京都の老舗では鉄斎などの文人筆による看板を今でも多く見ることができます。これは看板職人が「籠写し」という方法で原本を正確に転写、拡大したものです。この方法は原本の上に細かくグリッド状に編みこまれたスケール(籠)を置き、そのグリッドと同じ比率で引かれた看板面の同位地に原本の定点を打っていくというものです。この定点を繋げていけば原本の転写、拡大ができます。

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 格子の升目側面にに数字や記号が打たれており、例えばト-五に位置する原本の輪郭上の定点を看板上の升目ト-五に打っていきます。つまり定点の位置を座標数値に変換するのです。(数値は記憶できます)こうして打たれた点を繋げていけば原本の転写、拡大が出来、従って格子が細かいほど正確度は増します。
 又、原本の上に薄紙を置き、直接輪郭を細筆でなぞるという方法もあります。この方法は手軽ですが、拡大はできませんし原本をいためる恐れがあります。

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 つまりこれらの作業の目的は双方とも原本の輪郭を抽出し、筆のかすれまでも輪郭線として正確に写し取るというものです。

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 こうした看板制作における「籠写し」や薄紙によるトレースという技法に類比できる描画装置がかつて存在し、ルネッサンスを起点に使用されていたのです。透写装置と呼ばれるものです。

 図1は格子が引かれたスケールを透した対象物の定点を手元の方眼紙に打っていくというタイプであり、これは座標数値に変換する「籠写し」に類比できます。
 図2と図3はスクリーンに直接対象物の輪郭をなぞっていくというタイプで、これは薄紙によるトレースに類比できるでしょう。他にも色々なタイプの透写装置があるのですが、これら透写装置の一番目の目的は「籠写し」や薄紙によるトレースと同様、対象物の輪郭を抽出することにあります。
 しかしこれら透写装置において共通する大きく異なる特徴があります。

 それは看板制作の「籠写し」や薄紙によるトレースは写す対象が平面であるのに対し、透写装置の対象物は三次元空間にある立体物だということです。立体ではトレースなどできません。従って透写装置の機能とは三次元空間の立体物を平面化することだといえるでしょう。平面とした上で、後は「籠写し」や薄紙によるトレースと同様、その輪郭を抽出します。
 これが透視法の発明であり考え方です。これはアルベルティが言った「絵画とは視覚ピラミッドの切断面に他ならない。」ということになります。

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 それではどうやって立体を平面化するのかというと割と簡単です。
 視覚ピラミッドの切断面とは平面であり、実質的には透過性を持つ「ヴェーロ」や格子が引かれたガラススクリーンなどで切断されます。そして切断面が平面であるためには単眼で見るということです。立体として知覚する両眼視機能は邪魔になるからです。それに加えてその単眼を固定する必要があります。そのために照準器が設置されます。
 上図の透写装置それぞれには照準器が認められます。固定された照準器の穴から片目で対象物を覗くのです。こうした設えによって対象物は平面化され、輪郭のトレースが可能になります。つまり機能的にいえば、透写装置における対象物とスクリーンの関係は、看板制作の原本と、その上にのせられた「籠写し」のスケール、あるいは薄紙の関係と等しくなるのです。これが透視法という発明です。
 そして切断面であるスクリーンをトレースするということは、実質的にも理論的にも網膜像をトレースするということになります。網膜像は眼球の内側だから曲面ですが平らに伸ばせば平面になります。網膜像はそもそも平面像だったのです。つまり視覚ピラミッドの切断面とは平らに伸ばした網膜像のことであり、この網膜像をトレースするというのが透視法がやろうとした、あるいは発見したことに他なりません。
 これはカメラオブスキューラ、あるいはカメラオブスキューラによる作画法と眼球の構造の一致という発見から導かれたのだと思います。

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 アルベルティは「絵画とは視覚ピラミッドの切断面にほかならない。」といいました。しかしそれには透視法のみを絵画と限定するならば…という前提が必要だと思います。絵は本来、そういう風には描かれなかったと思うからです。

