京都の老舗では鉄斎などの文人筆による看板を今でも多く見ることができます。これは看板職人が「籠写し」という方法で原本を正確に転写、拡大したものです。この方法は原本の上に細かくグリッド状に編みこまれたスケール(籠)を置き、そのグリッドと同じ比率で引かれた看板面の同位地に原本の定点を打っていくというものです。この定点を繋げていけば原本の転写、拡大ができます。
格子の升目側面にに数字や記号が打たれており、例えばト-五に位置する原本の輪郭上の定点を看板上の升目ト-五に打っていきます。つまり定点の位置を座標数値に変換するのです。(数値は記憶できます)こうして打たれた点を繋げていけば原本の転写、拡大が出来、従って格子が細かいほど正確度は増します。
又、原本の上に薄紙を置き、直接輪郭を細筆でなぞるという方法もあります。この方法は手軽ですが、拡大はできませんし原本をいためる恐れがあります。
つまりこれらの作業の目的は双方とも原本の輪郭を抽出し、筆のかすれまでも輪郭線として正確に写し取るというものです。
こうした看板制作における「籠写し」や薄紙によるトレースという技法に類比できる描画装置がかつて存在し、ルネッサンスを起点に使用されていたのです。透写装置と呼ばれるものです。
図1は格子が引かれたスケールを透した対象物の定点を手元の方眼紙に打っていくというタイプであり、これは座標数値に変換する「籠写し」に類比できます。
図2と図3はスクリーンに直接対象物の輪郭をなぞっていくというタイプで、これは薄紙によるトレースに類比できるでしょう。他にも色々なタイプの透写装置があるのですが、これら透写装置の一番目の目的は「籠写し」や薄紙によるトレースと同様、対象物の輪郭を抽出することにあります。
しかしこれら透写装置において共通する大きく異なる特徴があります。
それは看板制作の「籠写し」や薄紙によるトレースは写す対象が平面であるのに対し、透写装置の対象物は三次元空間にある立体物だということです。立体ではトレースなどできません。従って透写装置の機能とは三次元空間の立体物を平面化することだといえるでしょう。平面とした上で、後は「籠写し」や薄紙によるトレースと同様、その輪郭を抽出します。
これが透視法の発明であり考え方です。これはアルベルティが言った「絵画とは視覚ピラミッドの切断面に他ならない。」ということになります。
それではどうやって立体を平面化するのかというと割と簡単です。
視覚ピラミッドの切断面とは平面であり、実質的には透過性を持つ「ヴェーロ」や格子が引かれたガラススクリーンなどで切断されます。そして切断面が平面であるためには単眼で見るということです。立体として知覚する両眼視機能は邪魔になるからです。それに加えてその単眼を固定する必要があります。そのために照準器が設置されます。
上図の透写装置それぞれには照準器が認められます。固定された照準器の穴から片目で対象物を覗くのです。こうした設えによって対象物は平面化され、輪郭のトレースが可能になります。つまり機能的にいえば、透写装置における対象物とスクリーンの関係は、看板制作の原本と、その上にのせられた「籠写し」のスケール、あるいは薄紙の関係と等しくなるのです。これが透視法という発明です。
そして切断面であるスクリーンをトレースするということは、実質的にも理論的にも網膜像をトレースするということになります。網膜像は眼球の内側だから曲面ですが平らに伸ばせば平面になります。網膜像はそもそも平面像だったのです。つまり視覚ピラミッドの切断面とは平らに伸ばした網膜像のことであり、この網膜像をトレースするというのが透視法がやろうとした、あるいは発見したことに他なりません。
これはカメラオブスキューラ、あるいはカメラオブスキューラによる作画法と眼球の構造の一致という発見から導かれたのだと思います。
アルベルティは「絵画とは視覚ピラミッドの切断面にほかならない。」といいました。しかしそれには透視法のみを絵画と限定するならば…という前提が必要だと思います。絵は本来、そういう風には描かれなかったと思うからです。
例えば看板制作の「籠写し」や薄紙によるトレース、あるいは透写装置における描法に対比できるものとして「臨書」を挙げたいと思います。
「臨書」における写しとは基本的に前段の方法とは全く異なります。これは毛筆の輪郭の正確性などは関係なく、あるいは輪郭線自体関係が無く、原本が持つ意味性、心の動き等を読み取りそれを写すことにあります。あるいは原本の解釈です。
つまり前段の方法…透写装置、「籠写し」などは何を目的にするかというと対象物の輪郭を正確に抽出しその形状を複製することです。対比される点はこの作業においては対象物の意味性、作業者の解釈などは関係がなく、ひたすら正確な輪郭の抽出が機械的に行われるということです。前回の記事でいうならば、ポットの輪郭を輪郭線として抽出するという作業は、ポットが持つ意味性…それが英国のメーカーのものであるとか、優雅な丸みを持つなどの解釈、印象は介入させないということです。スクリーンの切断面における輪郭、トーン、色彩を機械的に正確に写せば、つまり網膜像を正確に写せばその光景における意味性、解釈、あるいは印象がまるごと復元できるという考えなのでしょう。これが「再現」という考え方です。又、「籠写し」や図1のタイプの透写装置においても、「ト-四、へー五、ホ-六、ホ-七…」といった具合で、座標数値に変換するこの作業自体は機械的で対象の意味性、解釈、印象の入る余地はありません。又、石膏デッサンの単眼視計測もこれと同じです。石膏像の定点はファインダー(デスケル)の座標位置に置き換えられます。(二-2の升目の中心から三分の一上方、…という具合です)
もう一つ対比できるものとして絵巻を挙げたいと思います。上は有名な「鳥獣戯画」の抜粋ですが、例えばこのカエルの描線は「視覚の切断面=スクリーン=網膜像…これを以後、視覚(網膜像)とします」のトレースから得られた輪郭線などとは明らかに異なるということが直感的に解るでしょう。カエルの描線はそんなものから得られた所謂輪郭線ではなく、作者が「カエルとはこう描けばカエルだ」…というように、このカエルの描線自体がすでにカエルを表していると同時に作者の記憶、あるいは我々の記憶に共有されているものだと思います。
