「人工知能は人間を超えるか」において著者松尾豊は、近年のディープラーニングという技術の開発により、人間のように思考するコンピュータの可能性が出てきたと主張する。そして画像認識では人間の能力をとっくに凌駕しているという。
 例えば膨大なネコとイヌの画像をコンピュータに入力し、そこからネコとイヌの特徴の違いを学習させ、最終的に特定の画像がネコであるのかイヌであるのかを判定できるのだという。そしてこの判定は従来の人工知能開発において上手くいかなかった分野であり、それをクリアーする画期的な出来事だという例えで、以下の引用が度々繰り替えされる。

グーグルのネコ
      グーグルのネコ ディープラーニング


 それはソシュール言語学における言語記号の特質とされるシニフィアンとシニフェだ。シニフィアンとは感覚印象であり、例えば「ネコ」という音声なら「ne-ko」という聴覚印象で「猫」という文字なら視覚印象だ。そしてこのシニフィアンには、それが指し示す、つまり概念、意味するものがコインの裏表のようにくっついており、それがシニフェだ。その構造において人間は「ネコ」という言語から現実のネコを思い描く。
 これが思考の根幹要素なのだろうが、人工知能の場合、ディープラーニングで学習し、膨大なネコの画像から抽出されたネコの特徴の総体がシニフェにあたり、そのシニフェに「ネコ」あるいは「イヌ」という記号を与えてやれば、思考の根幹要素であるシニフィアンとシニフェの結び付けが完成するということだ。これにおいて「ネコ」という言語から現実のネコを思い描くように、コンピュータは自ら、特定のテキストを画像に変換したり、又、特定の画像をテキストに変換できる。これが人間の思考の根幹要素であり、著者はこれを「表現」という。
 かつてこの「表現」がコンピュータには難しかった。例えば翻訳では、「ネコ」ならば「cat」とあらかじめプログラムとして与えられており、又、言葉の変換のビックデータから頻度とシチュエーションの確率に応じて変換される。これは記号と記号の単純変換であり、その意味すること、シニフェが欠けていた。つまりコンピュータは「ネコ」の何たるかは全く知らなかったのだ。
 しかしディープラーニングによって得られた画像ネコの特徴の総体がシニフェとして機能し、それがネコの何たるかを担保するというのだろう。
 この開発は人類に大きな貢献をもたらすだろうし、又、著者がいうように、人間の思考は脳の電気信号機構という物理現象によって為されている以上、コンピュータでも為せるはずだ、ということにおいては大賛成なのだが、しかし、この人工知能の画像認識ははたして、認識、概念といえるのだろうか、そしてこれが思考、あるいは思考の根源といえるのだろうか。
 本来ソシュールのいう言語記号とはシニフィアンとシニフェが結び付いたものであり、ワンセットだということだ。言葉を習得する前の幼児は、著者がいうようにある程度の世界の把握はあるのかも知れないが、言葉の習得により世界を秩序立てて分節するとうのがソシュールの主張だ。ディープラーニングの件は画像ネコの特徴の総体に単に「ネコ」というタグ付けただけなのではないのか。これが世界の分節といえるのかということだ。
 そしてもう一つ、シニフィアンとシニフェの結びつきは文化によってズレがあり、時代によって多様に変化するということである。これがソシュールの言語学構築の最初の着目点で重要なところだ。しかしディープラーニングで入力されるデータは、例えばネットに溢れる世界中で撮られたネコの画像だ。つまり写真だ。この写真の普遍化、あるいは独裁ということに関して、これは15世紀ルネッサンス以来の実在論=リアリズムの範疇にあり、それを強化し、固定化するものではないかと思う。
 15世紀ルネッサンスの手描きの写真の発明、19世紀の写真、現代のデジタル画像は像をどう定着するかだけのテクノロジーの違いであり、光学的に結像した像を素材にするという点でみな同じだ。光学的に結像した像、つまり写真の出現以来、我々は写真が我々の視覚と一致するという共有の元に「世界は見える通り実在する」という実在論=リアリズムが生まれた。件のネコ画像におけるディープラーニングの発想はこれを強化し、固定化するものではないだろうか。
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