京都、新風館でMAYA MAXXのライブペインティングを見ました。
彼女の仕事は正統派現代美術を盲信する人たちにとっては、まさに異端であり、キッチュであると断言するでしょう。キッチュとは評論家C・グリーンバーグが用いた用語で、真の芸術に対して、芸術が解らない一般大衆が芸術の代用として好み、消費する、偽の芸術という意味です。

Mayamaxx

 正統派現代美術といいましたが、これが何を指すのかというと、15世紀ルネッサンスから20世紀にかけて記述されている一般的な西洋美術史の流れに沿う美術のことです。
 特に、現代美術とはピカソやブラックらのキュビズムあたりからで、この辺から過去から提出された解決せねばならないとする観念的な問題が、一種、神学的、哲学的、あるいは、××学会の問題のように業界内で共有されています。それ故、正統派現代美術は観念的で専門的で我々一般にはよく解らないものとなります。

 もちろん私はこれを本当の意味で正統などとは思いません。ところが我国では明治以来、まるで宗旨替えでもするように、これを正統としてメインカルチャーに据えてしまうのです。そして従来あった芸術が、その時を境に異端視されるわけですが、そういった意味で彼女の作品やライブは、正統に対する異端とされた当時の芸術に、多くの共通した要素を見出せるのではないかと思うのです。

 彼女のライブペインティングを見て、思いを巡らしたのは明治初頭まで絶大な人気を博したといわれる書画会の様子です。書画とは書と画が組み合わさった東洋伝来の芸術形式であり、資料によると、当時流行したとされる書画作品の発表、愛好者との交流、あるいは作品の購入を書画会というイベントを通し行われたとされています。

 当時、地方各地の有力者などがこうした会を開き、文化芸術の振興、交流、高級娯楽としたのです。作家は持ち込んだ作品の他に、観客のリクエストに応じ、揮毫、つまりライブで作品を仕上げ、又、それを客が先を争うように購入したといわれています。彼女も観客とやり取りし、リクエストに応じ、絵の色を変えたりします。又、書画会には酒や弁当が参加者に振舞われたといいますから、一種のお祭りのような共有感、一体感があったように想像出来ます。

 書家でもあるMAYA MAXXのこのイベントにはお酒やお弁当こそ出ませんが、参加者に共有感、一体感があります。彼女の洒脱であざやかなトークもさることながら、何と言っても彼女が揮毫する動物(このイベントで動物の絵が描かれるわけですが、)が集まったファンにとって理屈抜きに共有、共感されるのです。(かつて書が理屈抜きに共有されたように、画も理屈抜きに共有されるのです。)

翻って、このような共有感は正統派現代美術にはありません。
 たとえばフランク・ステラのブラックペインティングというのがありますが、この絵は黒く塗られたキャンバスに、キャンバスのエッジに即した白く細いラインとして見える塗り残しがあるだけのものです。こうした絵を突然見せられ、「何億円もするんだよ、すばらしいだろう。」と言われても戸惑うばかりです。
 この絵を何となくでも理解するには、ステラがこうした絵を提出する理由、ステラが何を思ってこうしたかという理屈、先ほど述べた西洋美術の学界的問題の文脈を知る必要があるのです。これが絵には学会提出者の理屈、つまりコンセプトが必要であるということになるのでしょう。
 しかしMAYA MAXXの絵にはそうしたコンセプトなど一切不要です。なにせ、その場にいる全員に理屈抜きに共有出来るのですから。又、明治の書画の人気作家、たとえば河鍋暁斎やあるいは北斎などの絵にもそうしたことがいえるでしょう。すなわちコンセプトが必要な正統派現代美術というものは、作品として成り立つ原理がそもそも違うのです。

 それではMAYA MAXXの仕事が明治以来の異端として継承され、保存されるべき民俗芸能のようなものかというと、それは違います。彼女を支持するのは若い人が多いのです。それにこうした原理を持つ作品は他にも山ほどあり、現在、多くの若い人に支持されています。
 たとえばサブカルと呼ばれるものや、ピクシブに投稿されるイラストなどがそういえるのではないでしょうか。これらは理屈抜きに表現的に皆に共有されているといえます。

 たとえば萌え表情など、本当は高度で微妙な表現だと思うのですが、これが皆に共有され、さらに皆に使いまわされたりします。あるいは二次創作や三次創作はこうした共有、使用の原理をよく表しています。つまりこれは「写し」「本歌取り」の原理であるといえ、そう捉えるなら、こうした原理は今では異端の汚名を着せられていますが、2千年以上の歴史を誇る由緒正しいものといえるのです。

 又、支持する人の数やその熱さは正統派現代美術の支持層を遥かに凌駕しているといってもいいでしょう。ピクシブ系イラストの展覧会は往々にしてお祭りイベントと化し、参加者がライブペイントを始めたりします、まさにコンセプトなど一切必要としないミニ書画会です。

 ならばどうして正統派現代美術と異端という構図が成立するのでしょうか。それは正統派現代美術を盲信する支持層が力あるポジションにいるからに他ありません。たとえば美術館館長や学芸員、大学教授、評論家、高名な現代美術家、教育者、ジャーナリストなどです。
 以前、ピクシブの絵師達で構成されるカオスラウンジ率いる黒瀬陽平が、哲学者、東裕紀からコンセプトの提示を迫られ、沈黙してしまうシーンを思い出してしまいます。にほんブログ村 美術鑑賞・評論

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