絵という平面に、奥行き空間を見るという、いわゆる絵のイリュージョンが、絵一般の持つ重要な要素であると当然のように考えるのは間違っている、あるいは、そうした考えの盲目的固執を「絵画のイリュージョン信仰」と呼びましたが、これに関して少々補足しておきます。

 以前、美術評論とは何か:「知覚」と「想像」で画像の三層構造についてお書きでした。私はこの論の汎用が上段の私の思いと密接に繋がり、集約されるだろうと思っています。
 フッサールの著作は読んだことがありませんが、フッサールの分析による画像の三層構造という議論があることは以前何かで読んだことがあります。そしてその議論を知った時、それが絵一般に適用されていることに何か腑に落ちないものを感じました。これは写真という、いたって特殊な形態に限定されるのではないでしょうか。

 ここではフッサールの真意を計ることは私には出来ませんので、お書きになったブログと論文「図像意識の分析」のみを対象に腑に落ちない点を指摘します。

 ここで例に挙げられているのは子供の白黒写真です。そしてその写真には「物理的像」「像客体」「像主体」の三層より成り立っているといいます。
 「物理的像」とは物質である印画紙やその上にある細かい模様、絵ではカンバスや絵の具、筆跡などでしょうか。「像客体」とはそこに現れる像であり、ここでは子供です。絵では絵具や墨により描かれた何かのカタチになるかと思います。「像主体」とは像客体、つまり画像の子供が表象する主体であり、画像の主題ということになります。

 引用された例によれば、白黒の5センチ余りの画像の子供(像客体)は、生身の身長1メートル数十センチのピンクの肌をした、ほっぺたの赤い金髪の子供を模造再現しており、その模造再現されたものが「像主体」であるといいます。 
 このことは写真に関してはその通りでしょう。たとえば田舎から送られてきた祖父母のツーショットの写真画像は田舎にいる祖父母を模造再現しており、そこに祖父母の日常のある一瞬を見ます。つまり、写真の像客体から像主体を見るわけです。しかし、写真においては成立する「像客体」と「像主体」の関係が絵一般においても適応できるのだろうか。腑に落ちないのはその一点です。そしてそのことにおいて絵とは何かという理解に大きな違いが生じてきます。

 たとえば鳥獣戯画の相撲を取るウサギやカエルの像主体とは何でしょうか。相撲を取るカエルは、何を模造再現したものでしょうか。あるいはもっと身近な例を挙げると、たとえば印刷されたマンガの鉄腕アトムやサザエさんはどうでしょうか。アトムやサザエさんが模造再現する「像主体」とは一体何でしょうか。
 鉄腕アトムがアニメになる以前、実写版鉄腕アトムというのがテレビで放映されていました。マンガのアトム(像客体)は実写版アトム扮する子供の俳優を模造再現しているとでも言うのでしょうか。あるいは、マンガの図像であるサザエさんは江利チエミや 星野知子、 浅野温子 、観月ありさを模造再現しているとでも言うのでしょうか。

 俳優はマンガやアニメのアトムやサザエさんを演じているといえますが、俳優、あるいは実在する人物とマンガの図像とは本来的、形態的にいって全く別のものであると思います。つまり、マンガの図像は写真がそうであるように、実在する何かを模造再現したものではなく、図像として独立したものです。あるいは独立し、社会的に共有される図像の組み合わせにより成り立つものです。
 そこには鉄腕アトムという図像があるだけであり、それはアトムという個性や意味を持った自己完結した図像です。たとえるなら文字のようにです。たとえば文字「犬」は実在の犬を模造再現したものではなく、しかし、犬というカテゴリーをそれ自身で概念的に規定する機能を持っています。それと同様に図像アトムは実在の何かを模造再現したものではなく、その図像自身においてアトムを規定しているのです。
 こうした点においてマンガと写真は原理的に異質であり、又その点に関して、逆に写真の特殊性が見出せるかと思います。

 写真とは単眼視覚をコピーしたものであると言っていいかと思います。つまり光学写真機の場合、ファインダーにより四角く切り取られた我々の単眼視覚と同じといえるものが印画紙に焼付けられます。それが写真プリントです。又、写真の発明において、写真プリントが我々の単眼視覚をコピーとして、取り出したものと認識、共有できる唯一のものだったはずです。それだからこそ、田舎から送られてきた祖父母の写真から、ここにはないカメラのファインダーの自分の単眼視覚を想定し、田舎の祖父母をそこに見ることができるのではないですか。つまり写真一般においてのみ、己の単眼視覚のコピーであるという共通認識がそこにあるといえ、逆を言えば写真の発明がなかったならばそうした認識は存在しないといえます。そうした点において、写真の持つ作用は絵巻やマンガ、つまり従来からある絵とは全く異質であり、発明によってもたらされた特殊性だといえます。

 この写真原理は西洋において15世紀より開始される透視法、デューラーの銅版画でお馴染みの透写装置と同一です。そしてこの発明以来、単眼視覚を模造再現することが絵の根本原理とされ、そしてその制作原理は長らく続きます。もちろんそれは化学変化による方法が見出されるまで、手描きで行われます。従って「再現」という言葉には、実質的にそれが行われたかどうかは別にして、単眼視覚の模造再現という意味が含まれているはずなのです。

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 しかし我国の創作において単眼視覚、あるいは視覚の模造再現ということに意識が向けられるのは透視法絵画や写真が入ってから以降です。それは我国において写真は発明されなかったから当然のことであるといえます。それ故、絵の図像は視覚を再現したものではなく、図像は視覚から独立したものであったことは、過去の制作方法であった絵師たちの絵手本で共有される図像を写す粉本主義、又、マンガの制作方法が示しています。
 マンガ制作において、描かれる図像は視覚を対象とはされません。つまり印象派のようにモデルを見て描かれず、主にデスクワークです。対象とされるのは社会的に蓄積された意味を伴った図像の記憶であり、その記憶にある図像が組み合わされ、構成されたものがアトムです。つまり粉本主義における絵師が絵手本を使いまわすように、アトムの目や鼻、口、顔の輪郭などの各部品、又は動作表現、感情表現は多くのマンガ家の記憶に蓄積され、使いまわされています。(詳しくは「点目の記号論」

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 ここで指摘すべき点は、写真が発明されることにより、絵への理解が確定されてしまったということです。つまり、人は記憶にある概念的な図像を対象として絵を描いていたのですが、(これはあまり意識されずに行われていたと思います、)写真の発明により単眼視覚の模造再現という理解が生じてしまったのです。これが画像の三層構造という論の汎用に現れているのでしょう。それは写真の発明は絵を応用することによりなされた訳であり、一時期、絵と写真は渾然一体となっていたのは確かです。しかし本来的に単眼視覚をコピーするのにはカメラオブスキューラや透写装置、写真機などの光学機器がどうしても必要で、人間の生理学的機能からいえば実際的には無理があるといえます。そして、もし、写真というものが発明されず、世の中に写真が存在しないならば、単眼視覚の模造再現という視覚を対象とする絵の理解は生じなかったはずです。

 私はこうした絵の理解は人間の本来的機能から行われている実質性と矛盾があると考えています。絵と写真は全く別のものであり、それを一緒くたに論じるのは間違いであるかと思います。

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