今迄発せられた既存の解釈において、すんなりと腑に落ちないと私には思えるものの一つに神の存在証明というものがある。私にはまるで馴染み薄で、如何いう神であろうとも神の存在など聊かも信じてはいないのだが、西洋の一神教においてこれは至って重要なテーマなのだろう。西洋では神の存在証明とその反論が繰り返しなされているのだ。

 先日ネット動画でアンセルムスの神の存在論的証明の解説を見て正直興味深かった反面、そこに一つの重要な視点がぬけ落ちているのではないかと思ったのである。 一見、詭弁にも見えるアンセルムスの証明は至ってシンプルで、否定の否定は肯定であるというその手法を背理法というのだそうだ。

 アンセルムスは11世紀中世に活躍した神学、哲学者で中世スコラ学の父と呼ばれている。又、その証明の批判においては13世紀の宇宙論的証明を行ったトマス・アクィナス、純粋理性批判を書いた17世紀の哲学者イマヌエル・カントなどが知られているという。

 アンセルムスの証明とはこうだ。
 まず、神とはそれより偉大なものを考えることができないものであると定義する。グレイテストである。そして「愚か者は心の内で神は存在しないと言った」という詩篇から愚か者を引き合いに出す。
 その愚か者は心の内で神は存在しないと理解しているのだが、アンセルムスの神の定義は理解する。神とはそれより偉大なものを考えることができないものであるのだが、それは彼の理解の内だけであり現実には存在しないということだ。しかしアンセルムスは、もしそうだとしたら、そんなことはあり得ないことだという。何故なら、少なくとも理解の内にだけでもあるなら、それが現実に存在することを想定することが出来得るはずであるし、その想定された神は彼の最初の理解する神より一層偉大だからである。何となれば単に理解されただけのものよりも、理解の内にもそして実在としても存在するという理解の方がより一層偉大の要素が増えるからだ。
 つまり、その想定により、愚か者の理解の内だけにある神は、それより偉大なものを考えることができないものとは言えなくなってしまう。それ故、それより偉大なものが考えられえない何ものかは、理解のうちにも又、実在としても存在する…となる。

 動画の講師によれば、このアンセルムスの存在論的証明とは「神は存在する」ことが自明であるとする証明なのだと言う。例えば「独身者は妻がいない」「三角形は三つの角を持つ」など、「独身者」や「三角形」という主語は述語を含意し自明であるとされるのと同様に「神」は「存在する」を基より含意し自明であるというのだ。そしてその証明において背理法による「存在しない」を設定し、上の定義を加えることによって愚か者の理解の内に「偽」を見る。
 トマス・アクィナスはこの証明に対してアンセルムスが提出した神の定義を受け入れるか否かが問題になるのだという。又、受け入れたとしても、神がそうした内容を持つことをまず証明せねばならないともいう。

 イマヌエル・カントは、何者かが主語に置かれるからといってそれが現実に存在するということには結び付かず、語られる「神」や「私」を実体とするのは錯覚であり「誤謬推理」なのだという。物が存在するという認識は見ることや触れることなどの感覚を通した直感が源泉であり、これは判断や論理的必然性とは異なるのだと。
 従って「三角形は三つの角を持つ」も判断から来たものであり、物とその現実的存在から得られたものではなく、与えられた「三角形」という条件の元で三つの角が存在するという論理的必然性に過ぎないという。
 そしてこの論理的必然性は、この物を与えられたものとして設定するという条件のもとでは、この物の現実的存在もまた必然的に設定されるという思い込みを諸人に与えてしまった。つまりこの存在者そのものは絶対に必然的である…という推論である。そして「三角形を設定して、その三角形の三個の角を否定すれば、矛盾が生じる。しかしこの三角形を三個の角と共に否定すれば、もはや矛盾はまったく存しない。絶対に必然的な存在者についても、事情はまったくこれと同様である。」…となる。

 この証明と反論を見て私が思うのは、原点にあるのは存在するという認識の意味の相違だろう。あるいは認識の源泉においてアンセルムスとカントはそれぞれ別のステージに立っているのではないかということだ。
 つまりアンセルムスは概念に、カントは見ることや触れることという感覚、恐らくは主に視覚を通しての直感というものに大きな比重を掛けているということだ。そしてステージが異なるというのは、そのどちらかを選ぶのは個人の資質、才覚、趣向性の問題ということではなく、時間的必然性において自ずと立つステージが決まるということだろう。

 アンセルムスやアクィナスはカントのステージに立つことは不可能だった。
 それはアンセルムスやアクィナスが生きた時代は遠近法(透視法)が発生する以前であり、カントの生きた時代はそれ以降だったからだ。
 
 私は15世紀の遠近法(透視法)の発生がこうした知覚、認識の解釈に大きな影響を及ぼしていると考えている。そしてそれが如何に胡散臭いものであろうとなかろうとも遠近法による手描きの写真の流布は、我々の視覚が客観性を持った共有出来るものという解釈を与えてきたというのは少なくとも事実だろう。つまり私が見る世界はその通りに誰もが見ることができるという互いの解釈の発生だ。
 アンセルムスの生きた時代はそうした解釈に拘る装置が無かったのだ。ただしそれは概念の他にはということだ。そしてそのことは同時に、信頼に足るのは概念の方か視覚の方かという選択の問題になるのだろう。カントが諸人に対して発した「思い込み」という言葉はカント自身にも跳ね返ってくる。

 私はアンセルムスに一票投じたい。

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