唐突で恐縮ですが、ここに一つの現象に対して相反する二つの解釈があったとします。たとえば、規則的に動く天体です。この自然現象に対し、大地の上を天体が規則的に動いているという従来からの解釈があり、一方で、天体は動かず、大地の方が規則的に回転しているのだという解釈が提出されます。この解釈はあくまで観測データを基に導かれたものです。
 二つ目の解釈が提出された時、大地が動くことなどあってはならないという認識があったでしょう。恐らく、この認識は普段の経験知をベースに成り立ったものかと思われます。しかし、二つ目の解釈をフォローする観測データが次々に提出されます。そうした場合、従来の解釈の正当性を主張する者の取るべき道は、提出された観測データの意味することを精査し、その不備や間違いを論理的整合性を持って指摘することであり、少なくとも投獄することではなかったはずです。

 『「見える通りに見える」ということ』において、ポンゾ錯視やミュラー・リアー錯視を取り上げたのは、相反する解釈をフォローする一つのデータになり得るのではないかと考えたからです。
 相反する解釈とは、私は絵という平面に、奥行き空間を見るという、いわゆる絵のイリュージョンが、絵一般の持つ重要な要素であると当然のように考えるのは間違っていると思うのです。これはもちろん安積さんの一連の主張に対する思いです。

 断っておかねばならないのは、ポンゾ錯視やミュラー錯視に引っかかりにくい文化背景を持った人がいるのは、「ハ」の字、あるいは三角形を見ても奥行きが感じられない、つまり透視法的奥行きを持った道路として見ないからだ、というのは私の強引な結論ではありませんし、私が導き出した飛躍した考えでもありません。ポンゾ、ミュラー錯視が起こる仮説として、心理学ではそのことを想定されていると思いますし、ミュラー錯視の統計を行ったシーガルは透視法絵画や写真の浸透度の影響にも言及しています。そして単純な「ハ」の字から錯視が現れるのは事実なのです。

 シーガル(M.H.Segall)が行ったミュラー・リアー錯視強度の統計調査を簡単に紹介しておきます。中川作一著「目と絵の社会心理学」(法政大学出版局)によると、45年前シーガルが「The Influence of Culture on Visual Perception」Bobbs-Merrill Co.においてこの統計内容を発表したとあります。文化人類学者の協力を得たとする調査は、コイサンマン、ズールー、ファングなどのアフリカ原住民、ウガンダのアンコレや南アフリカの坑夫など、そしてヨーロッパ、アメリカ、カナダの都市部の住民に対して行われました。

Sakusizu

 図1が用いられた錯視図であり、右の主線が左の主線と同じ長さに見える距離Y、つまり短く見積もられた主線Yと左の主線L=Y+Xとの比率X/Y×100がズレ率として錯視強度となります。地域別被験者の50%がLの71.4mmがYの60mmと同じ長さに見える場合PSE=19と表されます。図1はPSE=19であり、これはカナダのエヴァンストンの市民の錯視強度となります。
 そしてこの錯視強度は建築物の長方形が少ない地域や透視法絵画、写真の浸透度が低い地域に行くほど弱くなり、つまりPSE=1(60.6mmと60mmで同じ長さに見える)に近づくという統計学的に有意な数値が得られたというのです。そして直線の多い建築物の量の大小により錯視度に差が生じることから「大工製環境の仮説」、あるいは、透視法絵画や写真の浸透度に係わるから「絵画経験の仮説」として意味づけされ提出されます。
 これは単なる矢印のような図形や単純な「ハ」の字、あるいは三角形から透視法的遠近を連想するという推測から遠方過大視という視覚の恒常性の作用が充てられるのです。他に大脳の視覚領域における電気生理学的な「場」の作用とする「ケラーの仮説」というのがありますが、これはどうして地域別に差がでるか、ということを説明し難いかと思います。

