以前、幼馴染の友人から聞いた、彼の小さい頃の体験談がある。
 ある満月の夜のこと、彼は天上に輝く大きな満月の側面を見てみたいという欲求にかられ、幼いながらも随分遠くまで歩いていったという話だ。
 幼い彼は「お盆のような月」と言うが如く、月は平たいものという理解の元に、その側面を見てみたいという眞に素直な理由で随分遠くまで歩いていったのだ。
 しかし、何処まで歩いても満月の側面は見えてこない。しかたなく、彼は満月の側面を見るのをあきらめ、家に戻るのだが、心配していた母親にひどく叱られたという話である。

 この話は単なる笑い話の域を超え、何か重要な要素を含んでいるように思う。それは、知覚と認識の関係に拘るものだ。

 今、一般的に我々は月は球体であるという認識を持っている。そして恐らく、今、我々が見る満月は千年前にも同じように天上に輝いていただろう。そして千年前、平安の人々はその同じ月が球体であるという認識を持っていたか如何かということだ。
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 その昔、ケプラーという人が観測データを元に、太陽の周りを惑星が楕円を描いて周回していると主張する。そしてガリレオは望遠鏡の観測データをそれに加え、地動説が確実なものであると主張する。
 我々が住む大地は、実は球形をした地球という惑星で、他の惑星ともども静止した太陽の周りを楕円を描き周回しているのだという。…こうした認識は事実に即しているといってもいいのだろうか…。

 そして時代は下り、宇宙はビッグバンによって誕生したという主張が、進歩した望遠鏡の観測データを元になされる。宇宙に含まれる各要素は、ビッグバンの中心点から放射状に猛烈な速度で外に向かい膨張しているのだという。
 最早、太陽は静止などしていないし、地球は太陽の周りを楕円を描き回っているなどといえなくなる。太陽系を含む銀河系の運動、そして天体全体のビッグバンの膨張を考慮するならば、地球が太陽を回る軌跡はもっともっと複雑になるだろう。…これも事実というものなのか。

 そしてこの話はまだまだ続く。アインシュタインの主張やその後の量子論、超ヒモ理論の登場に伴い、我々が知覚する空間と時間が限りなく拡張されていくのだ。

 実は我々が体験するこの空間や時間は、全体から見ればほんの部分であり、本体は知覚されないということになるらしい。
 我々の時空間が映画フィルムの1コマのごとく本体の一部となれば、我々が住む大地は、ある運動をともなった球体であるという認識自体疑わしくなっていく。そしてこれは更新すべき認識なのか。

 つまり認識とは知覚と関係なくどんどん更新されていくものなのか、あるいは事実に即した認識など本当に存在するのだろうかという疑問に行き着くのだ。
 そして巡り巡って、満月は本当に球体なのか。我々が住む大地は本当に球体なのか。あるいは天上に輝く星は本当に存在するのか…と。

 寺岡海のライブイベント「星をつくる」はこうした思いを巡らせる。
 青く透明なプラスチックで作られた五房星に光源とバッテリーを仕込み、ヘリウムガスを充填した直系約1.5mの気球でそれを夜空に浮かばせるというイベントだ。

 プラスチックの青く輝く30cmほどの五房星は、500mも上空に浮かぶと周りの星と見分けが付かなくなる。つまり、我々の知覚において天上に星が一個誕生するということであり、それは正に「星をつくる」という行為に他ならない。

 当日のイベントでは平安神宮と派出所に挟まれた庭という空間と、出てきた風という環境に伴って、400mまでで打ち切られたが、それは充分に星であった。あるいはイベントの終始から見れば、ゆっくり舞い上がり、ゆっくり北西に移動し、そしてゆっくり舞い降りる神秘性を帯びた青い未確認飛行物体だったかも知れない。

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 このイベント「星をつくる」は9月22日(土)19:00 に寺岡海個展「世界と私のあいだ」(2012年 9月18日~23日 KUNST ARZT )の一環として行われました。

画像はKUNST ARZTのH.Pから転載

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