オリジナリティーとは「独自性、独創性、唯一性」と訳される西洋由来の言葉です。そしてオリジナリティーが西洋から輸入されるまで、日本にはそうした言葉はもちろん、それが指し示す対象も存在しなかったのです。

 辞書によると独自性とは「他と違い、その人またはその事物だけに備わっている固有の性質。」独創性とは「独自の考えで物事をつくり出す能力。また、新しい物事が持つそのような性質。」と定義され、創作することにおいて重要視、あるいは必要な要素と考えられています。
 しかし、かつて日本においてはそれに該当する言葉はありませんでした。その長い歴史を通じ多くの作品が作られてきたのにも係わらずです。

 独自性や独創性に似た言葉を敢えて探して見ると、「奇を衒う(てらう)」というのがあります。奇を衒うとは「わざと普通と違っていることをして人の注意を引こうとする。」ことであり、余りいい意味ではなく、避けるべきであるという否定的な趣を持っています。重要視、あるいは必要とされるオリジナリティーとは真逆です。

 もちろん心情的にはオリジナリティーと奇を衒うは別のものですが、行為の結果としては同じであると言えます。つまり、「他と違いその作品だけに備わっている…」と、ある作品に対し誰かが認めるということは「普通と違っていることをして人の注意を引く。」ことの結果であるからです。

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 以前私は絵のコンペティションに度々出品していました。そしてコンペティションで認められるにはオリジナリティーが最重要な要素であると当時考えていました。
 現代美術というジャンルは特にそうであり、誰かの作品に似ていないかと過去の作品を念入りに点検し、他人の真似をしたのではないかと思われるのを極力避けようとしていました。これは米国のアートシーンでも同様で、米国のスタイルがそのまま日本に持ち込まれていたからです。

 当時、心情的にはオリジナリティーだったのですが、その行為をよくよく思い返してみると、…心情的に対して論理的にと言ってもいいと思うのですが…、この行為はことごとく「奇を衒う」行為にすんなりと適合してしまいます。

 たとえば「奇を衒う」の意義、「わざと普通と違っていることをして人の注意を引こうとする。」における「わざと…」「人の注意を引こうとする。」という項目がこの言葉のキモだと思うのですが、正にそうした思いがあり、特にコンペでは過剰にありました。何せ、コンペに参加することは認められることが目的ですから。
 オリジナリティーを重要視し、これを出そうと努力する時点で、この項目に自ずと引っかかってしまいます。

 そして重要な点は、創る時点でこの部分が他人と違う要素であると認識していることであり、その要素を見る人、あるいは審査員がどう評価するかという推測において、その要素に量的、質的な強弱を与え、調節しながら創るということです。たとえばレベルが低いと思われる審査員ならば、その要素を弱くする。言ってみれば解り安くするとか…。つまり重要なのは、他と違う要素を本人も見る人も共有しているという前提があることです。
 これは如何解釈しても「奇を衒う」という行為にすっぽり適合してしまいます。

 そして決定的にオリジナリティーの意義にそぐわない点は、独自性、独創性という言葉自体にあります。つまり、独自性、独創性を突き詰めて考えるならば、それは見る人に共有されないものということになります。何せ他と違う独自の要素なのですから。

 例えば料理のコンペがあったとします。審査員は料理の旨いか不味いかで5段階の評価をします。この時、最低限必要なのは旨いか不味いかの基準を審査員と料理人の間で共有されているという前提です。つまり審査員と料理人が以前食した総ての料理の旨い不味いがその基準となります。しかし他の何物でない独自の料理が出た場合、審査員はそれを計る基準がありませんから評価のしようがありません。他の総ての料理に似ていない生まれて初めての独自の味です。当然ながらこの料理人はコンペで落選するでしょう。すなわち、重要なのは皆の共有であり、その基準は過去の料理から来ています。そして新しい料理は記憶にある過去の素材とレシピの組み合わせから生じるのです。

 あるいは、小説のコンペがあったとします。小説家はオリジナリティーを重要視し、独自の言葉と文法を創作し、それで小説を書いたとします。審査員はその言葉と文法を共有していませんから、当然何のことか解らず、小説家は落選します。
 つまり、新しい言葉の創出は小説家個人では出来ないということです。かかわることは出来ますが小説家独自の言葉の創出は不可能です。そこには最低二人以上の集団が必要であり、共有と使用が必要です。そして使用することにより共有が広まり、その集団がある程度の人数に達する時点で言葉という体を為します。言葉の独自性はあり得ないのです。表現は他の表現の組み合わせ、組み換えにより行われます。料理のコンペと同じです。

 つまり論理的に考えて、創作に関して言えばオリジナリティー(独自性、独創性)はあくまで心情的なものであり、信仰のようなものであるというのが結論です。何故ならオリジナリティー(独自性、独創性)を突き詰めて考えると、その独自の要素は独自であるが故に他の人に共有されず、解らないもの、判断のしようがないものとなるからであり、それにも係わらず、オリジナリティーは創作する上で重要だというのは明らかに矛盾です。
 従ってオリジナリティーと信じて、その実、「奇を衒う」という同質の行為を行っているというのが実情でしょう。

 オリジナリティーという概念は日本と同様にもともと西洋にも無く、18世紀頃生じた比較的新しい概念です。そしてその発生は前回取り上げたリアリティー(現実、実在)という概念の発生と深い関係があります。言わばリアリティーとオリジナリティーはセットになっており、このセットが西洋と日本の文化の本質的な相違を形成していると考えています。

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