~原広司著「空間<機能から様相へ>」を読んで~

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キリコ

 前回文章の最下段、「様相」とは著者の属する文化的、集団的に共有される言語記号の内にあるということになる…。…とするなら、京都駅が持つ「様相」に原氏は如何いった説明を加えるというのだろうか。的確な説明など加えることは出来ない。何故なら、それは原氏もいうように、

 「新しい様相の表現は、まさに発見的な表現行為の課題であって、解釈や説明は表現のあとに続く。」

からであり、そしてその解釈や説明とは、「様相」そのものの説明ではなく、「新しい様相」の表出のための機構、装置、あるいは意識のメカニズムの説明であり、それが「新しい様相」の表出という原氏の問題提出の唯一の策だからである。

 「…メタファを誘起することを表現目標とするのではなく、ダリ、キリコ、エッシャー、マグリットなどが先んじて行ったように、メタファが生成される意識のメカニズムを表出すること。…」

 原氏は京都駅に未だ誰も知らない「新しい様相」の表出を求めたのである。つまり新しいメタファの生成を求めたのだ。そして原氏が選んだ具体的な手法は、レヴィ・ストロースのいうブリコラージュ、寄せ集めの拡大解釈である。そして「新しい様相」の表出の希求は方法論上、自己言及的にならざるを得ない。
 こうした観点から浮かび上がるのは、自己言及的で大衆と乖離した学究的、学際的ないわゆる難解な現代美術と京都駅との類似点である。

 言うならば、原広司は京都の玄関口に巨大な現代美術を創ったのだ。そしてその現代美術は私が疑問とするグリーンバーグの用語に関連し重なる。
 新しい芸術。自己言及的。インターナショナル。大衆文化(キッチュ、ヴァナキュラー)を忌避するアヴァンギャルド。などなど。

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 著作「空間<機能から様相へ>」の出版にあたり、原氏は新しく書き加えたという最終章「<非ず非ず>と日本の空間的伝統」は難解な文章で、それが原氏の「新しい様相」の表出に如何拘るのかよく解らない。恐らくそれとは関係なく、弁証法と非ず非ずの論理を論理学的に併置することによって、日本の空間概念の変遷を分析し、その可能性を示唆するものだろう。

 しかしこの章は私との根本的な見解の相違が垣間見えるのではないかと思う。
 原氏はこの章の冒頭で、

 「伝統なる概念はナショナリズムに帰属するのではなく、インターナショナリズムに帰属する概念である。」

 と言い切るのである。伝統とはナショナリズムの以前の問題であり、増してやインターナショナルなものと捉えるのは理解に苦しむ。いくら各地域において似た事象があろうともそれはあくまで結果であり、観察者の印象である。それを伝統なる概念はインターナショナルであるとは本末転倒ではないのか。インターナショナルを持ち出すなら、伝統は地域の集団が育むものであり、それを承認した上でのインターナショナルではないのか。

 原広司という人は、インターナショナルという言葉に何か格別な思い入れがあるようだ。そしてその思い入れによりレヴィ・ストロースのいうブリコラージュ、藤原定家の歌の創作原理(本歌取り)、あるいは茶道の設えや道具における写しの原理(著作では、うつすー模す。うつしー模しー引用。と記載)に致命的なズレを生じさせているのではないかと思う。この三者は共通して人間の創作原理の根本であり、伝統を形作る源泉である。そしてそれは地域の集団において形作られるものであり、ここにインターナショナルという言葉は唐突で無縁なのだ。

 こうした致命的なズレにおいて、京都駅における原氏の具体的な手法を「レヴィ・ストロースのいうブリコラージュ、寄せ集めの拡大解釈である。」とした所以である。

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