伝統産業の職人仕事は西洋由来のリアリティ、オリジナリティに対立するが故に、今や風前の灯火である。
 職人仕事の本質は、今いる人が使用するという社会的に共有された目的において、過去から継承された価値に変更を加えること、つまり、これが修理することであり、「写し」「本歌取り」の創作原理であるのだ。オリジナリティ(唯一性)の名において無から全く新しいものを作るというものでは断じて無いはずである。
 創作の原点は使用するという社会的共有目的と、そうやって変更を加えられ、過去から変遷、継承されてきた価値という、少なくとも二つの必須条件においてなされるのである。

 しかし、西洋のリアリティ、オリジナリティのくびきは「写し」「本歌取り」をコピー、レプリカ、盗作などと貶め、その行為を禁止する。その結果、そのモデルとして主導する、使用するということを一切剥ぎ取り、ただ鑑賞するという美術と、それに準ずる工芸が高尚なものとして崇められるのである。

 それに準ずる工芸とは、ある時代の一定の技法と一定の素材を限定使用し、オリジナルな作家性を持って作られるとする、高価な日展作家などの工芸美術のことである。そこには当然の如く、使用することを持って過去の価値を変遷、継承するということから完全に断ち切られている。(柳宋悦、民芸運動という錯誤 参照)

 そして、目先の利益だけで制定された保護法、伝統産業振興法が追い討ちをかける。ある時代の一定の技法と一定の素材を限定使用するなら施工場所は問わないというザル法である。たとえば手彫りの木彫製品でいうなら、木という天然素材で機械を使わず手彫りされるなら、それが中国の内陸部や東南アジアで施工されようが、日本で組み立てられれば日本の伝統産業製品として流通するというものである。そして、日本で作られた一個の製品が人件費の安い海外に見本として送られ、そこで大量にコピーされる。

 その結果、日本にある工芸品の殆どは、オリジナルな作家性で崇められる少量の高価な工芸美術と、大量の海外製品となる。そしてこの二つはどちらも、使用するという使用者と作り手の共有、あるいはそうやって受け継がれてきた伝統的価値の継承とは無関係であり、そうした継承、変遷が断ち切られるということだ。そして本来重要である日本文化の継承を担うはずの職人は貶められた上、仕事を奪われ廃業を余儀なくされるのである。こうして彼らがいなくなった時、かろうじて受け継がれてきた、生きた日本の美的価値の、次代への継承は完全に絶たれてしまうだろう。

 しかし、悪いことばかりではない。西洋由来のリアリティ、オリジナリティに真っ向から対立する、まるで「写し」「本歌取り」の創作原理を踏襲しているとしか思えない文化が、ここ10年くらい前からその要素を強め、台頭し、注目されているのだ。そしてそれはリアリティ、オリジナリティの本家である西洋社会にまで影響を与えている。

 それは一般的にサブカルと呼ばれるマンガやその周辺、アニメ、ゲーム、フィギュアー、コスプレ、同人誌の2次3次創作、pixiv系イラストなどである。

 これらは総じて、創作の対象は目の前の自然(リアリティ)では無い。対象とされるのは過去の作品か、記憶にある過去の作品である。
 過去の作品が宿す意味性、心の動き、趣、あるいは「萌え」などの要素が読み込まれ、記憶の回路を経て変更が加えられ、アウトプットされるのだ。つまり、それは読み込まれる意味性が宿る図像として、集団内において共有され、そして集団内の作り手と使用者が共有する志向性において変更が加えられることを示唆している。これは正に「写し」「本歌取り」の原理であり、そうした意味において、ここにはオリジナリティなど存在しないのである。

Pp1

Pp2
「本歌取りとコピー(3)~パラダイムの崩壊~」に続きます

美術ブログランキングに
参加しています
他メンバーのブログはここからどうぞ
どうぞよろしく…

にほんブログ村 美術ブログ 美術鑑賞・評論へ
にほんブログ村