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 画廊に高さ2メートルを超える大きな絵があると仮定します。カテゴリーは抽象画でも具象画でも何でもいいのですが、とにかく、図のような絵です。
 観客はその大きな絵の前に立ち、絵を鑑賞します。そして観客はその絵をどういう風に見るかという問題です。なにせこれは私が描いた絵ですから、ここは一般論は避け、この絵に対する私の思惑を述べて見ます。

 私の思惑は、単純な線だけで遥か彼方に伸びる奥行きを出そうとしたことです。何も無い砂漠のような広大な空間に、地平線に向かって真っ直ぐ伸びる一本の道路。経験的にいえば、この絵を高さ2メートルくらいに拡大し、画廊の壁面に掛け、その前に立つと眩暈がするほどの奥行き空間が感じられるはずです。…というのが私の思惑です。

 そして恐らく私の思惑は成功するだろうと思います。何故なら私はこの小さい絵においても充分に奥行き空間を感じることが出来、そして私のこの知覚は、恐らく、他の人においても共有されていると推測できるからです。

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 この単純な図柄において、私だけでなく多くの人に奥行き知覚が為されているだろうという推測は、次のことによっても補強できます。私はこの絵に重ねた、コピペによって作った、赤い二本の線の上が下より、長く太く感じられるのです。
 そしてこのような私の知覚はポンゾ錯視として一般的に認知されている錯視だからです。この錯視が起こる理屈としては、「知覚というもの」で取り上げたミュラーリアーの錯視と同様に、遠方過大視という恒常視が働くからとされています。つまりこの絵の単純な図柄を見て、一般的に人は上部を遠方とする奥行き空間を感じてしまうということの証です。恐らくこの図柄に遠近法を見るのでしょう。この場合、単純な「ハ」の字という図柄が重要であり、赤い線の厳密な長さが問題で無いのはいうまでもありません。

 そしてこの単純な図柄を見て、確かに私は奥行き空間を知覚し、又、他の人も同様に奥行き空間を知覚する。そうした「見える通りである」という確かな合意に基づき「絵画鑑賞」あるいは絵画論が組み立てられるのでしょう。つまりこの図柄が持つ奥行き空間は、絵のイリュージョンとされ、そのイリュージョンの取り扱い方、あるいはその見え方を問題にするのです。これが美術のモダニズムです。

 しかし私は作り手でもある立場から、「ちょっと待ってください。」と、いいたいのです。そうした絵画論を論じる前にもっと根本的な問題があるのではないかと。それはこの単純な図柄、「ハ」の字を見て本当に誰もが奥行き知覚を持つのだろうか、という素朴で、又、制作を方向付ける際の絵の構造にかかわる疑問です。ミュラーリアーの錯視を取り上げたのはそういった理由からです。

 ミュラーリアーの錯視が現れる理由付け「大工製環境の仮説」は統計調査により導かれたとされています。つまり文化背景によって錯視の強度に違いがあるという統計です。ミュラーリアーの錯視と同じ理屈付けされるポンゾ錯視、すなわちこの単純な図柄「ハ」の字にそれを置き換えると、赤い線が異なって知覚されない文化的背景を持つ人がいるということになります。このことはこの絵、「ハ」の字を見ても奥行き知覚が起こらない人がいるということを意味しています。そして我国には遠近法が輸入されるまでこうした奥行き表現を持つ絵は無かったという事実に行き当たるのです。たとえば平安の絵師達は寝殿造りの廊下はずっと平行であり「ハ」の字には描かなかったのです。

 もし、絵師達がこの単純な図柄「ハ」の字を見て奥行き知覚を感じるなら、彼らは寝殿造りの廊下を「ハ」の字に描いたはずだと、作り手の立場から強く思います。
 いみじくも美術手帳6月号に興味ある文章があります。チームラボの猪子寿之氏が対談で述べられた文章です。この対談は辻惟雄氏、茂木健一郎氏とそれぞれ別に行われ、二度にわたり繰り返し述べられています。以下、引用します。

 「僕は、昔の日本人は、空間が日本画のように見えていたと勝手に思っているんです。現代人は遠近法を習ったり、実写の映像を見過ぎて、空間を写真のように見ているけど、昔の日本人は個性や感性と関係なく、普通に見たままを絵に描いていたと思うんです。」(辻惟雄氏との対談)

 「日本には自分達の特異的な文化の強みがあったのに、そういう部分を否定してきてしまった。でも、いまネットワーク社会になって、日本のそういった文化はむしろ相性がいい。だから、昔の日本人にはどういうふうに世界が見えていたのか、ということに未来のヒントがあると思う。<花と屍>も、昔の日本人は日本画みたいに世界を見ていたんじゃないか、という妄想から生まれたんです。」(茂木健一郎氏との対談)

 猪子氏の発言は非常にストレートですけれど、私も以前からこのようなことを思っています。つまり絵師達が見た(知覚、認識)した寝殿造りの廊下は絵巻に描かれた通りであり、透視図的に、つまり「ハ」の字には見(知覚、認識)えなかったのではないか。端的にいってしまえばそういうことです。

 そして美術のモダニズムへの信奉に基づく文脈からは、つまり、今、自己に立ち上がる「見える通り見える」知覚、認識への無批判的信頼から来る文脈からは、過去の日本の絵に関し、習慣、様式の問題でそう描かれたのだと短絡的に切り捨てたり、又、「文化進化論と遠近法」で取り上げたように、「自我の確立が未熟であったため、客観描写には至らなかった。」からであるという一方的な解釈が充てられたりします。これは正に猪子氏のいう、「日本には自分達の特異的な文化の強みがあったのに、そういう部分を否定してきてしまった。」ということであり、これが一番、残念に思うところです。

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 もし、この単純な図柄の絵に、私が感じるような奥行き空間を感じない人がいれば、(その可能性は大いにあると思っています。)それはたとえば100年、200年前の人であろうとですが、重要なのは絵のイリュージョンうんぬんかんぬんという以前の問題、それは絵が我々にもたらす根源的な作用の問題であるかと思います。

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