絵師、職人と美術家、芸術家、アーティストの根本的違いは、その創作原理にある。前者の創作原理が「写し」「本歌取り」という、お手本を写すことにより創られるのに対し、後者は作者の個性、独自性が重要視される。
 つまり、後者では個性、独自性の受け皿である主体を設定し、その主体に対する歴史をも含んだ外部世界を、主体が如何捉え、如何アプローチ、表現するかが創作の根本となる。従って、ここでは、お手本を元に作品が創られることは、他人を真似るのを強いることであり、それは個性、独自性、あるいは個人の自由に反し、あってはならないということになるのだ。

 こうした美術家、芸術家、アーティストの登場と社会の承認により、絵師、職人は下に見られ、長い間虐げられてきたのではないかと思う。

 しかし、こうした構図は本当に正当性を持つのだろうか。私は家業としての金箔押し職人と、近代、現代美術というステージで作品を発表してきたという経験において、この矛盾する二つの創作原理に晒され続けてきたのだ。

 職人仕事とは確かに過去の物品を目安として成り立つ。つまり、私が頼まれた仕事に吹き込もうとする美や価値や意味というものは、私個人のものではないということだ。そしてそれは始めから普遍的に存在するものでもない。それは長い時間をかけ、過去の多くの職人とその品の使用者によって紆余曲折を経て洗練、形成されたものであり、その美や価値や意味を、私や現在の使用者が共有するということにおいて、価値の継承となり、その価値の形成に参加することでもある。これが文化であり、美や価値や意味とはそういうものではないのか。
 個人による美や価値や意味それ自体の創造や、劇的な変化、イノベーションなどあり得ない。あり得るのは、その使用の仕組みに拘るイノベーションであり、又、それを生み出すテクノロジーの変革ではないか。これが私の職人としての実感である。

 日本の絵師達は写生という方法が輸入されるまで、あるいは、明治以降、西洋の美術が輸入されるまで、絵はお手本を元にして創られていた。そして明治以降のかなりの間、初等教育で絵は「臨画、罫画」というお手本を写すことにより為されていたのだ。
 当時の子どもたちは学校でひたすらお手本を写していた。これが絵の教育であったし、絵とはそういうものという理解であったのだろう。しかし、この教育が子どもの個性や自由を、あるいは自我の確立を妨げる未開な方法であり、即刻、やめるべきという運動が起こる。そして、そうした教育法は日本から一掃されるのだ。

 私がそうした歴史的事実を知るのは、オーソドックスな写実絵画から現代美術に転向した頃だったと思う。そして私は、一方で西洋の文脈に身を置いて居たにも拘らず、かつて行われていた日本の教育法がそんなに奇異で忌避されるべきものだとはどうしても思えなかった。

 オーソドックスな写実絵画のステージでは、絵とは平面上に描かれた別次元の空間であるという暗黙の了承があり、その上で、個々の濃い、あるいは深い表現が問題にされた。しかし現代美術のステージはそうではなかった。その絵画という機能、要素自体が自己言及的に問題とされ、その問題を個々が如何アプローチするかということだ。つまり印象派以降の西洋美術史の文脈が問題となり、それには印象派が捉えた透視法絵画が問題となる。西洋美術とは基本的に歴史主義でありコンテキストが最重要なのだ。 そしてここでは写実絵画以上に独自性が求められた。自分のアプローチがかつて誰かが試みたことはなかったか如何かを絶えず注意を払い、似た場合は引用やシュミレーション、サンプリングといった明確に読める理屈付けが必須なのだ。…何か変ではないか。

 そして西洋の美術史、コンテキストはかつての日本の創作原理とはまったくつながらないということに気付く。ルネッサンスの画家が視覚された像をなぞり絵を描いていた頃、日本の絵師たちは明治の曽祖父の頃までお手本を写し絵を描いていたのである。
 それは西洋美術を受け入れるなら、日本の伝統的創作原理は無視する他ないということなのだろう。そして西洋のコンテキストを追うとはまるで根の無い浮き草の上を渡るようなものである。どう考えても我々の歴史的根拠がまるで希薄なのだ。

 それにかつてのお手本を写すという教育法がそんなに奇異と思わなかったのは、職人仕事という一方の現実があったと思うが、それ以上にマンガがあったからだ。
 私は中学、高校生の頃、マンガ家になろうとせっせとマンガを描き、雑誌に投稿していた。もし、あの頃、パソコンがあってもっと簡単に描くことが出来たなら、マンガ家になっていたのに違いないと思う。

 今になって確かに思うのは、マンガの創作原理は絵師の創作原理に非常に近いということだ。幼い頃からマンガを読み、そして描くことによって、マンガの図像はお手本として意味、価値と共に記憶に蓄積され、その蓄積がどんな姿態、表情においてもキャラクターに対応させてアウトプット出来るという、これは正に「写し」の原理ではないのか。
 そして幼い子どもはみんな、そうやって絵を描くのである。私もそうだったし、娘もそうだった。

 西洋由来の発達心理学において、幼児がなぐり描きをしている内に偶然に形態が現れて、それを現実の何かに結びつけ、幼児の内に意味が創出される、なんて大嘘だと思う。幼児がアウトプットするのは幼いながらも蓄積した絵本やアニメの図像なのだ。それが証拠には幼児が初期に描くという人物像の「頭足人」の表情は多くの場合、ニコニコマークの目と口ではないか。そしてニコニコマークの目と口は、それ自体に笑顔という誰もが共有できる意味が備わっているのである。たとえば文字のようにである。現実の人の目と口を描写したものなんかでは決してない。

 そして幼児の美術教育に携わっている多くの指導者は既に気付いているのかも知れない。幼児が描くのは絵本やマンガ、アニメの図像であることを。そしてもう少し成長するにつけ、子どもから溢れ出るマンガやアニメのキャラの絵を彼らはやさしく「自分の絵を描きましょうね」とかいって指導要領に則り排除するのではないか。もし、そうならこれは誘導であり、これこそ自由の束縛ではないのか。

 小学校指導要領解説の図画工作編には「個性」や「見て感じたことを自由に描く」という文言が至る所に出てくるが、アニメやマンガは全く出てこない。これは多くの幼児がお手本としてのアニメやマンガを描くのに全く不自然だと思う。そしてこのお手本としてのアニメやマンガを描くということを仔細に検討すれば、かつての「臨画」や「罫画」という教育方法に自ずと繋がるはずである。それは描くことにより過去より継承された多くの図像と、それに伴う意味を記憶に蓄積するということである。そしてそれはいつでもアウトプット出来るという能力に繋がる。

 私は「臨画」や「罫画」という学習法を幼児、児童の美術教育に復活すべきだと思っている。そしてこれを現代風に改良して、マンガの二次創作なんかを児童たちにやってもらい、絵師を育成し、そして西洋のコンテキストを相対化することができれば、なおのこと最高ではないかと思う。

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