Kaomoji

 集合的無意識とはユングが提唱した概念である。事典によると「個人の経験による無意識より深く、同じ種族や民族あるいは人類などに共通して伝えられている無意識。普遍的無意識。集団的無意識。」とある。
 たとえば、多くの無垢な幼児が蛇に恐れを抱くのは、民族、あるいは人類の蛇に対する過去の経験、記憶が蓄積され、無意識として受け継がれているからであり、その無意識が蛇を見るということにおいて、恐れという感情として顕在化し、個人の私的な経験には関係なく、個人の意識や行動に影響を及ぼすのだという。

 この説に説得力があると思うのは、少なくとも我々が使用する言葉や文字、あるいは図像がこうした構造を持っているからだろう。

 純粋に新しく今までに無かった言葉や文字は、個人が作ろうとして作れるものではない。その大部分は過去から継承されたものであり、その使用において共有される意味や情感は過去から継承されたものだ。
 たとえば「蛇」という文字は蛇を指し示し、蛇という情感を伴っている。これは個人によって変更は出来ない。そして言葉や文字は意味や情感を伴って個人の記憶にあると共に社会の構成員それぞれの記憶にある。又、言葉や文字、あるいはそれを使用するための文法などのルールは、未だ知らない言葉や文字も含め、その総てが意識上に現れているわけではなく、使用を通して顕在化されるのはほんの一部だ。いわば社会の構成員の誰もが取り出すことができる辞書のようなデーターベースがそれぞれの意識下にあり、そのデーターベースが個人の情感や行動に、あるいは集団の意志に影響を与えるということではないのか。

 たとえば「悲しくて泣く」という場合、悲しい出来事はそれぞれの個人が私的に出会う事象であり、泣くという行為もその時現れる私的な感情である。しかし、悲しくて泣くという事象と行為は過去から継承された「悲しくて泣く」という言葉において既に社会の構成員にデーターベースとして共有され、それによって私的な感情と行為は一般化される。あるいは「悲しくて泣く」という感情と行為として規定され個人の内に顕在化される。このことはユングの集合的無意識と構造を一にするのではないか。

 こうした社会における共有は議論や合意などという以前の問題であり、ルールや取り決めなどの遥か深層に位置する人類が持つ根源的で生得的なものだろう。そしてこうした生来的な構造は近年、メディアの発達、特にパソコンとネットの普及により加速され複雑に増殖しているのではないか。

 たとえばネットやメールで使用される顔文字(^o^)は誰が決めたものではなく、学校で習ったわけでもないのに、この図像が持つ意味性、情感は社会の構成員において共有されている(だろう)。この図像を眺めていると、ある種の表情が持つ情感が意識上に浮かんでくる。恐らくこの情感は多くの人に共有されているのに違いない。

 この文字であり図像である(^o^)の意味性は、信号機の赤色の「止まれ」という取り決めなどではなく、図像それ自体が持つ観念であり、その観念はメールやネットで個々に使用されることによって形成される。そしてこの図像は現実の人の表情(笑顔)の特徴を抽出し抽象化した図であるとも言えるし、あるいは逆に、この図像が現実の人の表情や感情を、そしてそれに纏わる行為までも規定しているとも言えるのではないか。

 いずれにしても注目すべきことは、何の前提も取り決めも無く、皆がこの図像を読めてしまうということであり、既に意識下にデーターベース化してしまったということであろう。又、そうした社会における共有の機構が存在するということであり、それは人類において根源的で生来的な機構に由来し、コンピューターやネットがそれを増幅し加速するということだろう。つまり、コンピューターやネットは人間の意識構造に大きな親和性を持ち、社会における膨大な共有を無意識領域で形成していくのだ。

 ジャンジャックルソーは社会契約論において、皆の熟議において集約され決定される全体意志に対し、そもそも民主主義の根幹であったはずの熟議、集約がその形成の邪魔をするという一般意志なるものを想定し、情報さえ充分であれば熟議無しで形成される一般意志こそ、より信頼性があり、より重要であると述べている。
 恐らく、東浩紀が著書「一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル」でこの悪名高きルソーの一般意志を集合的無意識として読み解いたのは、こうした構造とネットによる現状の実感によるものではなかっただろうか。

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