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B図

 御考察ありがとうございます。今まで読ませていただいた感想を述べるなら、貴方は用語を曲解しておられるということをまず言わなければなりません。

 大辞泉によると、錯視とは「視覚における錯覚。形・大きさ・長さ・色・方向などが、ある条件や要因のために実際とは違ったものとして知覚されること。」とあります。又、Yahoo百科事典には「錯視はなんら特殊な異常な現象でなく、正常な知覚である。」と記されています。

 これが一般的に「錯視」という言葉が持つ意味であり、その現象が短時間で修正されたり、長時間現れたり、恒久的に現れるということで区別されるようなものではありません。そしてポンゾ錯視における同じ長さの二本の線分が異なって見える「ある条件や要因」とは、平面上に付随して描かれた「ハ」の字やレールであり、これが透視法的遠近を誘発し、遠方過大視により錯視が生じるというのが、広く認知された意味付けのポンゾ錯視というものなのです。従って、私が描いたB図はポンゾ錯視そのものであり、これは有名な錯視例として引用したまでです。

 「なぜ、これが錯視だと思うのだろうか。錯視に特有な感覚はない。」と思われるのは安積さんの勝手ですが、その勝手を持って、言葉の持つ意味や、広く認知され、定義された「錯視という現象」は変えることは出来ません。変えたいのであれば、それなりの根拠の提示が必要かと思います。

 又、私は「図形と図像を意図的に混同させている」のではありません。論点が違います。つまり、写実的に描かれたレールの「ハ」の字に敷かれた同じ長さの枕木が、同じ長さであるにも拘らず、遠方(上方)へ行くほど短く描かれる、だからこそ平行であるはずのレールが「ハ」の字に描かれる訳ですが、そうした描き方、あるいは、見え方、捉え方と言ってもいいのですが、それがどれくらい普遍性を持つのかを問いたかったのです。

 安積さんは、それに関しては少しの疑問も持たれてはおらず、視覚が捉えた現実世界の有り様を信頼しきっておられるようですが、私は違います。
 実際、安積さんはこのB図に対し「返事2」において「三角形にも、まっすぐ伸びる道路にも、どっちともとれる絵」とお書きです。このことは、少なくとも我々は平面上の三角形らしきこの図を見て、まっすぐ伸びる道路を見てしまうというということであり、この図に道路の透視法的奥行きを知覚したという証です。
 しかし、貴方や私が見てしまうそのことが、果たして普遍性を持つのだろうかという疑問です。つまり、私達以外の人間にも、そう見えるのか、世界中の、どの地域の人間にもそう見えるのか、あるいは、時代を通じて、すべての人間にもそう見えるのか、という疑問です。もし、見えるとするなら、「ハ」の字として描かれる道路や線路や廊下の絵が透視法発明以前には何故無かったのかという新たな疑問が生じます。

 有名な錯視図であるポンゾ錯視を引用した理由はそこにあります。そしてここで重要になるのは、この錯視が現れる意味づけ、つまり付随した「ハ」の字という図が透視法的遠近を誘発するということであり、又、それと同じ意味付けを持つ、シーガルが行ったミュラー・リアーの錯視強度の統計調査結果です。その調査結果とは、地域や文化的背景より、その錯視強度が異なるということであり、二本の線分の長さに違いを見ない人がいるということです。この錯視強度の違いを「大工製環境の仮説」「絵画経験の仮説」と意味付けられています。つまり、三角形らしき図を見ても、そこに透視法的遠近を持った真っ直ぐのびた道路に結び付かない人がいるということであり、逆を言えば、我々は透視法の影響を受けているということになります。

Sakusizu
錯視強度の統計調査に用いられたミュラー・リアーの錯視図
(Y=60mmがカナダのエヴァンストンの市民が感じる左Lと同等の長さ X/Y×100が錯視強度)

 シーガルが行った調査が正しいとするなら、あるいは、その意味付けが正しいとするなら、平面上の三角形らしきこの図を見て、まっすぐ伸びる道路を見てしまうというということに普遍性は無いということになります。しいては、平行であるはずのレールが「ハ」の字に描かれる、そうした描き方、あるいは、見え方、捉え方に普遍性は無いという可能性が生まれます。そして、議論の本質はここにあります。

 そのことは何を意味するのかというと、ただただ、絵を見える通りに見る、鑑賞することにおいては、作者、あるいは作品の共有を得る保証は無いということです。たとえば、B図における私の思惑、「何も無い砂漠のような広大な空間に、地平線に向かって真っ直ぐ伸びる一本の道路。経験的にいえば、この絵を高さ2メートルくらいに拡大し、画廊の壁面に掛け、その前に立つと眩暈がするほどの奥行き空間が感じられるはずです。」(1)という私の思惑は文化的背景によって、通じないということです。

 しかし、弊害が大きいのはその逆です。透視法(写真)を基盤においた西洋近代絵画の文脈に浸透した鑑賞者、評論家の目は強靭で覇権的で影響力があり、大きな弊害を生みます。
 異端、つまり西洋近代絵画の文脈に適合しない絵を認めることが出来ない、あるいは理解出来ないという弊害です。実際、西洋近代絵画に密接に関連する文言、つまり、リアリティ、オリジナリティ、再現、表象、デフォルメ、表現、3次元空間、イリュージョン、主体、客体、平面、コンセプト等々に結び付きにくい最近の絵を、イラスト、サブカルとして切り捨てるのは事実でしょう。そして、恐らく、こうした異端原理で描かれた鳥獣戯画や信貴山縁起絵巻などもイラストというになるのでしょう。

引用ブログ http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-784.html
(1)       http://manji.blog.eonet.jp/art/2011/09/post-a0b6.html

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