「我が目を疑う」を辞書で引けば「実際に見ても信じられないほど不思議に思う。」とあるが、その時、私は正にそうした思いに駆られた。何せ、川が逆流していたのである。…というより、私が常識的に思っていた川の流れと、実際の川の流れが異なっていたのだ。
 常識的だというのは、川というものは高い所から低い所に流れるということだ。何故なら、その川の所在地であり私の散歩のコースである京都の地形がそうだったからである。京都盆地は逆Uの字に山に囲まれ、北が高く、南に緩く傾斜している。従って、京都市内を流れる川は北から南へと流れるというのが大原則なのである。
 北山から流れる加茂川は東山からの高野川と合流し鴨川となり、西からの桂川と合流、南行し、淀川となり、やがて大阪湾に至る。これが風水で言う京都の「地理」なのだ。

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 私が「我が目を疑」った現場は丁度、南北の垂線を描いて南へ流れる白川の東へ約100mの地点である。白川は東山山系の比叡山を源流に南へ銀閣寺、岡崎公園、祇園の花街を貫け、鴨川に合流する美しい川である。そして白川の南北の垂線に平行する京都盆地東の最端の小道、「哲学の小径」沿いに問題の小川が流れていたのだ。
 哲学者、西田幾多郎が散策したという通称、哲学の小径は南禅寺に隣接する若王子神社を南の起点とし北の銀閣寺参道に合流する南北の小道である。

 私は朝9時に粟田口の工房から南禅寺を抜け、若王子神社から哲学の小径を歩き、銀閣寺の参道、今出川通りに抜けようとしていた。朝のウォーキングだ。銀閣寺の参道を西に曲がり、大きくUターンする格好で吉田山の麓の道を南下して工房に戻ると、約7キロ約1時間という、行きが登りで帰りが下りのいつもの道程だった。

 哲学の小径沿いのその川は水面が道より低く、川辺に近づかないと見えないのだが、その日はたまたま川辺に近づき、流れに目をやったのだ。…「我が目を疑」った。何とその川は如何見ても私と同じ進行方向、つまり北へ流れていた。約100m西を平行して流れる白川は真反対の南へと流れているというのにだ。又、歩く感触として明らかに登りであるのにも拘らずだ。そして京都の川はみんな南へと流れるのにも拘らずだ…。

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 私が歩くのと同じくらいの速度で流れるせせらぎを見詰めながら北上し銀閣寺の参道まで来るとその川は真西へ進路を取る。もう少し先に行くと当然、白川にぶつかるはずだ。そして又もや「我が目を疑」った! 何とその川は白川の下をくぐり、合流することもなく、悠然と向こう側に流れていたのだ。
 白川と交差する辺りの銀閣寺派出所に隣接してダム様のものがあり、白川の下の地下にその川の水は流れ落ち、貯められ、溢れ出た水が白川を下を通り、一滴も交わることがなく向こう側に流れ出ていたのだ。

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 私は驚き、散歩のコースを逸脱し夢中でその川の行方を追った。北白川通りの橋を渡り、尚も西に行くと、京大農学部正門に出る手前でその川は北へ90度進路を変える。農学部のグラウンド沿いに北に進むと東西の御影通りに交差する。

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  この辺りまで来ると先程まで穏やかに流れていた川はいくつのもの滝を形成し、勢い良く北上する。そして川沿いの小道は北に向かい登りの急勾配であるのだ。東西に交差する御影通りは東に見える造形大学の大階段を頂点に西に下っていくという非常に起伏に富んだ箇所であり、勢い良く北上する川は物理法則に逆らっているかのようで眩暈すら感じる。

 尚も北上すると交差する東西の北大路通りを過ぎた高野辺りで、川は北西にカーブし、住宅街の生活道路上で川は暗渠となり、そしてその道自体が高さ3mあるかと思われる巨大な石垣に阻まれ、突然行き止まりになってしまった。今迄延々と歩いて来た道が突然目の前に現れる異様で巨大な石垣によって行き止まりになるというのは、ある種の衝撃があるものだ。私はそうした衝撃に言及した小泉八雲の「茶碗の中」という不思議な話を思い出した…。

 その巨大な石垣には小さな階段があり、石垣の上部に登れるようになっているのを発見して、この石垣が何であるかを私は理解した。その小さな階段を登っていくと目の前に現れたのは予想した通り大きな河があり、この巨大な石垣は加茂川と合流する前の一級河川、高野川の堤防だったのである。逆流する小川は遂に高野川にぶつかったのだ。

