そしてある時を境に人間の知覚は以下のように変容した。あるいは現実の世界が以下のように変わった。

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 絵巻などに描かれた鳥瞰図的な世界から、パースぺクティブを持った写真のような世界へだ。
 今、私は右図のように世界を知覚している。真っ直ぐな道路に立てば遠くに行くほど両線は「ハ」の字に見えるし、そう認識している。又、家に戻ったとしてもその記憶は残り、記憶をたよりに道路を「ハ」の字に描くことだってできる。

 しかしかつての絵師はそう知覚できなかった。…に違いない。そう見えなかったといってもいいだろう。あくまで左図のような世界だったのだ。
 恐らく、かつての絵師の目や脳の機能は私と変わらないだろう。それが何故、かつての絵師は道路や廊下を「ハ」の字に知覚出来なかったといえるのだろうか。

その答えを与えてくれるのがフッサールの本質直感と脳科学の志向的クオリアだろう。これを持って、以前書いた「日本に遠近法がなかった理由」が完成する。

 あの記事「日本に遠近法がなかった理由」には答えられない箇所があった。
 平安の絵師は描こうとする寝殿造りの廊下に立ったかもしれない。そして画室に戻り絵を描き始める。そしてその時には彼の記憶には廊下の視覚像は残っていない。視覚記憶は保持できないのだ。そして彼は頭にある概念記憶を引っぱり出し絵を描き始める。…そこまではいい。だが、彼が意識を集中し、長時間寝殿の廊下の「ハ」の字を見続けた場合はどうなのかということである。そうした可能性は充分にある。その時、ある時点で廊下の「ハ」の字に気付き、知覚認識され、「ハ」の字が概念として記憶される。…こうしたことは起こらなかったのだろうか。

 …恐らく起こらなかったのだろう。見えていて見えていなかったのかも知れないからだ。
 たとえば多義図形や隠された地と図の図像だ。

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 上の図像は100%見えているのにも拘らず、そこに隠された人の顔はなかなか読み取ることが出来ない。そしていったん見えてしまえばその顔から逃れることは出来なくなってしまう。これは恐らくフッサールの「知覚直感」と「本質直感」、あるいは脳科学の「直感的クオリア」と「志向的クオリア」の関係性から来るのだろう。
 つまりそこに隠された人の顔は「本質直感」「志向的クオリア」に読みづらくしてあるのだ。「知覚直感」「直感的クオリア」は浮かび上がっているが「本質直感」「志向的クオリア」のホローが弱いのだ。…と考えられるのではないか。

 そして「本質直感」「志向的クオリア」には別の要素との結びつきが不可欠なのだろう。それは物と物との関係性や形としての図像のインプット、そして言語だ。

 かくして人間の知覚はある時期を境に変容する。あるいは現実世界の様相は変わる。西洋では「ハ」の字の遠近法がアウトプットされ流布される15世紀ルネッサンスで、日本では明治の近代化以降だろう。
 そして知覚の変容に付随して「実在」「主観と客観」「唯一の『私』性」という問題が立ち上がる。それもそのはずで、その後に登場するデカルトにおいても、又、我々においても、唯一の私が開く現実世界のパースぺクティブを得たのだから。

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