又、この原本が粉本を元に臨画されたと仮定しても、我々がこの図から意味性を読み取れるように作者も読み取り、それに強調、変形、追加を加えて完成させたのかも知れません。
そしてもし現代の絵師がこの図を粉本として作品を作るなら、カエルやウサギの動きを表す「動線」や飛び散る汗を追加するかも知れません。「動線」や飛び散る汗はもちろん平安絵師には共有が無いと思いますが我々にはあります。つまり「何々とはこう描けば何々だ」の共有とは文化、時代を背景にする概念記憶だということが考えられます。そして継承されていく概念記憶は結果としてそれぞれに異なる寿命があるのでしょう。
恐らく「動線」や飛び散る汗は平安絵師には読むことができないとだろうということと、我々が山水画における「皴法」や「点苔」が解り難い、あるいは実感を持ってその表現を感受できないことは、そうした理由によるものではないかと推測出来ます。
恐らく当時の人は「皴法」や「点苔」を見ることによって直感的に岩山や地面の表現をより実感を持って感受したのかも知れません。
又、「皴法」や「点苔」は現代山水画にも継承されていますが、表現として形骸化してしまっていると思います。しかし少なくとも「動線」や飛び散る汗という表現がそうであるように「視覚(網膜像)」から得られたものでないことは確かだろうと思います。
以上のことからアルベルティが言う「絵画とは視覚ピラミッドの切断面にほかならない。」の「絵画」が世界中に存在する絵一般を指すなら、明らかにそれは間違っているという結論に至ります。
そのことから少なくとも絵には全く異なった二つの制作原理に分けられるだろうということです。それは透視法を意識した絵とそうでない絵です。これを「視覚(網膜像)」を対象とした絵と「記憶」を対象とした絵と呼びたいと思います。
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コメント一覧 (21)
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「透写装置を使ったと仮定して」とありますが,実際には使ってないんですか?
3 次元の「籠写し」は,現実には不可能だと,私は考えています。遠くの風景を描くときは,視点が少々ぶれても影響が小さいので,デッサンスケールはそれなりに役にたちますが,例えば石膏デッサンの場合は,視点がわずかでもぶれたらダメですし,照準器では十分に固定できません。機器がなくてもかなりのことができる人が機器に助けてもらうのはよいですが,機器に依存して画を描くことはできないでしょう。「装置はあくまでもアトリエの道具であって,主体は画家自身の眼であった」という,北澤洋子氏の意見が正しいと思います。
<a href="http://profile.musabi.ac.jp/pages/2013039.html" rel="nofollow">http://profile.musabi.ac.jp/pages/2013039.html</a>
視覚を記憶できる人は記号化しているというのは,おそらくそのとおりでしょう。ただし,いちいち「イ-1」「ロ-2」などと数値化するわけではありません。視野のこの辺りにこの点がある,と覚えるわけですが,視覚の記号化とその再現には,ふつう非常に長い時間がかかります (イディオ・サヴァン系の特殊能力の持主は別です)。通常は単眼視は行いません。単眼視が必要なら眼帯をかけて画を描けばいいはずですが,そんなことをする画家はいません。
ご指摘の画像はもちろん透写装置などは使っていませんし、それに100%手仕事ではありません。タネを明かせば、カメラで撮った画像にフォトショップで輪郭を抽出したものと、色を除いたその画像に同ソフトで45度のハッチングフィルタをかけたものを合成しただけです。この程度の画像は10分以内で簡単に作れます。これは光学機器やフォトレタッチソフトによる動作は総て透視法が踏襲されているということを意味しています。つまり透視法における機械的な作業をその進化形である光学機器やソフトに総て代行させたということです。
現代の写真と見紛うリアリズム絵画は、多かれ少なかれこうしたテクノロジーが使われています。現代において透写装置などを使用している人など一人もいないでしょう。これは一種の内部告発です。
3 次元の「籠写し」を可能にしたものが透視法という発明でありその進化形が光学テクノロジーです。これは記事本文を読まれれば理解してもらえると思います。しかし両眼視差が距離に対して変動するのというは誤解だと思っています。遠距離、近距離にかかわらず一定の視差があるというのが私の見解です。因みに遥か遠方にある月を見てください。金星でも北極星でもいいです。そして片目を手で隠し、瞬間的にその手をもう片方の目に移動してください。月あるいは金星はある一定の距離をもって移動するのが解るでしょう。これが左右の目の視差です。つまり遥か遠方の月や金星であろうとも近景であろうとも視差は存在し、それを輻輳によって融像するというのが我々の目の機能です。従ってデッサンスケールによる単眼視計測は距離は関係がないということです。そしてデッサンスケールのブレはスケールの固定と照準器における目の固定があるかないかの差だと思います。デッサンスケールによる透写装置の代行はそもそもが不可能なのです。そして重要な点はデッサンスケールにおけるその行為が透写装置の代行、もしくは北澤洋子氏いわく「主体は画家自身の眼であった」…それは記事で言う視覚ピラミッドの切断面という認識があってのこその「視覚=網膜像」のことだと思うのですが…とするのが透視法から導かれた大いなる思い込みであるというのが私の趣旨です。その点に関しての仔細は次回ブログ記事で書きます。
又、「視覚の記号化とその再現には,ふつう非常に長い時間がかかります 」とありますが意味が解りません。2秒から5秒あれば充分です。その2秒から5秒が長い時間といわれるなら話は別ですが。
