術のために金を出すということが如何に重要かと私は考えています。確かに京都市京セラ美術館という名称は違和感がありますが、このネーミングの違和感の共有において京セラとの交渉の余地はあると思います。たとえその交渉が実らなかったとしても、京セラの介入により、一般市民や観光客にとってなんの価値も無い現在の形骸化した団体展の既得権が少しでも解消できる可能性があるなら、私はその可能性に賭ける価値は充分にあると思っています。
京セラの命名の件,私は悪い話ではないと思います。ただ,京セラは美術館の運営形態に関わる意志と,そのための見識をもっているのでしょうか。もしもっていないなら,メセナの名を借りた売名と言われかねません。
やっぱりこっちの方がかっこいいです。まさに天才は天才を知るといった感じです:
http://nirasakiomura-artmuseum.com/
ただ単純に決定した経緯が不透明だと感想を述べたまでです
絵画の特に洋画の団体に既得権益など殆どないとは思いますが
美術館もちゃんと借料を払って借りているので
岡田さんの見てきた風景は私はみていないもので
そういう呼びかけがあれば私は署名しますよ
そんな特権があったとは知りませんでした
公平にすればいいと思います。
毎回抽選制にすればいいと思いますよ
何か特別扱いしろと運動した事は私も私の周辺もありません。今回の件でも中心になってる人は公募団体に関係ない人もおられるようですが
それにしても岡田さんは美術館でグループ展されてた記憶がありましたが私の記憶違いでしょか
それと
美術館の問題はちょっと違うんじゃないでしょうか?
「公平にすればいいと思います。毎回抽選制にすればいいと思いますよ」これは一つの真っ当な考えです。又は、抽選制ではなく申し込み順の順番制です。しかしこれは京都市美術館を貸し会場施設に特化するということであり、選択はそれだけでは無いと思います。それは世界の主要な美術館の機能の常として、その国の芸術を世界に発信し、文化芸術をリードし、パリやニューヨークがやったように覇権を握ることです。今まで我が国はそれをやってきませんでしたが、京都市美術館の豊富な所蔵や世界に誇れる文化の蓄積はそれを成し得るクオリティが十分あると思っています。全くもったいない話です。それが出来なかった理由は、あるいはそうした志向性がスッポリ抜け落ちる理由は以上のようなバカみたいな貸会場を巡る既得権の問題等があるのではと思います。
従って今回の美術館問題は非常にリンクします。今回の京セラの介入によりその展望は全く解りませんし知り得ません。しかし少なくともメリットは、その介入において、それに反対する既得権者が浮かび上がったということです。
岡田さんのグループ展は10年前ぐらい彫刻の部屋で普通の一般の人(今うちの団体展に出品してる旧Tさん今Iさんも出品しておられました)
反戦とかそういうテーマのグループ展で岡田さんはいつもの人がお風呂に浸かってる様な作品出されてましたよ
あれは団体展関係ないでしょう
美術館は団体展以外にもグループ展やってたのは事実ですよ
http://www2.city.kyoto.lg.jp/bunshi/kmma/images/290201oshirase.pdf
うひゃひゃ,50 億で 50 年ですか。野球場の命名権よりはるかに長いですね。しかも,この契約内容では運営はほとんど変わらないでしょう。売名のにおいを感じて反対する人がいるのも頷けます。
だいたい,こんなショボいウェブサイトではどうにもなりませんよ。
http://www2.city.kyoto.lg.jp/bunshi/kmma/
ルーヴル,オルセー,メトロポリタンらのサイトには適わないとしても (MoMA のはやや劣る),かなり立派なサイトを持っている美術館は日本にもあります。京都市美術館は明らかに遅れています。
http://www-art.aac.pref.aichi.jp/ (愛知県美術館)
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/ (三重県立美術館)
私はそうした団体を青筋たてて仮想敵みたいに扱うつもりは毛頭ありません。反対運動をする人たちの気持ちはよくわかります。それは本文に書いた通りです。しかし市民を盾にするのは納得いきません。私も税金を払っている市民であり、その市民は色んな意見を持っているということです。
「地方の美術館でも会場貸しはもちろん行なっています。」リンクの愛知県美術館や三重県立美術館のサイトを見ると、ここには市民ギャラリーが併設されており、多くの場合貸会場はここで処理されます。この時、偏った政治色の強いものや信仰を勧誘するものなどは学芸員の権限により断られるでしょうが、規範コードに則っていれば平等に借りられ既得権などないと思います。しかしこれはキュレートではありません。キュレートとは本館の企画展や常設展の見せ方に学芸員が問われる手腕です。しかし京都市美術館はその機能が殆どないのです。「京都市美術館は明らかに遅れています。」…はちょっと違います。なにせこれが 日本の美術館の原型だからです。
東京都美館もそうですが、美術行政が整わなかった頃、両美術館は民間の浄財で設立され、官展や在野展のいわゆる団体展の発表の場となりました。その後整備された博物館法に則った学芸員は居座られた団体展に手が出せなかったのです。
80年代以降に林立した地方美術館はそうした都美館や京都市美術館のような既成のの団体展が牛耳る美術館にしようとした地元の作家と、美術館の自治を貫こうとする美術館との激しい対立がありました。これが分かれ目だったのです。特に初発の富山県立美術館はひどかったです。当時富山県立美術館の新任の学芸員であった、現在21世紀美術館館長である島さんは、その後の右翼の介入により、目の前で同僚がぼこぼこに殴られるのを見てショックを受けたと言います。美術館の自治を貫こうとしたが既成の地元の圧力により追われた初代館長の小川さんはさぞ無念だったと思います。こうした経緯により今があるのです。既成の団体展にとっては京都市美術館が最後の砦なのかも知れません。
いわゆる団体展に関係ない絵をみてもそれが素晴らしいとは思えないんですがそれは私が何かおかしいんでしょうか?
