「画家たちは『目が見たものを描く』という単純な要求が、それ自体矛盾を含んでいることを既に知った。そのため芸術は途方に暮れてしまったのだ。」p244

「見える通りに描くと考えが現れ始めたのはやっとルネッサンスの時代を迎えてからである。…しかし、どの世代にも思いがけない伏兵の拠点、つまり因習という砦が相変わらず待っており、これが彼らに見たものよりむしろ、学んで知った形を描かせたのであった。19世紀の反逆児たちはこれら因習のことごとくを一掃しようと提案したのである。」p245 

 これが書かれているのは「美術の歩み(下) 」 友部 直 訳 改訂新版 美術出版社です。この部分の精緻で丹念な再論証を試みたのが「芸術と幻影 」であり、ここではこうした内容がいたるところで繰り返されています。例えばp525「回想」の2行〜12行、p525 2行〜14行を読んでください。  又、「自分が見ているものを描くことはできない…」p7とも書かれています。    

 ところであなたはスケッチやクロッキーをしたことないのですか。一分間クロッキーとはモデルがポーズする一分以内でそのポーズしているモデルを描くものであり、従って通常、目はモデルとスケッチブックを秒単位で何度も往復します。  何故そうするのかというと、人は機能的に見たものを記憶できないからであり、それにもかかわらず見たものを描こうという要求があるからです。  
 見たものを記憶できるなら秒単位で何度も往復する必要もないし、又、見たものを描こうとしないなら、つまり概念に変換しその記憶を描くならば、これも秒単位で何度も往復する必要もないのです。従って、この行為自体が出来ないことをやろうとする矛盾を露呈しているのです。それにもかかわらず、この行為が見たものを描く方法だと、あなたや多くの一般の人は信じています。  ゴンブリッチの主張の一つはこの思い込みに向けられています。

「美術家は『自分が見ているものを描く』ことはできないし、習慣を完全に払拭することもできない、とする趣意の私の主張は、警句的で独断的なものと受け止められてもやむをえまい。この自説を明確に実証するために、私は誠に重宝な知覚理論なるものの再検討をしなければならなかった。」p7  として、「芸術と幻影」はその再検討の記録であるといっています。  どうやったら「芸術と幻影」をあなたのような読み方ができるのか全く信じられません。文献や提出された科学的データを自分たちの思い込みを基に捻じ曲げ解釈する何とかの塔からやって来る人たちを思い出します。

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 そしてヤン・ファン・エイクの「アルノルフィーニ夫妻の肖像」に描かれている犬の絵の描き方なのですが、私が「図像の写し」としたのは「写し」の描画原理をいったのであり、何かをコピーするこどではありません。  つまり「写し」の描画原理とは粉本や画帳の図像を何度も写すことにより、その図像を概念化して絵師の長期記憶に保存することであり、その記憶をアーカイブとして、その断片をアウトプットし組み合わせ、変形し、新しい絵を創るというものです。これはマンガの描画原理に類比できます。「臨画、罫画のススメ(4)」のアンソニーの事例をお読みください。 http://manji.blog.eonet.jp/art/2012/01/post-a5b2.html

 そしてここに来て、ゴンブリッチという頼もしい味方が現れました。彼が言うのには「何も無いところから忠実なイメージは創れない」p129 のであり、そこには描き方という知識、図像のフォーマットが必要であるということです。  そしてルネッサンスになり「自分が見ているものを描く」という欲求が生じてからは、その図像のフォーマットを、現実の視覚情報に合わせ、追加、修正する、すなわち「図式と修正」という手続きを持って成されるといいます。又、そのフォーマットがなければ描くことはおろか見ることもできないということです。p38  そしてこのフォーマットの構築は絶え間ない模写によって成されるということであり、この主張は私の「写しの原理」と大筋において重なります。

 ヤン・ファン・エイクの犬はこうして描かれたのです。ゴンブリッチに言わせると犬の描き方という図像のフォーマットがまずあって、そのフォーマットに現実の犬に合わせる「図式と修正」が成されたということです。  あなたの考えは、そこにいる現実の犬を見えたとおり描いたということになるのでしょうが、それには視覚記憶が問題になります。そして天才はそれを成し得るということになるのでしょうが、特殊な場合を除きそれはまずありません。少なくとも印象派が現れるまで、画家は陶器職人や庭師などと同じ、職業の一つだったのです。

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例えば東西を問わず、ドラゴンの絵は沢山ありますが、この実際には存在しないドラゴンはどうやって描かれたのかということです。実際それを見ることは叶いません。あるいは鳥獣戯画のカエルやウサギの絵はどうやって描かれたのかということです。
 以前あなたのコメントで、カエルを捕まえてきてそれを殺し、相撲のポーズをさせ、それを見える通り描いたのではないか、私ならそうすると言っていましたが、そんな怖いことをするのはあなただけです。普通絵描きはそんなことは考えません。そして私も絵描きの端くれです。だから「赤い裸婦」や「逆立ちに挑戦する鶏」を提示したのは、「写しの原理」でそれが普通に描けるいうことを伝えたかったからに他なりません。

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