ベティー・エドワーズの「「脳の右側で描け」は想像以上に、遠近法=透視法の制作原理を賛美し、お手本とし、これを短期間で習得できるようマニュアル化したハウツー本だった。
 まず彼女は上手な絵、正しい絵とは遠近法=透視法に基づく、いわゆるリアルな写実だと断定する。そして子供は10歳くらいになると誰でもそうしたリアルな写実を描きたいと欲求するというのだ。しかしなかなかそう上手くは描けない。何故なら初等教育に携わる多くの教師自身にそうした知識や技能がなく、正しく導くことができないからだという。
 その結果、多くの子供たちは子供っぽい絵から抜け出ることができず、失望し、絵に興味が失せ、絵を描くことから遠避かり、進歩の止まった幼稚な絵しか描くことのできない多くの大人が輩出されるのだという。
 であるから彼女の考案したマニュアルに従ってトレーニングを積めば、絵を描くのを諦めた大人に拘らず誰もが短期間で上手で正しい絵が描ける、というのがこの本の骨子だろう。

 しかし、そもそも子供は10歳くらいになるとリアルな写実を描きたいと欲求するというのは本当だろうか。彼女が教えていたロサンジェルスの子供たちはそうだったのかも知れないが、それを一般化できるのだろうか。又、発達心理学の分野で、思春期になると描画の志向性が写実に向かうというリュケの発達の五段階説などというのがあるが、これを適用できるのは西洋文化圏だけではないのか、あるいは絵を描くことから遠避かるのは逆に、西洋文化圏の研究者や教育者の頑固な思い込みによって組み込んだ教育プログラムとしての写実が強要するからではないのか。私にはそう思えてならない。

 それはそうとして、ここまでなら遠近法=透視法のコツを効果的に習得できるという、単なる実用書であると言えるのだろうが、問題だと思えるのは、あるいはこの本が大いに売れた理由は、このトレーニング法は右脳の機能を活性させることにあるというところだろう。何故なら、そもそも絵を描くことは主に右脳の機能に依っているのに他ならないからだというのだ。脳科学の援用だ。

 通常は右脳に比べて言語を司る分析的で理性的な左脳が優位にあり、その左脳が絵を描く右脳の機能を抑制し邪魔ているのだという。従ってこのトレーニング法は言語化やシンボル化などの象徴化機能を受け持つ左脳を抑制することにあり、その抑制は、あるいは右脳の活性は遠近法=透視法の描画原理に直結し、それをスムースに行うことに繋がるというものだ。
 ベティー・エドワーズは左脳における描画モードを左脳(L)モードと名づけ、その抑制による右脳による描画モードを右脳(R)モードと名づけ、最初の課題で各描画モードを恐ろしく短絡し分類し、説明、実感させようとする。

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 最初の課題は「花瓶と顔」と呼ばれる錯視図を模写することだ。
 模写される花瓶の左側面である顔は左脳(L)モードによって描かれる。受講者に左脳(L)モードを実感し強調させるため描く箇所に応じて額、鼻、唇などと声を出しながら描いていく。
 左脳の象徴化機能は幼い頃から蓄積されたシンボル化した額、鼻、唇を描いていく。つまりお手本とは大きくかけ離れ下手くそな絵となる。これが左脳(L)モードの描画である。

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 しかし右側面の顔はそういう訳にはいかない。左右シンメトリーになる必要があるからだ。そこで受講生は額、鼻、唇などの意味性は放棄し、あるいは封じ込め、つまりシンボル化ではない左側面の反転した正確なコピーを機械的になぞっていくことになる。これが右脳(R)モードの描画だというのだ。

 次の、対象作品を上下ひっくり返して模写する課題も同じ理屈である。ひっくり返すことにより意味性を排除し、つまり網膜に映った生の線を淡々と機械的になぞっていく、これが右脳(R)モードの描画であり、そしてそれは遠近法=透視法の描画原理と繋がる。4番目か5番目の課題である透写装置の簡略版であるピクチャープレインと呼ぶ透明なアクリル板を使った描写も、石膏デッサンでお馴染みの計測ファインダーを使った描写、そして単眼視計測(ここでは「目測」といっている)も同じ遠近法=透視法の描画原理である網膜像のトレースだ。そして彼女はこれらを右脳(R)モードの描画だというのだ。

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 そしてこの右脳(R)モードに精通し深まると時間の観念がなくなり何やら幸福な気分になるのだという。
 そして彼女はこうもいう。右脳(R)モードの精通は、つまり意味性を排除した網膜像の機械的トレースに精通することが画家の目になるということであり、絵を描くという本来的右脳の機能だと…。
 
 …ちょっと待ってください…といいたい。
 それでは遠近法=透視法が輸入される以前の日本の絵描きは、つまり鳥羽僧正や源氏物語絵巻を描いた絵師、あるいは俵屋宗達、尾形光琳などは右脳を使わず絵を描いたことになる。何故なら遠近法=透視法が輸入される以前には網膜像のトレースなど一切なかったからだ。その頃の作画法は粉本の写しであり臨画だ。そして臨画とは書における臨書と同義であり、それはお手本の意味性や心の動きを読み、共有し、解釈し、それを写すことが目的だったのだ。細部はどうでもよかった。網膜像のトレースではなく意味性が重要だったのだ。これはベティー・エドワーズに言わすと左脳の機能、左脳(L)モードになるだろう。それにもし絵師たちが網膜像のトレースをしていれば廊下の「ハ」の字は描かれていただろう。

 あるいはエドワーズの右脳(R)モードの主張は西洋絵画においても矛盾をきたす。右脳(R)モードが左脳の機能である意味性、シンボル化の抑制にあるのなら「デフォルメ」という西洋画における重要な技法が意味を無くすからである。
 「デフォルメ=変形」とは何が目的で対象の本来の形を変形せねばならないのか。例えば「強調」が目的である。…だとすれば何を強調するのか。それは寂しさであり驚愕でありメランコリーであり愛らしさ、純真さなどだ。
 つまり画家は対象物からそうした意味性を読み込まなくては「デフォルメ=強調」など出来ないのである。

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<関連記事>
脳の右側で描け(1)
http://manji.blog.eonet.jp/art/2013/04/post-fb15.html
脳の右側で描け(2)http://manji.blog.eonet.jp/art/2013/05/post-84e4.html
脳の右側で描け(3)http://manji.blog.eonet.jp/art/2013/05/post-e6f6.html

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