企業名を冠した美術館はたいてい公益財団法人です (ポーラ,ブリヂストン,出光,損保ジャパン等。メナードは違うか)。命名権で 50 年間「京都市京セラ美術館」というのは,やはりこすい感じがします。
しばらく開かないうちに,MoMA のサイトはずいぶん進化していました。日本の美術館も海外に敵うよう,頑張ってほしいものです。
https://www.moma.org/
言われるように素晴らしい作品にはめったに出会えません。もし、あなたが素晴らしいと思える作品にしょっちゅう出会っているとすれば、それはあなたのレベルが低いということです。つまりあなたは高い才能をお持ちですから、何度も言いますが、そんなところに閉じこもっている暇は無いと思います。
私は偶然高校生の時にコレクション展をみて感激しました。
時代時代で革新的で素晴らしい作品がありました。
個人的にはパンリアルの創立会員の作品は今見ても素晴らしいと思います
そういう素晴らしい作品をみせる機会が増えるのは喜ばしいでしょう
でも、今回の彫刻分断問題なんてのは美術館関係役人がいかに作品の事に無頓着なのかわかる話ですよね
今後もその件に関わってる役人が関わってるとあの素晴らしいコレクションも何をされるかわかったもんじゃないと思います
私は企業の宣伝の生業を十数年やってたので企業なんてものが文化なんてわかってるとはとても思えません。
売り上げの為なら三流芸能人の絵をセザンヌやピカソの良作の横に展示させて集客とか売り上げが至上です。
今回の件も結局はギャラリー機能自体は無くならないと思います。
しかしいわゆる金持ち団体展しか借りられないギャラリーになるでしょう
金持ち団体展はいわゆる会員が絵画教室のお弟子さんを一定数勧誘してるところです
岡田さんは私の出品してる団体には否定的ですが最近参加されている方は美術などは義務教育以降離れていて定年後描きだしたは良いけどいわゆる写生的な事じゃない絵を描きたいので参加されて方が沢山おられます。
何年か見ていたらご本人なりに進化されてます
私はある意味こういう方の受け皿になっていくのも団体展の一つの道かなと思います。
現代において,世界に発信したいならまずウェブサイトです。美麗な収蔵品画像,的確な英語解説,高度な検索機能を兼ね備えたサイトで,見る人を夢のような世界に誘わなければなりません。まさにキュレータの腕の見せどころでしょう。これは欧米の主要な美術館がどこもやっていることです。京都市は本当に頑張らないと,50 億の端金で 1 企業の宣伝に協力しただけに終わってしまいます。もはや「最後の砦」なのだとすれば,それだけ取り残され,遅れているということでしょう。
※イタリアの美術館のサイトは総じてショボいです。わざわざ宣伝などする必要はないとあぐらをかいている様子です。
問題なのは京都市美術館は、市民が付託したはずの美術館学芸員の権限が極端に制限されているのではないかということです。富樫さんの作品分断問題でいえば、その折衝に任るのはいつも副館長であり、彼は芸術を専門に修めたのでは無い事務方であろうという点です。本来は館長や学芸課長がご自分の信念と職務をかけて対処すべきなのです。しかしそういう風にはとても見えない。まるで館長や学芸員は事務方の部下であるように見えますし実際そうなのかも知れません。もしそうならこれは博物館法違反の可能性があります。そしてその元凶は京都市美術館創設以来の特殊な事情に因るのではないかと思います。それが創設以来の貸し会場機構です。展示の権利を主張するのは団体であり、その根拠は美術館を成り立たせる殆どの所蔵作品は団体を起源に持つ民間の寄贈であること。そしてその配分などを調整するのが行政事務方であり、そこには美術館学芸員の仕事は初めから殆ど無いのです。こうした機構を続ける限り、学芸員や館長は博物館法を満たすためだけの言わばお飾りに終わります。しかし、本来的には裁量権は専門性を習得し、民主的法治主義を前提にした国民が負託した国家資格を持つ学芸員であり、裁量権は団体展でも事務方でも決してないということです。こうした機構の不備のため京都市美術館は「遅れている」と言われても仕方ないと思います。
今回の命名権においては、京セラは企業ですから50億出資のメリットを株主に示さなければなりません。大きな企業ですからそれなりのリサーチはしているでしょうが、反対派の運動により、京都の大多数の市民が反対していると判断されれば、それを押してまで命名権を獲得するのはデメリットになりかねませんから京セラは引くでしょう。現にそれは京都市の判断次第であり、市民の反対を押してまで命名権を獲得するつもりはないと京セラは言っています。しかし私は美術館の自治の問題、つまり学芸員の裁量権の強化や貸会場機構からの脱却のきっかけとなると思います。一つには現代美術展示室の建設があります。京都から育った著名な現代美術家は沢山いますが彼らは徒党を組まないため、今まで殆ど展示がありませんでした。彼らを引っ張り出すのはキュレートという真っ当な作業が必要で、例えばヤナギミワ、ヤノベケンジの両氏は美術館が主催するパブリックコメントに美術館側からの論者として登壇したと言います。
成る程そういう事ならば良いかもしれませんね
既得権は良くありません。
私は黙ってますよ