脳科学者の茂木健一郎は、世界の全ては脳内の神経細胞が生み出したものだと言う。これは従来の科学がそうであった局在的脳の物理的機能の探索から、脳が生み出す心や意識、クオリアを問題とした結果生じたテーゼだと思う。
 例えばリンゴを見た時生じる、リンゴの質感、赤さや形、…これらが感覚的クオリアというのだろう…そしてリンゴのみずみずしさやリンゴがそこに存在するという感覚…これらを志向的クオリアというのだろう…が現れる。こうした作用によって生み出されたのがこの世界だ。
 このようにして世界の様相やここにこのようにして世界が存在するという意識まで、脳内の神経細胞が生み出したものだと言う。つまり、脳外のものは脳内により生み出されたのだ。
 しかし、これはある一面を説明するとは思うが、これを単純には肯定できない要素をたやすく見つけることができる。それは脳が生み出す「認識」は言葉や図像が担っていると考えられるからである。

 そして言葉は制度であり、いわば「お約束」である。又、言葉は明らかに脳の外にあるからである。
 例えば京都の図書館にはオックスフォード英語辞典が蔵書されている。言ってみれば英語圏の人は、この辞典のAからZまで現在全23巻に収納されている膨大な名詞や動詞を組み合わせることにより、「この新鮮なリンゴは明朝食べようと、近所の果物屋から買ってきたものだ。」といった認識を生む。つまり人間は生まれてから脳外にある言葉や図像を習得し、記憶としてインストールし、それにより世界を認識し、その認識を伝達する。そしてその習得する言葉の体系は、言ってみればオックスフォード英語辞典の全23巻に収納されており、そしてそれは図書館に確かに実在するのだ。

 このことは何を意味するのかというと、世界の認識は、辞典にある一つ一つの単語の組み合わせによりなされるということを、あるいはその体系が図書館という脳外に実在するということを、その言語を使用する集団内において共通のツールとしてたやすく確認、納得できるということだ。。これが世界を規定する根源としてのテオリア、ロゴス、イデアという形而上学の信頼に繋がる構図を形成するものではないかと思う。

 つまり個人が目にした現象が真実か幻覚かを判定する根拠は、個人が集団内で共有され確かに実在する言葉により認識した世界のあり様に比べ、遥かに手薄で心もとないのである。そして実在として信頼に足るのは個人の感覚器官が受容した現象よりも図書館にアーカイブされた言葉による概念だということだ。

 ただし、その実在の根拠は15世紀の手描きの写真である透視法の出現により逆転する。網膜というスクリーンに投影された世界の映像のコピーの出現は、目で見た世界が共有出来得るものとしての信頼を勝ち得る。世界はこう在るからこう見える。そして見たままを描くことは在るがままの世界を描くことに繋がる。これが近代リアリズムだ。

 しかし私は、これは大きな誤解の上に成り立っているのではないかと思っている。何故なら人間の脳の機能はそう簡単には変化しないと思うからだ。そして重要なことがもう一つある。
 それはアーカイブされているのは言葉だけではないということだ。図書館に言葉がアーカイブされているのと同じように、美術館や博物館には膨大な図像がアーカイブされているのだ。
 私はこの図像は言葉とは独立したものとして、言葉に類する作用を持つものと考えている。つまり言葉とは異なり音声は伴わないが、しかし言葉と同様に概念を形成する。例えば前々回に取り上げた「チンパンジーは遠近法が解るのか?」における立方体の平面図像だ。

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 この図像は「立方体」という言葉とは独立して、概念を伴っている。その概念を言葉で翻訳すれば「立方体」「箱」などとなるだろう。又、前回取り上げた「雪舟の岩山表現について」における絵師が使用する画巻、粉本にあるプロトタイプのお手本図像の存在だ。このお手本を組み合わせ、絵を創ることは、アーカイブされた単語を組み合わせ、文章を作ることに類比できるだろう。そして文章は現実を指し示すように、絵は現実を指示する。
 又、幼児は言葉より先に図像を習得し始める。幼児が描く「オタマジャクシ人間」やプロトタイプな「お家」はリュケが言うように現実の人や家を対象に描かれたものではない。見て記憶した絵本やマンガ、アニメの図像を取り出し、それを現実の人や家に繋げるのだ。
 つまり、図像は言葉と同様に記憶できるということだ。絵師やマンガ家の頭には膨大な図像が収納されているだろう。そのパーツを組み合わせ絵を描くのである。
 その一方、視覚された像、視覚像、網膜像は脳の損傷などの特殊な場合を除き、記憶することができない。視覚の保持は一秒以下だそうだ。目からの情報は記憶に収納された言葉の組み合わせや図像の組み合わせに置き換えられ、記憶される。
 これが我々の脳の機能、言語能力、シンボル化能力、抽象化能力ではないのか。

 「チンパンジーは遠近法が解るのか?」においてチンパンジーは上図の平面図(言葉で翻訳すれば「立方体」)を記憶として収納しているのだろうか。上図の平面図からそうした概念を立ち上げられるとするなら、収納していることとなり、又、それは言語能力を持っているということになる。そうならば遠近法も解るだろう。
 チンパンジーやボノボは言語能力を持ち、いくつ言葉を覚えたかといったニュースが一時期話題になった。しかしそれが80年代に入り下火になり聞かれなくなったのは、この実験者の一人である友永雅己も言うように、実験の不備や誤審の可能性の問題が提出されそれがクリアーできず、実験の指針が大きく変更されたからだという。
 1979年チンパンジーに手話を教えていたテレースは彼らが発する手話は訓練者の手話の模倣であるという結論が提出され、又、プレマックとランボーはチンパンジーが習得したのは言語ではなく、条件性弁別反応でしかないと結論づける。類人猿が持つ驚異的に優れた記憶力がその実験を見誤らせていたのだろう。

 彼らの驚異的な記憶力とは言葉や図像を概念的に記憶することではなく、視覚された像、視覚像、網膜像を感覚的にそのままの形で記憶し、そのままの形で取り出すことが出来る能力ではないかとされている。H・ガードナーとN・ハンフリーは洞窟壁画とサヴァン症候群ナディアの絵の類比において早くからそれを指摘し、又、概念的記憶と視覚記憶は反比例の関係にあるのではないかとしている。

 つまり我々人類は視覚像、網膜像は記憶出来ないのである。これが我々の脳の機能、言語能力、シンボル化能力、抽象化能力でありこの機能は変化していないはずだ。従って視覚像、網膜像を精密に再現する近代リアリズムは光学機器の使用が無い限り基本的に不可能なのだ。

 しかしここで重要な問題が残っている。美術館や博物館には光学機器で描かれたであろう透視法絵画や写真もアーカイブされているということだ。言うなれば、我々の持つ言語能力、シンボル化能力、抽象化能力はそれらアーカイブを粉本化してしまうということだ。

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 脳が生み出す「認識」は言葉や図像が担っていると考えられるからである。…とは冒頭部分で述べたものである。上図は透視法によって描かれた絵から概念的図像として記憶に収納された図像といってもいいだろう。従って、この図像は言葉とは独立しそれ自体で概念を伴っている。
 この音声を伴わない概念図像を言葉で翻訳すれば、…はるか彼方の地平線に向かい、真っ直ぐに伸びる一本の道路…となるだろう。そしてこの図像は現実の世界の一形態として、それを指示するのである。

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