そして「画家と斜視」に投稿されたコメントについて、貴方は顕微鏡スケッチとカメラルシーダの描画原理をよく把握しておられなように思います。これらは左右の目が捉えた別のものを同視野に入れ、それをなぞる、あるいは同時に見比べそれを写す、というものです。一度顕微鏡スケッチの体験をお勧めします。
> 例えばこのカエルの描線は「視覚の切断面=スクリーン=網膜像…これを以後、視覚(網膜像)とします」のトレースから得られた輪郭線などとは明らかに異なるということが直感的に解るでしょう。
わかりません。この画家は,蛙,兎,相撲をとる人間をスケッチして,それらを基にこのタブローを構成したのではないでしょうか。あるいは,写生はしなかったかもしれませんが,少なくとも自分の目で対象をよく見ていたはずです。仮に粉本があったのなら,原作者の視覚像が反映されていますし,自分も同じような視覚像を記憶していて共感できなければ,うまい模写はできません。
> そしてもし現代の絵師がこの図を粉本として作品を作るなら、カエルやウサギの動きを表す「動線」や飛び散る汗を追加するかも知れません。
それをやると一気に価値が下がります。ただし,実際の人間の汗を観察して描き取るなら,面白いかもしれません。現代の技法なら可能でしょう。
> 恐らく「動線」や飛び散る汗は平安絵師には読むことができないとだろうということと、我々が山水画における「皴法」や「点苔」が解り難い、あるいは実感を持ってその表現を感受できないことは、そうした理由によるものではないかと推測出来ます。
皴法,点苔は,拡大すればギザギザや黒点ですが,離れて見れば本物の風景の一部に見えます。だから古い山水画が現代でも評価されているのです。視覚像を近似したものであることは動きません。
そうは見えない,約束事に基づく漫画表現と同じだと言う人は,漫画の読みすぎで想像力が枯渇し,墨による表現と西洋画の表現との違いがわからないのでしょう。
> そのことから少なくとも絵には全く異なった二つの制作原理に分けられるだろうということです。それは透視法を意識した絵とそうでない絵です。これを「視覚(網膜像)」を対象とした絵と「記憶」を対象とした絵と呼びたいと思います。
「自分の視覚像の記憶」を対象とした画と,そうでない画です。視覚を記号化して記憶できる人でないと,前者は描けません。前者のなかに,光学の知識を参考にした画や,光学機器の補助を得た画が含まれるのです。
上村淳之氏はテレビ番組で,日本画は目の前のものを写生しない,記憶の中にあるものを描くのだ,と言っていました。一方で,氏はものすごい数の鳥を飼育しており,毎日それらを眺めて暮らしています。
見ながら描くのでなければ,描く前によく見ておかなければなりません。
全く使わない人もいます。写真すら使わない人もいますし,参考にする人もいますが,機器で写真をなぞったりはしません。
千葉のホキ美術館には,そうした作品が三百数十点あります。
> 遠距離、近距離にかかわらず一定の視差があるというのが私の見解です。
視差があるのはあたりまえです。
> 月あるいは金星はある一定の距離をもって移動するのが解るでしょう。
しかし,形は全然変わりません。
> もしくは北澤洋子氏いわく「主体は画家自身の眼であった」…それは記事で言う視覚ピラミッドの切断面という認識があってのこその「視覚=網膜像」のことだと思うのですが…
関係ありません。認識がなければ,拠り所はますます画家自身の目しかなくなります。光学の知識も機器もないということですから。
> 「視覚の記号化とその再現には,ふつう非常に長い時間がかかります 」とありますが意味が解りません。
<a href="http://blog.tatsuru.com/2007/04/24_1059.php" rel="nofollow">http://blog.tatsuru.com/2007/04/24_1059.php</a>
> 貴方は顕微鏡スケッチとカメラルシーダの描画原理をよく把握しておられなように思います。
それはあなたです。カメラ・ルシーダはなぞるため (だけ) のものです。見るのは (双眼顕微鏡でなければ) 片目でよく,右目で見ても左目で見ても,対象と (右利きなら) 右手と紙が重なって見えるはずです。
> 一度顕微鏡スケッチの体験をお勧めします。
もちろんやったことはあります (描画装置を使ったことはありません)。左目で見たものを右目と右手で描くだけです。同じ視野に入っているかどうかは無関係です。像をなぞることはありません (できません)。
・重要な部分を大きく描く。全体のバランスは考えなくてよい。
・輪郭を明確な実線で描く。
・陰影を付けたいときは,ドットだけを使う。
以上が与えられた注意です。美術デッサンとは違いますが,やはり画のセンスは必要です。それで科学者たちは困って,早くからカメラ・ルシーダを導入したのでしょう。
上村淳之氏や日本画家が鳥を飼うのはそれを眺めて鳥の姿態→形(網膜像ではなく)を記憶に入れるためです。又、それをスケッチする人もいます。しかしそのスケッチは網膜像をトレースしているのではなく、記憶を経由したスケッチです。だからそれによって描かれた図像は彼の記憶に入るのです。
一貫して言ってますが、視覚はそのまま記憶できません。記憶できるのは視覚から切り取られる図像や記号です。よく見て記憶するとはそういうことです。記事では記憶を経由したスケッチを臨書に類比させ、それに対比する網膜像のトレースに籠写しや透写装置を例に挙げています。後者は網膜像をそのまま取り出そうとしたものです。いわば視覚をそのまま取り出そうとしたものであり、それをするには同時に見たり、定点を座標に置き換える装置や設えがいるということです。何故なら視覚はそのまま記憶できないからです。
又、記号化というのは視覚を記憶できない故の人間の機能です。記号の代表は言語記号であり、赤いリンゴを見て「赤いリンゴがそこにあった」と記憶するのは「赤いリンゴがそこにあった」という言語記号によってです。決して視覚そのものではありません。
「それと同じ効果を出す」のなら,それを「視覚像を記憶した」と言うのです。デッサンのとき必要なのはそのタイプの記憶です。実験で調べた 1 秒ともたない感覚記憶でもないし,何十年でももつ漫画的記憶とも異なります。
リンク先を読んでないでしょ?
