日本の近代化という名において西洋文化が模倣されるまで、我国の芸術の最大の特徴は「写し」という創作原理にあったと思う。
 絵は狩野派や土佐派に見られるように、粉本、つまり絵手本を写したり、過去の作品を写すことにより描かれる。あるいは、書における「臨書」は手本となる古典を傍らに置き、それを写す。仏像や人形、欄間彫刻もそうだし工芸、建築、造園、活花にしても基本的には同じだ。茶道具の世界では現在においても「写し」という言葉が生きており、そうした創作原理において今も作られている。

 ここで断っておかなければならないのは、「写し」とコピーは違うものであるということだ。「写し」は、写されるものが持つ意味性や心の動き、趣や味わいといった価値を、体の中で読み込み、いわば、経験された総体としての記憶の回路を経て「写し」としてアウトプットされる。
 それに対してコピーは記憶の回路を経ず、つまり、対象の形や色が持つ、意味性や心の動きには一切関与せず、対象の形や色だけを機械的にcopy out する。たとえばコピー機や写真機のように、あるいは、透視法における透写装置で、固定された単眼視覚をcopy out するようにである

 従って「写し」は対象作品と全く同じものにはならないという違いを持つ。作り手の感受性や志向性に深く関わり、意識される、されないとに拘らず、その意味に向かって強弱、変形が加えられるからだ。そしてそのことを持って創作となるのだ。

 又、この変形は西洋技法である「デフォルメ」とは根本的に異なった考え方で成り立っている。つまり、西洋絵画のデフォルメは基本的に、対象が過去の作品では無く、自然が対象である(とされている)。従って、自然の形態が、作り手の主観により強調され、取捨選択され、変形されるとなる。
 しかし「写し」は過去の作品を対象にされ、作り手が読んだ意味性、心の動き、味わい、趣は過去の作品の作り手に多くを依っていることになる。そしてその過去の作品の作り手は、その又過去の作品の作り手に多くを依っているのだ。つまり、読まれる意味性、…趣などは作品それ自体に宿っており、それは個々の変形という変遷を伴い、遥か昔より継承されてきたものなのだ。従って、ここには作り手だけの主観による変形は存在しない、つまり、そういった意味においてオリジナリティは存在しないのだ。

 西洋技法である「デフォルメ」の出自は、透視法絵画からの脱却という目的において意味づけがなされている。それは透写装置で、固定された単眼視覚をcopy out されたものが透視法絵画であり、copy outする対象は単眼視覚で捉えられた自然(リアリティ)であると…。
 そしてcopy outされた自然に対し作り手が主観(オリジナリティ)を持って変形がなされるのである。しかし、これが本来的に人間の機能においてなされていることといえるのだろうか。つまり主観を持って変形、強調するという指針となる意味性の在り処は何処にあるのかということである。自然自体に基よりそうした意味性が宿っているとでもいうのか。これはプラトンのイデア論に起因すると思われるが「写し」の世界ではそのことがもっとシンプルに解釈されている。

Shunnzei
藤原俊成

 和歌における「本歌取り」という創作技法がそのことをよく表わしている。藤原俊成は「古来風躰抄」で以下のように述べている。

 「春の花をたづね、秋の紅葉を見ても、歌といふものなからましかば、色をも香をも知る人もな」

 つまり、俊成は自然の色や香り、形は、あるいはそれらを感受する心の動き、美しさ、醜さ、崇高、畏怖、風情、味わい等は歌によりもたらされると言い切っているのである。
 ここでは人が自然に接し、その体験により世界が認識されるではなく、言い換えれば、主観(オリジナリティ)と客観(リアリティ=実在)の関係性において自然があるのではなく、継承、共有された作品が、体験される世界をもたらすということである。従って詩的創作とは、過去の作品によってもたらされた体験的世界が対象となる。

 このことを持って、「写し」、「本歌取り」は正当な位置づけがなされる。本歌(=過去の作品)が写される(=本歌取り)ことによって、継承された価値(つまり世界)に変形が加えられ、未来に託されるのだ。茶道具において写される対象を「本歌」という如く、伝統産業の職人仕事にはこうした制作原理が継承されている。
 しかし悲しいかな、「写し」という制作原理は西洋由来のリアリティ、オリジナリティに真っ向から対立し、歪曲され、今や風前の灯火なのである。

本歌取りとコピー(2)に続きます

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