 私は堤防を登り、高野川の土手に降り、高野川と小川の合流口を探した。堤防を含めると幅7~80mあろうかと思われる一級河川の高野川である、よもや、合流せず小さな川がその地下をくぐり抜けるなどあるはずはないと思った。しかし、合流口は見あたらなかったのである。
 そして高野川の土手沿いに下流にある北大路に架かる橋まで歩き、それを渡り、向こう岸に目印を決めておいた地点まで戻って堤防を登ると、何と、小さな逆流する川は悠然と流れていたのである。私は感動した。白川だけでなくこの小さな川は第一級河川の大きな高野川の地下をくぐり抜けていたのである。
 高野川の水面はこの小さな川の水面よりうんと低いところにある。恐らく白川の場合と同様に、両岸に深い縦溝が掘られ、そこから落ちた水が高野川の地下を貫通するプールに溜められ、向うの縦溝から溢れ出ることによって、小さな川は高野川と一滴も交わることなく、その純粋性を保ち尚も西へと流れるのだ。

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 何故、そんなことをする必要があったのか…。もし高野川の向うに川が必要なら、新たに高野川から水を引けばいいだけの話ではないのか。労力とコストをうんと省けるではないか…。

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 高野川の下をくぐり抜けた川は閑静な住宅街を流れ、程なく松ヶ崎浄水場という看板を挙げた古びた建物に入っていった。そしてこの逆流する小川の正体は、小さな橋に刻まれていた文字から琵琶湖疏水であることを知るのである。琵琶湖疏水とは明治時代に琵琶湖から水を引くため人の手によって作られた運河だ。つまり、重機やハイテク技術も無い時代に、京都の風水をことごとく無視し、逆流させ、そして大きな河の下をくぐらせたということになる。まるで奇跡のようだ。

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 小さな逆流する川は浄水場を過ぎてからも尚、閑静な住宅街を西に向かって流れ続ける。そして北から流れてくる三番目の泉川と交差するのである。泉川は高野川と加茂川のほぼ真ん中を南下し、下鴨神社のある糺の森を抜け、鴨川に合流する川である。 しかしこの川との交差は、今までとは異なり地下をくぐり抜けたりはしなかった。

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 高さ30cm位のコンクリートで作られたレーンにより巧みに流水がそれぞれの川に分けられていた。琵琶湖疏水は泉川と混じることにより、その純粋性を失ったが、しかし、何事も無かったかのようにその佇まいを変えることなく閑静な住宅街を尚も西に向かって流れていった。

 下鴨本通という南北の道に架けられた橋をくぐってまもなく小川は南西に進路を取る。そして高野川を交差した時と同じように暗渠となり、堤防により川沿いの道は行き止まりになるのだ。4番目の川、加茂川とぶつかったのだ。
 京都を逆流する川は、よもやこれで終わりではないはずである。加茂川というもっと大きな河の地下をくぐりその向うに悠然と流れているはずである。その証拠に交差する直前の暗渠上に、水門を調節するようなハンドルが付いた古びた設備が、まるで石碑のように立っていた。

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 しかし小川はその水面を見せることは無かった。これから先、暗渠が続くのである。加茂川と交差する向こう岸には紫明通という4車線道路が加茂川と直角に接続して延びており、その道路の中央帯が小川の暗渠であった。
 その中央帯は所々公園になっており、その敷石に耳を近づけるとせせらぎが微かに聞こえた。逆流する川は未だ生きているのだ。

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 紫明通は大きく南にカーブを描き、堀川通に合流する。そして逆流する川の暗渠である中央帯は、かつて堀川通を流れ、現在は復元された堀川に繋がっているのを私はこの目で確認した。つまり琵琶湖疏水は滋賀県琵琶湖から山科疏水を経て、日ノ岡日向神社辺りで本流と別れ分流となり、映画やドラマのロケでお馴染みの南禅寺水路閣を経て、京都の登り下りの地勢をことごとく無視した形でぐるっと市内を一周するのである。あるいは三つの川の下をくぐり抜けるのである。それも重機やハイテク測量機材の無かった明治維新の事業なのだ。

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物理学が正しいとするなら、南禅寺水路閣上に流れる疏水分流の水面は、ここから約5km北方にある疏水分流の水面、つまり北大路通付近より高い位置にあることになる。そして琵琶湖の水面はこの水路閣より遥かに高い位置にあることになる。

 京都市上下水道局のH.Pによると明治期の疏水分流の工事は治水、灌漑が目的であったという。はたしてそれは本当のことだろうか。当時の人が抱いたこの発想は如何なるものだったのか。あるいはこれを成し遂げたパワーは何処から来たのか。
 そして長い月日を経て流れ続ける奇跡のような逆流する川を見るに付け、正に「我が目を疑う」のだ。
  それにしても長い散歩から工房に戻ったのは夕刻5時を過ぎていた。

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