<a href="http://blog.tatsuru.com/2007/04/24_1059.php" rel="nofollow">http://blog.tatsuru.com/2007/04/24_1059.php</a>
架空の格子を設定して視覚を記号化し,それを再現するには,これだけ時間がかかるのです。速く描ける人はとことん正確を期していないのです (だからダメな画だということでは断じてありません)。
ルネサンス期以降の画にも,実際に対象をなぞってヴェーロの上に描かれたものはないでしょう。鳥羽僧正との違いは,ほぼ画材の違いに帰せられます。直感的に違う,本質的な区別があるなどというのは,誤った先入観であり,嘘です。
ホキ美術館に作品を納めているどの画家の答かはわかりませんが,「写実絵画の定義」を,「抽象以外の具象はすべて写実的なものともいえる。そのなかでも再現性の程度の高いものや細密に描かれているもの」とする意見があります。これが真っ当な考え方です。
それではデューラーやダヴィンチの上の図は一体何をしているところかということになります。
以前先輩の絵描きが「こんな図版が残されているが、これはジョークみたいなもので本当は彼らは装置など使わず描いていた」と言い張っていたのを思い出しました。しかし彼はデッサンスケールは使っていたし、出会った時は既に間歇斜視でした??
ルネッサンス以来の画家達や言い張っていた先輩絵描きの目的は、北澤洋子が言う「普遍的な営み」である「視覚像を描き取ろうとする」(前回コメント出)ということでしょう。「普遍的な営み」の所は異論がありますが、これが玄人筋の写実絵画の大まかな定義です。従って鳥獣戯画は写実の範疇には入れない、というのが解釈です。…玄人筋の。又、スクリーン、ヴェーロをなぞるという話が嘘なら辻茂や北澤洋子などその手の研究者はみんな嘘つきということになります。貴方が嘘つきと非難する分には別に構いませんし自分勝手に定義をつくるのも結構なことです。害はありません。そして先輩絵描きのようにデューラーなどの図版を単なるジョークとしても全く差し支えないのです。世間に何の影響もありません。
「架空の格子を設定して視覚を記号化し,それを再現する…」…又、変な考えが頭に入ってしまいましたね。これって結果的に視覚が記憶出来るということでしょう。そして視覚が記憶出来る特殊な天才が美術を創出する…随分前の話に逆戻りです。疲れませんか?
透視法は芸術であったと同時にテクノロジーでもあるのです。そしてその透視法テクノロジーは現代でも順調に継続し進化を続けています。機器の進化です。だからカメラオブスキューラや凹面鏡がプロジェクターに変わってもそれは正当なのです。タルボットはカメラオブスキューラやカメラルシーダによる絵作りの困難を克服しようとカロタイプをつくり、ダゲールはパノラマや肖像画制作の合理性追求からダゲレオタイプに至りました。それにより多くの肖像画家が暗い部屋からダゲレオタイプに移行したといいます。これが透視法テクノロジーの必然的進化です。
だから内田樹が敬愛する礒江毅のアトリエに撮影機器や製図拡大機、高性能プロジェクター、フォトショップや3Dキャドが入った高スペックパソコンなどがあっても全く正当なのです。これが透視法であり写実だからです。
<a href="http://www.pref.nara.jp/26379.htm" rel="nofollow">http://www.pref.nara.jp/26379.htm</a>
又、礒江毅が身一つで、持ち前の視覚が記憶出来る特殊な才能を発揮し、絵を仕上げたと信じでもいいのです。これはお互い「見たんか!」という話になるだけですから。ただ「網膜像のトレースによって描かれた画というものは,そもそも存在しません。」というのには賛成です。それはこうした透視法が純粋で自然な画だとはどうしても思えないからという前提によるものです。
北澤洋子氏は,スクリーンはガラスだと述べています。ヴェーロではありません。私もあなたの透写装置:
<a href="http://manji.blog.eonet.jp/art/images/2014/01/27/photo.jpg" rel="nofollow">http://manji.blog.eonet.jp/art/images/2014/01/27/photo.jpg</a>
を見た時は,ガラスかプラスチックだろうと思いました。
> 以前先輩の絵描きが「こんな図版が残されているが、これはジョークみたいなもので本当は彼らは装置など使わず描いていた」と言い張っていたのを思い出しました。
私もそれに近い意見です。ヴェーロだとしてもガラスだとしても,一体何で描いたのでしょう? スクリーンに画を描いてしまうと,その画に隠れて向こうが見えなくなりますから,これは修正の利かない難しい素材です。薄い布またはガラスに,一発勝負に堪えるような細い線を引けるメディアとは何ですか? 構図を取るためにこうした装置が使われた可能性は否定しませんが,広く実用されていたとは考えられません。
> しかし彼はデッサンスケールは使っていたし
私でもデッサンスケールくらい使います。あくまで目安にする程度です。
あなたが示した籠写しの「籠」には,縦横合わせて 60 本の線がありますが (それでも,升目の真ん中に点を打つか,やや上か,かなり右か,といったことは数値化されていない),デューラーのデッサンスケールには線が 10 本しかありません。比較にならないということがわかりませんか。
> 従って鳥獣戯画は写実の範疇には入れない、というのが解釈です。…玄人筋の。
厳密にはそうかもしれません。しかし,写生・習作を重ねたうえで,それらを基に構成されたタブローは「写実ではない」と言いきれるのでしょうか。極端な解釈だと思いますよ。
> 又、スクリーン、ヴェーロをなぞるという話が嘘なら辻茂や北澤洋子などその手の研究者はみんな嘘つきということになります。
北澤洋子氏は実用されていなかったとする立場です。辻茂氏はそのような話には言及していません。
> これって結果的に視覚が記憶出来るということでしょう。
そう言ってよいと考えます。あなたが,視覚は 1 秒も記憶できない,というところに凝り固まって,そこからしか出発しないのがおかしいのです。それも一面の事実ではあると思いますが,デッサンのときにはそれとは異なる能力が使われているのです。
> そして視覚が記憶出来る特殊な天才が美術を創出する…随分前の話に逆戻りです。疲れませんか?
