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<主観、客観の問題>

  私は以前、「犬や猫の気持ちとはおおよそこういうものではないか。」と思ったことがある。それは前にも書いたが、私の脳の左部分の血管が破裂し、内出血し、入院した時のことである。その時、一時的ではあるが右半身の自由と言語機能を失った。(詳しくは「記憶というもの」参照)

 発症当初、意識はあったが自分が喋ることはもちろん、救急隊員や医者、あるいは看護士の問いかけが、聞こえてはいるのだがまるで理解出来なかったのだ。
 そしてある程度回復し、ERから一般病棟に移った後も、本はもちろんのこと、テレビやマンガ雑誌の内容、時計やカレンダーが意味することさえも理解できなかったし理解しようという気も起こらなかった。

 今にして常識的に考えれば、突然の入院により発生する事態、抱えていた仕事の中断やクライアントに対する責務、あるいは動かない右手右足、理解できない言葉や記号、図像、そして社会復帰できるかどうか解らない将来の展望において不安とあせりに苛まれるはずであるのに、そうしたことはまるで起こらなかった。至って平穏で平和だったのだ。
 何をするでもなく、又、何を考えるでもなく一日中ベッドの上で過ごし、日に三度の食事が無性に幸せだった。ただ回診時の医者や見舞い客との会話が苦痛で非常に疲れた。相手の言葉に集中し、その返答を紡ぎ出すのに多大なエネルギーが必要だったのだ。恐らくその時の会話は会話になっていなかったと思うのだが…。

 つまりこうした言語機能を失った状態、この至って平穏で平和な状態が鼻から言語機能を持っていない犬や猫の意識状態に近いのではないかと思ったのである。
 私の場合、言語機能の喪失は部分的であり、当時、私が何者で、脳のトラブルで○○病院のベッドで寝ているという認識はあったと思うし、そのことを回想できるくらいには記憶も持っている。しかしその何割かの言語機能の喪失から、言語機能を全く持っていない意識が如何いうものであるかを垣間見ることが出来ると思うのだ。それが犬や猫の意識状態と直接結びつくとはいえないだろうが、少なくとも彼らの持つ言語機能を伴わない意識状態であるということだけは一致するだろう。

 トマス・ネーゲルが提出した論文「コウモリであるとはどのようなことか」において彼は「コウモリにとってコウモリであることがどのようなことなのか?」を問うている。しかしそれを想像しようとすると「私の想像の素材として使えるものは私自身の心の中にしかなく、そのような素材ではこの仕事には役に立たない…この仕事は、私の現在の体験に付加されたものを想像しても、逆にそれから少しずつ除去された部分を想像しても、あるいは又、付加、除去、変容の組み合わせを想像しても、そのようなことではなされ得ないのだ。」と言う。
 このことは言語機能の何割かの喪失の状態から100%の喪失を想像するという私のこの場合が、ネーゲルの言う素材の除去に当てはまるのだろう。

 ネーゲルの狙いは「コウモリにとってコウモリであることがどのようなことなのか。」という問いを通し、それぞれの生物が持つそれぞれの誰も知ることの出来ない私的体験に着目し、それを持って主観と客観の関係をあぶり出し、機能主義や唯物論の方法を批判することにあったのだろう。つまり、コウモリの体験という主観性と、ある人間の体験という主観性の類比がその根底にあるのだ。これは「…(コウモリの)この事態は、異種の生命の場合だけに起こるのではない。一人の人間と他の人間の間にも存在するのである。例えば生まれつき目が見えず耳も聞こえない人の持つ体験は私には理解し難く、恐らくは又、そのような人の方も私の体験の主観的性格を理解し難いだろう。」…ということなのである。

 しかしここには大きな問題点があるように思う。…こことはコウモリの主観性と人間の主観性の類比のことである。この二つの他の者には体験できないとするものをコウモリと人間の主観性として、ごっちゃにするのは間違っていると思うのだ。

 ここにはコウモリと人間の持つ受容器官の大いなる相違という前提の前に、言語機能の在る無しという無視できない前提がその体験上にあるということだ。

 たとえば私が○○病院のベッドで気持ちよく寝ている。壁の上には壁掛け時計があり、カレンダーが掛かっている。私は何気なく時計に目をやる。これらは生まれてこの方何度も目にしたものであり、そしてこの装置や数列は何か重要な意味を伝えるためにあるのだということはおぼろげには解る。しかし言語機能を何割か喪失した私にとってはその重要な意味が解らない。この装置の意味すること、その存在理由が解らない。しかし、回診時の医者とする会話のように、意識を極力集中し、苦痛と引き換えに多大なエネルギーを消費し一時間も格闘すれば時計やカレンダーの意味することを思い出すかも知れない。現に退院後の言語リハビリで、2+3の意味することを一時間の格闘の末に引っ張り出すことに成功したのだ。しかし言語機能が何割か喪失した私にとっては、この状態が充分条件であり、苦痛を引き換えにしてまで意味を取り戻そうとはユメユメ思わないのだ。そしてそれらの装置は無視して再び気持ちよく眠る。

 次にこの体験を踏まえ何割かの言語機能を0に減少する。これはあくまで想像だ。そうすると○○病院やベッド、生まれてこの方何度も目にした時計やカレンダーという装置、思い出せるかも知れない重要な意味、というこれらの概念も消えうせ、状態を示す「気持ちよく寝ている」私に収斂されてしまうだろう。目にするものの総てから意味が消えうせる。恐らくこれがここでの犬や猫の意識であり体験なのだ。そしてこの言語機能が在る無しの二つの体験は、同じ感覚器官から入力された同じ世界であるのにも拘らず根本的に異なってくるだろう。
 「私が見る世界」は、言語機能によってもたらされる意味の生成によって「我々が見る世界」として担保されれているのだ。

 もしコウモリや犬や猫の体験を主観と呼ぶならば、言語機能を持つ人間の体験は既に客観に犯された「主観」と言うべきかも知れない。それは人間にとって世界とは、個であれ集団であれ、言語機能により共有される意味で満たされているからである。

(参考記事)
記憶というもの 
http://manji.blog.eonet.jp/art/2011/05/post-a50a.html
(関連記事)
コウモリであるとはどのようなことか?(2) 
http://manji.blog.eonet.jp/art/2012/12/post-5307.html

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