 例えば看板制作の「籠写し」や薄紙によるトレース、あるいは透写装置における描法に対比できるものとして「臨書」を挙げたいと思います。
 「臨書」における写しとは基本的に前段の方法とは全く異なります。これは毛筆の輪郭の正確性などは関係なく、あるいは輪郭線自体関係が無く、原本が持つ意味性、心の動き等を読み取りそれを写すことにあります。あるいは原本の解釈です。
 つまり前段の方法…透写装置、「籠写し」などは何を目的にするかというと対象物の輪郭を正確に抽出しその形状を複製することです。対比される点はこの作業においては対象物の意味性、作業者の解釈などは関係がなく、ひたすら正確な輪郭の抽出が機械的に行われるということです。前回の記事でいうならば、ポットの輪郭を輪郭線として抽出するという作業は、ポットが持つ意味性…それが英国のメーカーのものであるとか、優雅な丸みを持つなどの解釈、印象は介入させないということです。スクリーンの切断面における輪郭、トーン、色彩を機械的に正確に写せば、つまり網膜像を正確に写せばその光景における意味性、解釈、あるいは印象がまるごと復元できるという考えなのでしょう。これが「再現」という考え方です。又、「籠写し」や図1のタイプの透写装置においても、「ト-四、へー五、ホ-六、ホ-七…」といった具合で、座標数値に変換するこの作業自体は機械的で対象の意味性、解釈、印象の入る余地はありません。又、石膏デッサンの単眼視計測もこれと同じです。石膏像の定点はファインダー(デスケル)の座標位置に置き換えられます。(二-2の升目の中心から三分の一上方、…という具合です)

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 もう一つ対比できるものとして絵巻を挙げたいと思います。上は有名な「鳥獣戯画」の抜粋ですが、例えばこのカエルの描線は「視覚の切断面=スクリーン=網膜像…これを以後、視覚(網膜像)とします」のトレースから得られた輪郭線などとは明らかに異なるということが直感的に解るでしょう。カエルの描線はそんなものから得られた所謂輪郭線ではなく、作者が「カエルとはこう描けばカエルだ」…というように、このカエルの描線自体がすでにカエルを表していると同時に作者の記憶、あるいは我々の記憶に共有されているものだと思います。
 又、この原本が粉本を元に臨画されたと仮定しても、我々がこの図から意味性を読み取れるように作者も読み取り、それに強調、変形、追加を加えて完成させたのかも知れません。
 そしてもし現代の絵師がこの図を粉本として作品を作るなら、カエルやウサギの動きを表す「動線」や飛び散る汗を追加するかも知れません。「動線」や飛び散る汗はもちろん平安絵師には共有が無いと思いますが我々にはあります。つまり「何々とはこう描けば何々だ」の共有とは文化、時代を背景にする概念記憶だということが考えられます。そして継承されていく概念記憶は結果としてそれぞれに異なる寿命があるのでしょう。
 恐らく「動線」や飛び散る汗は平安絵師には読むことができないとだろうということと、我々が山水画における「皴法」や「点苔」が解り難い、あるいは実感を持ってその表現を感受できないことは、そうした理由によるものではないかと推測出来ます。
 恐らく当時の人は「皴法」や「点苔」を見ることによって直感的に岩山や地面の表現をより実感を持って感受したのかも知れません。
 又、「皴法」や「点苔」は現代山水画にも継承されていますが、表現として形骸化してしまっていると思います。しかし少なくとも「動線」や飛び散る汗という表現がそうであるように「視覚(網膜像)」から得られたものでないことは確かだろうと思います。

 以上のことからアルベルティが言う「絵画とは視覚ピラミッドの切断面にほかならない。」の「絵画」が世界中に存在する絵一般を指すなら、明らかにそれは間違っているという結論に至ります。
 そのことから少なくとも絵には全く異なった二つの制作原理に分けられるだろうということです。それは透視法を意識した絵とそうでない絵です。これを「視覚(網膜像)」を対象とした絵と「記憶」を対象とした絵と呼びたいと思います。

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