いえ全然。それが事実ですから。
それに,完璧にできるのは天才でしょうけど,レベルはいろいろです。著名な画家でもデッサンが多少あやしい人はいるでしょう。
一定の水準に届かない人が美術の創出に関われないのは,当然です。
> 透視法は芸術であったと同時にテクノロジーでもあるのです。
機器を使ったとしても,特に昔は,構図と輪郭と大まかなトーンが取れるだけで,細部はすべて人間の記憶に頼っていたはずです。ルネサンス期以降も,ほとんどの画が機器を使わずに描かれてきました。
> だから内田樹が敬愛する礒江毅のアトリエに撮影機器や製図拡大機、高性能プロジェクター、フォトショップや3Dキャドが入った高スペックパソコンなどがあっても全く正当なのです。
そんなものがあったのですか?
> これはお互い「見たんか!」という話になるだけですから。
磯江のアトリエにそんな高度な機器があったという話は聞かないので (彼が評価されはじめたのは 30 数年も前),使っていなかったのだろうと私は考えているのです。あなたが,磯江がそのような機器を使っていたはずだと主張するなら,その証拠 (アトリエに機器があったという情報,機器がなければ絶対に描けない画の特徴,等) を示さなければなりません。立証責任はあなたにだけあって,私にはありませんから (「なかった」ことの証明はできない),「お互い」ではありません。
> それはこうした透視法が純粋で自然な画だとはどうしても思えないからという前提によるものです。
不自然なのは写真的表現に堕した場合です。あなたの「赤い裸婦」のように。
あなたの言う「特殊能力」によって描かれた画は,多くの人にとって不自然どころか,見て心地よいものです。ある程度のデッサンができる人は稀少とまではいえず,特殊能力と見なす方が間違いでしょう。
「ヴェーロ」はアルベルティの「絵画論」に出てきます。透過性のある薄布がスクリーン使われたのでしょう。以降、視覚ピラミッドの切断面という説明にその言葉が多用されています。
籠写しの格子の数を数えたのですか?60本あったのですか?何か寒気を感じます。「真ん中から3分の1右下」などは数値化と同じ記号化、言語化、概念化というものです。これが人間の持つ象徴化能力です。視覚記憶ではありません。
デューラーの図版が10本だから実際の装置も10本だと決め付けるのは又しても寒いものを感じます。もし実際の装置が100本だとしたら図版では格子を表現できなくなるという想像力が普通は働くものです。
一般的に言葉は多くの人が共有する一定の概念を持っています。そして医学や法律などの用語はその概念を一層きびしく規定します。もし写実=リアリズムを美術や哲学用語として使うなら、写生・習作の頻度は関係がありません。鳥獣戯画は「写実ではない」と言いきれます。それが業界で運用される用語というものです。「見えた通り存在する」「見えた通り描く」これがおおよその写実=リアリズムの定義です。鳥獣戯画自体は少なくとも写生には依っていません。二本足で歩くカエルなど何処を探してもいないということくらいは理解できるでしょう。…理解できませんか?
北澤洋子はよく知りませんが、貴方がリンクした彼女のページには以下のような記述があります。辻茂の著書はそれ自体、当時イタリアにおいて透視法の運用の経緯を記したものです。これに言及しなかったら何に言及するのですか。
「デューラーの著作『測定法教則』が、1525年に透写装置の図解入りで刊行されると、当時の活版印刷術の進展と相まって、アルベルティ以来の透視図法(線遠近法)理論の実践方法は、広く後世に、若い芸術家たちの修業の手引きとして伝えられることになった。…こうしてわれわれの手元にプラスチック製の「デッサンスケール」があるわけだが…」
石膏デッサンに関しては恐らく貴方より私の方が経験豊富だと思います。その体験がスパーリングの実験と期せずして符合したのです。単なる思い込みではありません。それとも貴方が異なる能力を使っているというのならそれがどういうものか披露してください。その披露が無い限りその検討は不可能でしょう。それを提示できないのに、「何か異なる能力が使われているのです♪」とか「細部はすべて人間の記憶に頼っていたはずです♪」などと連呼することを夢想というのです。
その夢想において歴史を歪め断定するのは止めたほうがいいです。…別にやってもかまいませんけど…研究者さんではないようですから。。
礒江毅を非難しているのではありません。私も最初はリアリズムをやっていました。そしてその実際の体験と歴史的な透視法の経緯とテクノロジーがぴったり符合するのです。従って礒江毅の「深い眠り」はこうやって描かれたのだろうと想像することができます。これは悪魔で私の体験からくる想像ですから本当のことは解りません。しかし大体当たっています。悪魔で描き方の話ですよ。ダヴィンチや鳥羽僧正がこうやって描いたのだろうと解ります。これは人智を超えるまるで特殊な神がかった方法ではなく、透視法のテクノロジーや「写し」の機構が私の実体験と符合するからです。だから彼らは天才なのです。貴方が言っているのはかつての団塊世代が主張していた「吉永小百合はウンコなどしない」あるいはもっと前の世代が言っていた「天皇がウンコなどするはずがないではないか、そこに直れ!」といっているようなものです。実際に見て確かめた訳ではないですが、吉永小百合や天皇はやはりウンコをするというのが正解でしょう。自分の実体験や科学や歴史から全くはずれた所からの主張を夢想というのです。
最初の下描きを何で描いたと思いますか?
<a href="http://manji.blog.eonet.jp/art/images/2014/01/27/photo.jpg" rel="nofollow">http://manji.blog.eonet.jp/art/images/2014/01/27/photo.jpg</a>
実際に上のような装置で役にたつ下描きを作ってから,ものを言うべきではないですか。最初から PC に頼るのでなく。
> 現場で一発でタブローに仕上げたのは印象派からです。だから革命だったのです。用具はデュラーの図版では細筆かペンが使われているようです。
当時のデッサンの主役は,木炭や鉛筆ではなく,一発勝負の銀筆でした。ガラスに小さい力で繊細かつ明確な線を引けるものがありますか? カメラ・オブスクラやカメラ・ルシーダやデッサンスケールは実物も記録も残っているのに,大がかりな透写装置についてはわずかな図版しかないのは,なぜだと思いますか?
