日本の芸術において、「見立て」られるものとは、皆が記憶の中に共有する事物であり、西洋においての「再現」されるものとは、作り手が見た事物という意味合いを持つ、と前回述べました。つまり、「再現」においては、作り手個人の視覚(視覚像)の模造再現ということになり、その模造再現されたという了承は、皆が共有している視覚(視覚像)というものにおいて担保されます。そして皆が共有する視覚(視覚像)とは、「写真と再現2:カメラオブスキューラ」で指摘したように、光学現象と同義の視覚です。たとえばデジカメのモニター画面の光学現象である像は、私個人の視覚(視覚像)として了承され、尚且つ、我々の視覚(視覚像)としても了承されています。
 そして、日本においては、こうした視覚(視覚像)を模造再現するという行為も了承も無かったということです。

 誤解を恐れずに言えば、「見立て」と「再現」という二者の関係は、一方がもう一方を食らう、弱肉強食のような関係にあるのではないかと思っています。

Mitatenokinko

 かつて「見立て絵」というのがありました。図は鈴木春信の「見立ての琴高」という絵ですが、これは遊女が琴高仙人に見立てられ、あるいは逆に、琴高仙人が遊女に見立てられているという二重、三重の見立て趣向を持った絵です。現在においては遊女も琴高仙人も、かつてあったような共有は既に我々の記憶にはありませんから、その趣向や意味することを正確に味わうことの出来る人は殆どいないと思います。

 琴高仙人とは中国から「列仙全伝」により伝わり、広く流行し、巨大な鯉にまたがる仙人として、当時、多くの人の記憶に共有されていたと推測出来ます。鉄腕アトムが我々の記憶に共有されているようにです。もちろん、この琴高仙人の一場面は特定の作り手の視覚(視覚像)を再現されたものではありません。従って、その一場面を内容や情感共々、当時の多くの人の記憶にインストールするには、図像、あるいは、お話として繰り返し見、描くことにより流布される必要があります。現に琴高仙人のモチーフは繰り返し、描かれ、作られ、使い回されています。下図の彫刻は東照宮、陽明門にあります。

Kinkosennin

Kinkosennin2

Kinkosennin3

 遊女も又、しかりです。この遊女は、春信の特定の遊女を捉えた視覚像を再現したものでは無いと言えるでしょう。遊女のコスチュームやヘヤスタイル、メイク、着物や帯の種類や柄、着こなし方など、多くの絵師が繰り返し描くことによって記憶にインストールされた、遊女を象徴する図像であり、この図像そのものが遊女の意味性、情感を喚起するのです。逆にそうした手続きが無ければ象徴とはなり得ません。こうした手続き、原理において「見立て」は成立し、「見立て絵」が成り立つといえます。

 しかし、「再現」においては、こうした手続き、原理は否定されてしまいます。
 それは、オリジナリティという問題によってです。オリジナリティとは唯一性と訳され、この唯一性とは、絵は私個人の視覚が捉えた像を「再現」したものであるから他の人のものではない、唯一私のものである、ということから由来するのでしょう。

 オリジナリティの概念が生まれるのは、18、9世紀頃の西洋です。それまでにおいても、透視法以来、絵は視覚像の再現という了承はあったでしょうが、上記した通り、視覚(視覚像)は光学現象として共有されており、その視野を何処に据えるか、何処を切り取るか、その視点の取り方、トリミングだけが個人の範疇であり、後は再現する上手下手の内に吸収され、あまり問題にされなかったのでしょう。
 問題は透視法を乗り越えるという名目において、光学現象としての視覚より、個人、主体に重きが置かれる頃です。そもそも主体と客体という枠組みそのものも、私個人の視覚(主観)が捉えた像(客観)という了承の延長線上にあるのですから、視覚の再現という了承は据え置かれ、又、強調されます。

 象徴的なのは、透視法を乗り越えるという名目において考え出されるデフォルメという技法でしょう。デフォルメとは「変形」と訳されます。事物を誇張したり個性を出すために変形されるのですが、それは何が変形されるのか、ということが問題です。変形した元の形とは何であるかということです。それは、私個人の視覚が捉えた像、視覚像の他でもなく、そしてそれはカメラオブスキューラやデジカメのモニター等に現れる光学現象である像と同義なのです。つまり、私個人の視覚が捉えた像を、私の主観によって、誇張を目的に変形し再現する。これがデフォルメであり、これがオリジナリティ(唯一性)の出所です。

 そうしたことから「見立て」の要素である、記憶にある象徴としての図像の生成条件、つまり、その像を何人もの絵師が繰り返し描く、使い回すなどの「写し」と呼ばれる制作原理がオリジナリティの名の元に、コピー、レプリカ、贋作、盗用として忌避され、禁止されるのです。
 そしてそれは「見立て」あるいは、日本の絵そのものの否定であり抹殺です。

 たとえば「点目の記号論」で取り上げた、マンガの点目表現というのがあります。「目が点になる」などの流行語をもたらした、目を点で描く、マンガ表現です。この図像表現は単なる記号でも、マンガ家の視覚が捉えたモデルの目に変形を加えた、所謂デフォルメでもありません。これは多くのマンガ家がそれを使い回し、読者がそれを共有することにより多くの人の記憶に生成された象徴としての、それ自体意味を持つ図像なのです。マンガ、あるいは絵とはそうした機構を持つものなのであり、それを否定すればマンガや絵は成立しません。

 点目は同じ表現にも拘らず、意味の変換が一度なされます。つまり「キレて暴れ出す直前」の人の目から「驚きあきれる、唖然とする」人の目に変わります。このことは、点目は現実の人の表情、つまり、マンガ家の視覚が捉えたモデルの表情から再現、デフォルメしたものではないことを表わしています。こうした機構は、絵師の絵手本にある図像を使い回す粉本主義にも通じ、又、近年多く目にする若い人の作品、それはイラスト、サブカル、オタク系などと呼ばれていますが、そうした制作原理にも通じています。

 私は西洋由来の「再現」あるいは、視覚(視覚像)の模造再現、そしてオリジナリティを疑ってみる必要があるのではないかと思っています。

「見立て」と「再現」

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