「栗原邸(旧鶴巻邸)一般公開」 bootな金物店
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<コメント>
栗原邸の内部が一般公開されていたとは知りませんでした。しかもこの公開の期間中、所用でこの極近隣の山科御陵の家に頻繁に訪れていたのに残念です。
私もこの建物を子供の頃から知っています。正に仰る通り、フランケンシュタインや死神博士、それにカリガリ博士みたいなのが住んでおり、地下室には避雷針に繋げた無数のコイルに接続されたベッドが並ぶ実験室があり、そこで良からぬ実験が夜な夜な行われているのではないか…などと想像していました。
しかし内部はその想像に反し、至極真っ当なようですね。少しがっかりしました。
この建物は1929年竣工の日本を代表するモダニズム建築、あるいは日本におけるモダニズム建築の元祖と言われているという出自を知り、ある意味合点がいきました。
その合点というのは、京都駅との構造的類似です。
私観ですが、この建物を見るたび、京都駅が思い浮かびます。それは建物全体にあるグリッドのせいかも知れませんが、何となく感じが似ています。もちろん京都駅のようなチャラチャラ感はありませんが、しかし京都駅がアミューズメントパークなら栗原邸のフランケンシュタインや死神博士、カリガリ博士のワクワク感もやはりアミューズメントパークといえます。
恐らく京都駅が100年の風雨に耐えるなら、栗原邸にもっと接近するのではないかと思います。バブルの頃、競って建てられた祇園の飲み屋街の朽ち果てはポストモダンな建物のようにです。
これは…現代もまた近代の続きなのかも知れません…と仰っておられますが、正にそこには通底する一本の不条理な構造があるように思われます。
それは「インターナショナル」をお題目とする社会主義革命思想です。我々庶民の意見から隔絶された超エリート達の所業という日本の実情を見れば、国家社会主義とさえいえるのかも知れません。
画家カンディンスキーのアブストラクト宣言のようなものがあります。下の文章は京都駅の設計者である原広司著の「空間<機能から様相へ>」からの一文です。
「カンディンスキーはより具体的な方針を提起する。彼は表現上の三つのレベル、すなわち「個人」、「民族・時代」、「空間・時間」を越えるものを想定し、芸術表現は個人、民族、時間を突き抜け永遠なるものを表現しなくてはならないと主張した。」
つまりこれは、カンディンスキーの抽象は個人や民族、時代性を否定したところにインターナショナルという最良の世界を夢想したと読めます。個人、民族、時代は世界の人類の共有、共感を阻害するものであり排除すべきものであると。そしてモダニズムとは美術や建築に拘らず、そうした夢想を追求するということにあったのです。総ての人が共有出来るであろう丸や四角や三角の意味性をです。
栗原邸の設計者、本野精吾は東大出身の超エリートでエスペランティストだったといいます。正にエスペラント語とはインターナショナル社会主義革命への夢想の最たるものであり地域性、民族性を否定し嫌うバリバリのモダニストであったことが伺われます。
そして時代は下り、美術、建築はより意味性を、つまり地域性民族性を総て排除し、機能化、ミニマル化という均質空間へ向かい、いよいよ70年代にご存知のようにドツボにはまります。
そこで登場するのがポストモダンという潮流であり、原広司の京都駅なのですが、これがモダニズムの元祖、本野精吾の栗原邸に似ているとは一体如何いうことなのかということです。
明らかに京都駅にはポストモダンが標榜するという地域性、民族性復権のかけらもありません。あるとするならば西洋の文脈においてのアールデコ、イタリア未来派風です。これらは我々の地域性、民族性と何の拘りもないのはいうまでもありません。
つまりバウハウスの思想に凝り固まったエリートが、我々が拘ることの出来ない閉じたループ内で独善的なトレンドを繰り返しているのに過ぎないのではないかということです。そして京都駅は建てられるのに、新築京町屋や新築南禅寺を建築基準法により建て難くしているとは如何いうことなのか。
これがモダニズム、あるいはポストモダニズムの正体です。
因みに近代化により娘を売り飛ばさなくても食えるようになったというのは間違いです。日本の近代化は明治に始まり、モダニズム建築元祖の栗原邸竣工が1929年です。しかし1936年に起こった226事件は地方の家庭で娘を売り飛ばす状況を見るに見かねてという要因があったといいますし、その後もっと悲惨な戦争へと突き進んでいきます。モダニズム、あるいはインターナショナルは経済事情とは関係ありません。
そしてインターナショナルはここに来てグローバリズムという名に変わっています。重要な点は、グローバリズムにおいてはその範疇を経済とテクノロジーのみに限定し、文化や美意識、言語は除外すべきものだろうということです。
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