<朝比奈逸人という作品(1)はこちらです>

 朝比奈逸人という名前を最初に見たのは、遡ること30年以上、私が24、5歳の頃だったように思う。それは高田渡の手になる美しい風景写真がジャケットを飾る、林ヒロシこと小林政広の自主制作レコード「とりわけ10月の風が」においてである。
 朝比奈逸人は何とそのアルバムでスライドギターを弾いていた。

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とりわけ10月の風が

 その頃私は京都に戻り、父の工房に従事しながら保守派の最右翼、日展洋画部を目指していた。従って美術家朝比奈逸人の作品とは未だ出会っておらず、そして出会ってからもミュージシャン朝比奈逸人がその人であると結びつくのはずっと後のことである。

 ミュージシャン朝比奈逸人を知るきっかけとなったのは高田渡なのだが、高田が京都に住まいしている時は残念ながらフォークソングなど興味がなかった。
 高田が山科日ノ岡に住んでいたことや、高田の盟友、バンジョーの岩井宏が粟田口の工房の目と鼻の先に居たこと、喫茶むいや六曜社、現代美術の老舗画廊、立体ギャラリー射手座での詩の会に出入りしていたこと等は知ってはいたが、まるで興味がなかった。
 ましてや難解な美術論やアバンギャルドな政治論を日長戦わせているといった趣のある立体ギャラリー射手座など、保守派の私としては怖くて入れなかったのである。ちなみに、射手座のすぐそばに三条大橋があり、その下の三条川原でベ平連や革新学生らの集会がよく開かれていた。そこから流れてきた連中が射手座にしばしば入っていくのを見た記憶がある。

 高田渡に魅せられたのは、1972年頃、私が石川県、金沢市の下宿屋にいた時である。自称バンジョーの名手であった友人Tに勧められ、聴いたのが「ごあいさつ」であり、これが高田渡にハマるきっかけだった。当時、人気絶頂であったイラストレーター湯村輝彦の手になるしゃれたジャケットのこのアルバムには、はっぴいえんど、加川良、岩井宏などが参加している。
 それ以降、高田渡に関連するレコードアルバム、著作、情報などを収集するうち、高田の近くにいたミュージシャン朝比奈逸人の存在を知るのである。

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ごあいさつ 高田渡

 私の家は貧乏で、絵描きになりたい等、ましてや美術大学に進学する等、飛んでもないことであった。しかし、絵描きになれないまでも、あるいは美大に入れないまでも、それに挑戦したという経験が欲しくて何とか親を説得し、…というか、殆ど親の反対を無視して金沢の美大を目指し京都を離れるのである。何故、金沢かというと、私淑していた高光一也をはじめ日展系の教授が多くいたからだ。

 しかし残念にも、…というか、お決まりのコースというか、つまり生活の糧であったアルバイトと、金沢で知り合った友人達とのバンドの真似事がたたり、美大入学は叶わなかった。…というか、やはり奇跡は起きなかったのである。

 そしてその2年後、京都に戻ると、そこにはもう高田渡はいなかった。三鷹に居を移した後だったのである。そして、そうこうしているうちに、遂にミュージシャン朝比奈逸人の演奏を見る機会も逸してしまった。なぜなら、朝比奈逸人は美術家の彼と時を同じくして、音楽の場からもいなくなってしまうのである。
 私の好きな彼の「トンネルの唄(長いトンネル)」「ウィスキーの唄(ライウィスキー)」は高田渡を通して知ったのである。そして美術家朝比奈逸人はミュージシャン朝比奈逸人と同一人物だと確信するのは、その活動を止めらてからである。

 ある時、高田渡がステージからこうつぶやいた。

 「朝比奈逸人のトンネルの唄というのがあります。彼は大阪の芸術大学で教えていたのですが、只今、消息不明で…」

高田渡 トンネルの唄 (トンネルの唄は3曲目です)

音痴の岡田が高田渡を歌う。「トンネルの唄」 作詞作曲 朝比奈逸人

 朝比奈逸人という人は何と多彩な才能をお持ちなのだろう。他にも東宝映画、「潮騒」で主演されたという。

 風の便りによると、朝比奈さんが活動をやめられたのは重い病に罹られたこと、そして今、病気療養中であるということだ。
 朝比奈逸人という作品に、再び出会う機会があることを切に願っています。

Siosai
潮騒(1971)<監督>森谷司郎<原作>三島由紀夫 東宝 
他に「白鳥の歌なんか聞えない」(1972)

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