 いずれにしても、こうした統計調査を個人差や職業的技能の問題、あるいはたとえ、勘違いだとか捏造されていると断じ、問題視しないことも充分可能です。そしてこの調査は45年前であり、追試も難しいでしょう。大工製環境や絵画、写真の浸透度は当時に比べ遥かに増しているはずです。しかし、それだからこそこの調査は貴重であるといえ、この調査が正当に行われていた場合を鑑み、考慮することに値するものと思います。

 現実の知覚では、輻輳角や両眼視差などが働いている。それに比べ、図形と図像では輻輳角の違いも両眼視差も働かない。したがって、立体感は「正常な」奥行きの知覚ではない。同じ平面に書かれた図形図像は同じ輻輳角を持つ知覚であり、両眼像差もないので、視点を動かしても現れ方が変わるということはない。知覚の三次元空間の奥行きは、網膜上の映像から言わば構成されたものだけれど、実在が射影を通して現れているのであり、視点を移動させれば、事物の別の面が見えてくる。したがって、そうは見えない図像図形の奥行きは知覚ではなく、イリュージョンだということだ。

 と述べておられますが、これは全く的外れです。それに用語の使用に少々問題があろうかと思います。今問題にしているポンゾ錯視やミュラー・リアー錯視は輻輳角や両眼視差とは関係ありませんし、それにポンゾ錯視なども現実の知覚です。又、両眼視差や視線の移動による変化が、描かれた図像と現実の風景の違いであるというのは無理があります。 紙に描かれた図像でも平行視や交差視などの両眼視差の作用による立体視もあり、それに我々が遠くのものを見る場合においても、約12mも離れれば両眼視差は働かなくなります。(これは以前、大学での実験で確認しました。)
 それから視線を動かしてものの現れ方が変わるのと両眼視差の作用とは少し異なります。単眼で視線の移動を行えばものの現れ方は変わりますし、その上、両眼、単眼に係わらず、もっと遠くのものにはそれも無くなります。たとえば夜空にでる月です。我々が月を見る場合、両眼視差も視線の移動による変化も全く関与しません。しかしそれは現実の風景なのです。

 我々が遠くの風景を見る時、つまり、町並みがあってその向こうに森がある。そして森の奥には湖があり、その向こうに山がそびえ、山の向こうには雲がある。…という奥行き知覚、あるいはそうした認識は、両眼視差や視線の移動とは別の要因でなされることは確かです。そしてその要因とは何かということです。

 いずれにしても私は、少なくともポンゾ錯視やミュラー錯視には引っかかりますし、「ハ」の字を見れば奥行きを感じます。そこで私が考慮すべきと思うのは、こうした私の知覚、認識がどのくらい普遍性を持っているのかということです。史実として透視法絵画が入ってくるまで日本には「ハ」の字を遠近とする絵は無かったのです。当然のこととして遠近や前後関係を表現する絵は多くあるのに「ハ」の字には描かれなかった。そこには「ハ」の字に透視法的遠近を見なかったからであり、廊下を「ハ」の字として知覚されなかったという可能性がどうしても残ります。逆を言えば、私の知覚は透視法絵画や写真の影響下にあるという可能性です。そしてそのフォローがシーガルの統計調査なのです。

 私はそうした現実空間における知覚、認識を左右する絵や図像の作用という可能性が、上段で述べた別の要因の重要な部分ではないかと推測しています。その作用が絵や図像の隠された本質ではないかと。そして、そうした私の思いに相反するのが、透視法に密接に関係する絵画のイリュージョン信仰であるのは言うまでもありません。

最後にもう一つ。

…したがって、そうは見えない図像図形の奥行きは知覚ではなく、イリュージョンだということだ。

 私はこの部分がどうしても気になります。

…したがって、そうは見えない図像図形の奥行きは、実際には無い「偽の奥行き」知覚であり、イリュージョンだということだ。

 というのではダメですか。ダメならダメで結構ですが…。

引用ブログ

http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-772.html

http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-780.html

http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-779.html

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