> 「ヴェーロ」はアルベルティの「絵画論」に出てきます。透過性のある薄布がスクリーン使われたのでしょう。
それに直に描いたとはどこにも述べられていません。
> 「真ん中から3分の1右下」などは
「3分の1」なんて言ってません。定規で測るのですか? 目分量で切ったのだとすれば,それこそが架空の格子の正体です。
> デューラーの図版が10本だから実際の装置も10本だと決め付けるのは又しても寒いものを感じます。
私が持っているデスケルには,6 本の線しかありません。
> もし実際の装置が100本だとしたら図版では格子を表現できなくなるという想像力が普通は働くものです。
線が 100 本ある装置を使っていた,少なくともその可能性がある,と考えますか?
> 二本足で歩くカエルなど何処を探してもいないということくらいは理解できるでしょう。
ケンタウロスは実在しない動物なのに,この作品では realism が実現されていると評されています。おかしいですね:
<a href="http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/g/giambolo/2/76giambo.html" rel="nofollow">http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/g/giambolo/2/76giambo.html</a>
> 北澤洋子はよく知りませんが、貴方がリンクした彼女のページには以下のような記述があります。
「レオナルドにしても自ら考案した透写装置を用いたそのままの構図の作品を残してはいない」「歴史上の『理論』と個々の作品との差異」が重要な点です。
> 辻茂の著書はそれ自体、当時イタリアにおいて透視法の運用の経緯を記したものです。これに言及しなかったら何に言及するのですか。
スクリーンをなぞったとは一言も言っていません。
> その披露が無い限りその検討は不可能でしょう。それを提示できないのに、「何か異なる能力が使われているのです♪」とか「細部はすべて人間の記憶に頼っていたはずです♪」などと連呼することを夢想というのです。
機器を使わずにうまいデッサンを描く人が,周りに 1 人もいなかったのですか? 美術館には見事なデッサンが多数収められていますが,あれらは細部まですべて機器によって描かれたのでしょうか? 安井曾太郎はどんな機器を使ったのでしょう? 貧乏な画家がどうやって機器を使えたのでしょうか?
どちらが夢想的かは明らかだと思います。
> 従って礒江毅の「深い眠り」はこうやって描かれたのだろうと想像することができます。
どうやって描かれたのだと思いますか。あの画は 1995 年作ですよ。磯江も写真ぐらいは見ていたでしょう (簡単に手に入りますから)。写真と機器を駆使して,磯江と同じか,それに近いレベルの画を作って見せてください。
<a href="http://manji.blog.eonet.jp/art/images/2014/01/27/photo_2.jpg" rel="nofollow">http://manji.blog.eonet.jp/art/images/2014/01/27/photo_2.jpg</a>
<a href="http://ameblo.jp/tonton3/image-10968035980-11379404560.html" rel="nofollow">http://ameblo.jp/tonton3/image-10968035980-11379404560.html</a> (磯江毅「地の音」1999 年)
現状では開きがありすぎます。
> これは悪魔で私の体験からくる想像ですから本当のことは解りません。
> 悪魔で描き方の話ですよ。
こう繰り返されると変換ミスとは思えません。悪魔は要りません。怖いです。
<a href="http://blog.livedoor.jp/minminmiracle/archives/50685974.html" rel="nofollow">http://blog.livedoor.jp/minminmiracle/archives/50685974.html</a>
安井曾太郎は特殊能力の持主ではありません (紙一重な感じもしますが):
<a href="http://db.am.geidai.ac.jp/person.cgi?id=1785" rel="nofollow">http://db.am.geidai.ac.jp/person.cgi?id=1785</a>
20 歳そこそこでこの画力です。完璧ですね。
パリの画学生が当時非常に高価だった写真を使用したのだ,それは,吉永小百合や天皇もウンコをするのと同様に当然だ,証拠は要らぬと,あなたは「自分の実体験や科学や歴史から」飽くまで主張しますか?
ちなみに,当時の写真が安井の画より鮮明だったかどうかは疑問です。
<a href="http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/backnumber/110618/images/p002.jpg" rel="nofollow">http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/backnumber/110618/images/p002.jpg</a>
辻茂の著作において、透写装置の図版を多く引用し、この図版は総て彼らのジョークだと、どうやったら読めるのですか。
北澤洋子の根拠はよく解りませんが、「レオナルドにしても自ら考案した透写装置を用いたそのままの構図の作品を残してはいない」と言う限り、「透写装置を用いたそのままの構図」というのが在るということでしょう。
ルネッサンスの頃には下絵、素描に半田の銀筆よりもむしろ、木炭やパステルが多く使われていました。調べてください。そしてパステルはガラスに載りますし樹脂で溶いたピグメントを細筆やペンで描けば充分載ります。図2をよく見てください。テーブルの上に液体らしきものが入った容器があります。
それは易しいことではないけれども,安井のレベルまで求めないなら,ある程度視覚を記憶できる人は一定数いるわけでしょう? 特殊能力などではありません。おそらく「視覚そのもの」を記憶しているのではないのでしょうけど (視覚を記号化して再現している),結果的に同じことです。また,それができたからといって,皆が偉大な画家になれるわけではもちろんありません。
> 辻茂の著作において、透写装置の図版を多く引用し、この図版は総て彼らのジョークだと、どうやったら読めるのですか。
