加藤義夫氏執筆の5月26日朝日新聞夕刊 美術評「風穴」展を読み、「目が点」になってしまいました。
 内容は欧米中心の文脈で成立したコンセプチュアルアートにアジアからアプローチするという大阪国立国際美術館の企画展「風穴 もうひとつのコンセプチュアリズム」の紹介、展評です。それ自体は特にどうってことないのですが、「驚き、唖然」としたのは前段にあるコンセプチュアルアートの大まかな説明の部分です。その前段を引用します。

「既存の価値をぶち壊し、新たな価値を創造する。美の追求から価値観の変換へと大きく変化していったのが、20世紀美術の特徴だといえる。その起爆剤となり、20世紀美術に決定的な影響を残したのがマルセル・デュシャンという男だった。彼の持つ作品の概念性とレディーメイド(既製品)によるオブジェ「泉」は、作品の持つオリジナリティや希少性、視覚芸術の否定を意味し、美術の制度に切り込んで「風穴」を開けた。
 以来、現代美術のほとんどの作品はコンセプチュアルアート(概念美術)であり、その意味でデュシャンが生み出した”子どもたち”だともいえよう。」

 20世紀美術においてその制度に切り込み「風穴」を開けたとするデュシャンの「便器」の意味することが「作品の持つオリジナリティや希少性、視覚芸術の否定。」だとされています。これを見て「目が点」になったわけですが、これは大誤認ではないでしょうか。

Photo

 むしろオリジナリティや視覚性という言葉を美術に頑強に結びつけた張本人がマルセル・デュシャンであり、彼の「便器」ではありませんか。それが証拠にそれ以降、美術家にオリジナリティという足枷に過剰に神経を尖らす事態をもたらします。そうした事態の原因は彼が行った、作品「便器」の背後にいるデュシャンのアイデア(概念)という作家性、作家のオリジナリティの過剰強化であるといえます。

 そのオリジナリティの過剰強化により、後の美術家から先の美術家がした行為、たとえばレディーメイドを美術館に置くことを奪い、置くには新たでオリジナルな概念の付与が必要になるという事態をもたらします。そして熾烈でノンセンスなアイデア(概念)合戦が始まるという承知の事実があるではないですか。
  それがコンセプチュアルアートの実情であり、彼の行為はオリジナリティと視覚芸術という美術の制度に風穴を開けるどころかそれを強化し、コンクリートで固めてしまったことにあり、この実情はそれにより生じる必然の成り行きということでしょう。

 又、レディーメイドを持ち込むというのはマルセル・デュシャンが元祖というわけではありません。はるか以前に千利休が試みており、これはデュシャンと180度異なった結果を生みます。利休が用いた茶器や道具は市井に流通している、それも特に素朴なものを選び、本来器が持つ茶を服すという目的において、使用するということを大前提に、彼の芸術が組み立てられていきます。

 これはデュシャンがおこなった、便器から使用するという目的を奪うことで成立させるのとは根本的に異なっています。そしてこれは用途を剥奪した鑑賞するだけの純粋美術、つまり「視覚芸術」という制度を、職人が使用を目的で作った便器にさえもデュシャンのオリジナリティという名において強引に当てはめたということであり、欧米中心の美術の文脈、「視覚芸術」の過剰強化の何物でもありません。

 さらに利休が為した芸術において、使用される茶道具は無名の職人達により写されるという営為に発展します。写される茶道具は「本歌」と呼ばれ、これは明らかに藤原定家の「本歌取り」が受け継がれているということでしょう。つまりここにはオリジナリティや視覚芸術という概念は皆無といえ、欧米の美術の文脈とは180度異なります。

 マルセル・デュシャンの仕事とは欧米の美術の文脈に一歩も外れることなく、むしろそれを巧みに利用し、過剰に強化するという結果をもたらしたということではないでしょうか。

 このような加藤義夫氏のデュシャンの「便器」の解釈では、欧米中心の美術の文脈に「風穴」を開けることなど到底無理でしょう。

美術ブログランキングに
参加しています
他メンバーのブログはここからどうぞ
どうぞよろしく…

にほんブログ村 美術ブログ 美術鑑賞・評論へ
にほんブログ村