確認はしていないのですが、「再現」という言葉はre-presentation、re-appearance、re-productionの意味を持つ言葉として、新しく造られた言葉ではないでしょうか。それというのも明治の近代化において、日本には無い西洋の概念を導入するため、西洋と同じ意味を持つものとして新たに多くの言葉が造られたからです。

 美術、文学、哲学、時間、空間、現実、実在、主観、客観、文化、文明などがその時造られた言葉であり、その数はかなりあるといいます。

 もし「再現」という言葉がそうした造語であるとするなら、当然のことですが、それ以前は我国には「再現」という言葉はなかったはずです。しかし、これも当然のことですが、我国には絵や彫刻をはじめ、西洋に匹敵する多くの芸術がありました。
 それなら、我国において絵などの芸術を創作するにあたり、「再現」に代わる言葉は何であったのかという疑問が生じます。

 ここでいう「再現」とは、前回取り上げた画像の三層構造における「物理的像」「像客体」「像主体」の関係、つまり、それは単なる物体に留まらず、その物体を通し、何か別のものを想起するという絵や画像に関して、「物理的像」→「像客体」がここには無いはずの「像主体」を模造再現するとした時の「模造再現」のことです。
 「画像(写真)の子供(像客体)は、生身の身長1メートル数十センチのピンクの肌をした、ほっぺたの赤い金髪の子供を模造再現しており、その模造再現されたものが「像主体」である」という時の「模造再現」に代わる言葉は何かということです。
 というのも画像の三層構造は写真だけではなく、絵もその構造を持つものとして汎用されているのだから、同じように古くから絵という芸術形態を持つ日本に、つまり「(絵=)それは単なる物体に留まらず、その物体を通し、何か別のものを想起する」というものである限り、それに当てはまる言葉がなくてはなりません。

 そこで思い付いたのは「見立て」という言葉です。「見立て」は絵や彫刻をはじめ、和歌、歌舞伎、茶の湯、活花、造園など、我国において芸術創作の重要な要素です。辞書によれば「見立て」とは、「ある物を見たときに、別の物を想起し対応付けること。」「ある物の様子から、それとは別のものの様子を見て取ること。」とあり、定義においては「見立て」は「模造再現」に対応しており、言い換えられるはずです。ちなみに 和英中辞典によれば「見立て」の英訳は「選択」(a) choice; (a) selection で、「見立て違いをする」 make the wrong selection ということになり、上のような意味はありません。従って、上のような意味は「模造再現」ということになるのでしょう。

Sinzanyukoku

 たとえば、活花や造園の枯山水などは、中国の深山幽谷の風景を「見立て」ているといいます。そしてその「見立て」は「再現」に交換可能です。つまり「枯山水は中国の深山幽谷を再現している。(→見立てている)」という風にです。あるいは盆栽の小さな松は自然の老巨木が見立てられており、やはり「再現」と交換可能でしょうし、絵についても、床の間を飾る掛け軸の水墨画はその空間に中国の深山幽谷が見立てられ、又、再現されてもいます。

 しかし逆に、画像の三層構造における「像客体」が「像主体」を「見立て」ていると言うと何か変です。「画像(写真)の子供(像客体)は、生身の身長1メートル数十センチのピンクの肌をした、ほっぺたの赤い金髪の子供を見立てており、その見立てられたものが「像主体」である」と言うと何か変で、言い換えは不可であると思います。

 つまり、「見立て」は「再現」に言い換え可能ですが、「再現」は「見立て」には言い換え不可ということになります。これは両者のある部分が決定的に異なっており、故に、「re-presentation」=「見立て」とはならず「再現」という言葉が充てられたのでしょう。従って、この両者のある部分の違いが西洋と日本の絵の捉え方の決定的な違いと言えるのかも知れません。