図 3 は,レオナルドがいろいろなアイデア (飛行機,ヘリコプター,戦車,水上歩行器など) をスケッチした手稿 (アンブロジアーナ図書館蔵,ミラノ) の中にあるものです。アイデアのほとんどは当時実現していません。ただ,レオナルドは何といっても画家ですし,デューラーも同じような図を残しているので,一概に「ジョーク」と決めつけるわけにはいきません。
レオナルド自身が図 3 に付けたイタリア語の説明を英訳すると,次のようになるらしいです:
"Have a piece of glass as large as a half sheet of royal folio paper and set thus firmly in front of your eyes, that is, between your eye and the thing you want to draw. Then place yourself at a distance of 2/3 of a braccia from the glass fixing your head with a machine in such a way that you cannot move it at all. Then shut or entirely cover one eye and with a brush or red chalk draw upon the glass that which you see beyond it; then trace it on paper from the glass, afterwards transfer it onto good paper, and paint it if you like, carefully attending to the aerial perspective." (<a href="http://redi.imss.fi.it/inventions/index.php/Glass)" rel="nofollow">http://redi.imss.fi.it/inventions/index.php/Glass)</a>
実際に作られていたとすれば,スクリーンはガラス板で,そこに対象を筆または赤チョークでなぞるのだとわかります。最大の疑問点は,頭 (視点) を完全に固定することができるかどうかです。手を動かせばどうしたって頭も動き,描かれた画はゆがんでしまうでしょう。私もあなたの先輩と同じく,この装置は実用にならなかったと考えます。
> 「透写装置を用いたそのままの構図」というのが在るということでしょう。
それは,現代のわれわれが写真で作るのではないでしょうか。
> ルネッサンスの頃には下絵、素描に半田の銀筆よりもむしろ、木炭やパステルが多く使われていました。
確かにどちらも使われていますが,レオナルドやデューラーは古い画家なので,銀筆も多いです (図 3 もおそらく銀筆)。ヤン・ファン・エイクやロヒール・ファン・デル・ウェイデンの銀筆デッサンは見事なものです。西洋的写実絵画の始まりは素材の特性に負うところが大きく,透視法はそれを追って来たのだと思います。
> そしてパステルはガラスに載りますし樹脂で溶いたピグメントを細筆やペンで描けば充分載ります。図2をよく見てください。テーブルの上に液体らしきものが入った容器があります。
ガラス絵ってご存じですか? 主に色彩を楽しむもので,ガラスは繊細微妙な表現には適さない基底です。上の英訳にもあるように,この透写装置でガラスに描かれたものを紙になぞり,さらに別の紙に写すというのですから,仮に装置が実用されていたとしても,使えるのはおそらく輪郭だけで,細部はやはり対象を直接見ながら描いていくことになるでしょう。
カメラオブスキューラ、カメラルシーダ、それに望遠鏡タイプを含めた透写装置は以前復元し、実験済みです。総て描画可能です。それに貴方がリンクしたページの冒頭には「ダヴィンチが発明した可能性があるこの装置は15世紀以降使用された」とあります。これが定説なのでしょう。ゴッホも鉄製の装置を使ったと以前何かで読んだことがあります。
北澤が言う「透写装置を用いたそのままの構図」を「現代のわれわれが写真で作る」ものとするなど論旨がばらんばらんです。全くダメです。話の骨子が追えていません。又、「視覚を記号化して再現している」の意味することを理解した上でそれをお使いください。全く意味が通りません。
透写装置で抽出する図像は下絵の下絵だと言いました。上記のダヴィンチの手稿を抜粋したリンクページにもそう書いてあります。抽出するのは主に、ある一点から見た対象物の正確な輪郭線です。これは直接視(自然視)では描けないから装置を使ったのです。「籠写し」の原本の正確な転写、拡大と同じ理屈です。そして石膏デッサンや安井の木炭デッサンはそうした装置なしの身一つで、装置から得られることをする訓練です。時には「透写装置を祖にするデスケル(北澤)」での単眼視計測や、無意識の内の両目の操作においてそれを試みます。
つまり透視法とは直接視(自然視)では出来ないことをやろうとする技術です。だからそれを必死でやった先輩絵描きたちの多くのは……。
だからこれで固定できると思う方がおかしいのです。頭のレントゲン撮影と違います。手も動かすし時間も相当かかります。何か描けるでしょうけど,装置を使わない方がきっとうまく描けます。
> カメラオブスキューラ、カメラルシーダ、それに望遠鏡タイプを含めた透写装置は以前復元し、実験済みです。総て描画可能です。
それは完全な嘘です。あなたはカメラ・ルシーダの構造を知りません。見るのは片目でよいのです。描いたというものをどこかにアップロードしてください。あなたがこれまでどれだけ口から出まかせを言ってきたか,ここを訪れる人はみな知ってますよ。
> ゴッホも鉄製の装置を使ったと以前何かで読んだことがあります。
いいかげんな情報は要りません。とりあえず,このような装置は現存しません。
> それに貴方がリンクしたページの冒頭には「ダヴィンチが発明した可能性があるこの装置は15世紀以降使用された」とあります。これが定説なのでしょう。
そうみたいですね。しかし,使われた証拠がないのです。
> 北澤が言う「透写装置を用いたそのままの構図」を「現代のわれわれが写真で作る」ものとするなど論旨がばらんばらんです。全くダメです。話の骨子が追えていません。
透写装置を用いたそのままの構図は残っていませんから,われわれが推定するほかありません。
> 抽出するのは主に、ある一点から見た対象物の正確な輪郭線です。
輪郭以外はどうするんですか? それは機器なしで描いたとするのは「夢想」なんでしたよね?
> 「籠写し」の原本の正確な転写、拡大と同じ理屈です。
実際には線が 100 本ある装置を使ったんですか? なぞったら拡大はできませんよね?