 枯山水で中国の風景を見立てる場合、理論的に画像の三層構造に分割することができます。作庭に用いられる岩や玉砂利が「物理的像」であり、それにより構成されたものが「像客観」で、その「像客観」が見立てるものが中国の風景であり、それが「像主体」となります。しかし、この三者の関係は画像の三層構造に比べ、ずっと緩い関係にあるといえます。つまり岩や玉砂利は印画紙に比べ、ずっと主張しているし、それを少し注目や移動するだけで像主体である中国の風景はたやすく消去あるいは変更できます。この時、像主体は画像の像主体に比べ、ずっと弱いと言え、「物理的像」「像客観」「像主体」は並列に近い関係にあり、逆に画像(写真)の像主体は突出して強く、印画紙を墨で塗りつぶしたり燃やさない限り、なかなか消去、変更することが出来ません。

Usagiringo

 デザートのウサギリンゴは、リンゴをウサギに「見立て」ているのですが、リンゴでウサギを「模造再現」しているとも言えるでしょう。しかし、ここでの「物理的像」であるリンゴは強く主張しており、見立てられているウサギ、つまり「像主体」は極めて弱いといえます。たとえば、おやつの時間、幼児にウサギリンゴを出して、「これは何ですか」と聞くと「リンゴ」と答えるのが一般的でしょう。「ウサギ」と答える子もいるかも知れませんが、少ないと思います。しかし、祖母が「模造再現」された写真を見せ、同じ質問をすると、「おばあちゃん。」又、子供の写真ならば、「男の子。」又は「女の子。」と答えるでしょう。「印画紙。」とか「紙。」あるいは「写真プリント。」と答える子はいないと思います。
 ならば、「その物体を通し、何か別のものを想起する。」あるいは「ある物を見たときに、別の物を想起し対応付けること。」という定義は同じであるのに、この違いは何処にあるのでしょう。

 それは「見立て」られるものとは、此処には無いもので、あるいは、何処にも無いものかも知れないが、しかし、皆の記憶に共有され、その象徴である、と考えられます。
 枯山水を造る庭師や、それを鑑賞する人の多くは、実際に実在する中国の風景などは見た経験など無いと思います。だから本当にこうした風景があるのかどうか解らない、しかし作庭材料のある配置は、皆の記憶にある深山幽谷というものが立ち上がる象徴としてあり、実在の風景を見るという経験などとは、少なからず別のことです。つまり、枯山水が、あるいは掛け軸の山水画それ自体が、深山幽谷という共有される観念、記憶を包含しているといえます。

 しかし写真(画像)においては、これとは全く異なります。写真は単眼視覚をコピーしたものであり、コピーされるものとは、それぞれ個別の私的な実在を見るという経験です。写真において共有されているのは「見た通り」であるから、他の誰かの私的な単眼視覚のコピーであっても自分、あるいは多くの他人の単眼視覚と置き換えられます。つまり、夜の京都駅の写真は、誰かの私的な単眼視覚のコピーであっても、それは誰もが私的に見る夜の京都駅であるのです。

 つまり、写真の発明を発端に、誰かの私的な何かを見るという経験が拡張され、又、抽出され、皆の視覚として一般化してしまいます。因って、写真に写っているのは我々一人一人の視覚であり、写真は我々個々人の視覚に直結していると言えます。又、ファインダーで切り取られた実在の風景には実在の奥行きがありますが、印画紙上にコピーされたその風景は、同じであるにも拘らず、平面です。従って、そこに強力な像主体を持つ、画像の三層構造が立ち現れ、又、絵画のイリュージョンという発想が生まれるのでしょう。すなわち、これらの発想は写真と言う特殊性により導かれたものです。

 「その物体を通し、何か別のものを想起する。」という「見立て」と同じ定義を持つ「再現」には、個々人のものではあるが一般化された視覚というものを対象にした「模造再現」であるという重大な意味を含んでおり、「見立て」には視覚を対象とはされていないという根本的違いがあるといえるでしょう。従って、写真と絵を画像の三層構造により、ごちゃ混ぜに論じるべきではないのです。この混乱の原点は、写真(透視法)の発明という特殊性により、もたらされたものと考えられます。

「見立て」と「再現」2 へと続きます

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