> つまり透視法とは直接視(自然視)では出来ないことをやろうとする技術です。だからそれを必死でやった先輩絵描きたちの多くのは……。
リアリズム絵画は透視法とは必ずしも一致しません。写真に非常に近く描く人もいますし,「本物そっくり」ではあるが明らかに写真とは違う人もいます。
知らないのは貴方のほうです。カメラルシーダは両眼で見るタイプと両眼、単眼を併用するタイプがあります。素朴なカメラルシーダは鏡を使用したものでこれは両眼で見ます。(ウィキペディアにもそう書かれています)これだと対象物が上下逆転するのでそれを解消するためプリズムを使用したものが19世紀英国のウォラストンが販売した後者のタイプです。
プリズムは高価なので…実際光学屋さんへ見積もりに行きました…私は鏡とレンズだけで作りました。そして対象物の転倒を解消するため双眼鏡風に接眼を並列にし、作業しやすいようそれにベルトを付け、頭に固定しました。接眼の鏡を20度位に調節すると大体石膏デッサンのポジションが作れ、これを京芸短と京造の学生に視覚実験としてやってもらいました。45度にすると「チェシャー猫の箱」の実験が出来ますが学生にはこちらの方が受けました。
又、カメラオブスキューラは子供の頃からそれらしいものを何個も作っています。
<a href="http://manji.blog.eonet.jp/art/2011/10/post-427d.html" rel="nofollow">http://manji.blog.eonet.jp/art/2011/10/post-427d.html</a>
透写装置については1999年だったと思いますが、S氏と視覚距離の違いを見るため仮設ですが望遠鏡タイプと図2タイプを設営しこれを比較しました。総て描画可能です。透写装置は仕掛けが単純だから勝手な夢想を押し通す前にそれを設営して試してみればいいのです。貴方と違い私は本名、経歴、工房の所在、それに顔出しもしているのです。発言に伴うリスクは承知しています。
透写装置がジョークで「透写装置を用いたそのままの構図」の下書きというものが存在しないなら、誰もそれを知らないはずなのに、ダヴィンチはそれを作品にはしなかったと如何してわかるのかということを言ったのです。その下書きがもし後世の推定によるなら、それは透写装置を何がしか用いることにおいての推定になり、透写装置はジョークではなくなるではないですか。
「籠写し」と同じ理屈だとしたのは、籠や装置なしで目だけなら、正確に原本を転写できないということです。目だけで正確に描けるというのなら、装置なしで鉄斎筆だということを一般に通じさせる看板が作れるれてしまうということです。そんなこと出来ますか。そもそも鉄斎が承知しないでしょう。
Durer's device というのはそれなりに知られているらしく,現存しないことはわかっていますから,いつまで残っても心配は要りません。もし古い装置やガラスに描かれた下画が出て来たら,美術史上の大発見でしょう。そのときは私が間違っていたことになるだけです。
> 装置が現存しないからといってそれが存在しなかった理由にはまるでならないし
存在しなかっただろうという推定が強く働きます。証拠がなくても吉永小百合や天皇がウンコをするにきまっているように,存在したにきまっている,といった下品な説明は成り立ちません。
> 定説となるにはそれだけの証拠が収集されているからです。
デューラーの著作とその孫引き以外の証拠を,たった 1 つでいいので示してください。
> カメラルシーダは両眼で見るタイプと両眼、単眼を併用するタイプがあります。
「両眼、単眼を併用する」って何ですか? 1 月 23 日コメント「片目だけでどうやって接眼像と紙と右手が同時に見えるのですか」息をするように嘘をつくんですね。
> 素朴なカメラルシーダは鏡を使用したものでこれは両眼で見ます。(ウィキペディアにもそう書かれています)
どこにですか? のぞく所は小さいですよ。現代の技術で作ったネオ・ルシーダでは,このように見えます:
<a href="http://neolucida.com/" rel="nofollow">http://neolucida.com/</a>
いずれにしても,左目で見た像を右目と右手でなぞるといった話とは全く無関係です。ビデオカメラにそんな芸当はできません。
> 貴方と違い私は本名、経歴、工房の所在、それに顔出しもしているのです。発言に伴うリスクは承知しています。
だから光学機器を使って描いたものを出せと言っているのです。
> 透写装置がジョークで「透写装置を用いたそのままの構図」の下書きというものが存在しないなら、誰もそれを知らないはずなのに、ダヴィンチはそれを作品にはしなかったと如何してわかるのかということを言ったのです。
レオナルドの画の構図と同じか,ほぼ同じ構図の写真が撮れないということからわかります。
> 透写装置はジョークではなくなるではないですか。
写真の発明によって,ジョークではなくなったのです。
> 「籠写し」と同じ理屈だとしたのは、籠や装置なしで目だけなら、正確に原本を転写できないということです。
デッサンスケールがあっても,正確に対象を転写することはできません。リアリズム絵画は「見えたとおりに」描こうとしますが,そもそも対象の「転写」が目的ではありません。ジョットやヤン・ファン・エイクのイリュージョンをどうすれば確実に再現できるかと考えた時に,透視法が発明され,「転写」という誤解が広まったのです。画家たちはその辺りの機微を心得ていて,デッサンスケールをあくまで目安にしかしません。
> 目だけで正確に描けるというのなら、装置なしで鉄斎筆だということを一般に通じさせる看板が作れるれてしまうということです。そんなこと出来ますか。そもそも鉄斎が承知しないでしょう。
例えば,古びて色あせた鉄斎の看板を「本物そっくり」に描くためには,やはり人間の目に頼るしかないでしょう。リアリズムとはそういうことだと思います。
例えば,片目の視力がない人でも,カメラ・ルシーダで画を描けるはずです。
ゴッホが使ったというのはこれですね:
<a href="http://www.howtodrawjourney.com/vincent-van-gogh-drawing.html" rel="nofollow">http://www.howtodrawjourney.com/vincent-van-gogh-drawing.html</a>
彼流のデッサンスケールです。構図をとる目安にすぎないので,照準器すらありません。同趣のものは他にも見られます:
<a href="http://www.magnoliabox.com/art/144503/Artist_painting_a_portrait_over_a_grid_for_accurate_proportion" rel="nofollow">http://www.magnoliabox.com/art/144503/Artist_painting_a_portrait_over_a_grid_for_accurate_proportion</a>
ときどき単眼視をやるんでしょうけど,アバウトです。籠写しのような精確な方法とは目的が全然違います。
ヴィクトリア & アルバート美術館 (ロンドン) のサイトに,"John Constable...used a glass frame similar to one described in the Treatise on Painting by Leonardo da Vinci" とあり,「おっ」と思いましたが,他には情報が得られません。どういうことなんでしょうか…:
<a href="http://www.vam.ac.uk/content/articles/d/drawing-techniques/" rel="nofollow">http://www.vam.ac.uk/content/articles/d/drawing-techniques/</a>
うまく描けそうにないことは予想どおりです:
<a href="http://blog.heidikull.de/tag/betty-edwards/" rel="nofollow">http://blog.heidikull.de/tag/betty-edwards/</a>