「画家たちは『目が見たものを描く』という単純な要求が、それ自体矛盾を含んでいることを既に知った。そのため芸術は途方に暮れてしまったのだ。」p244
「見える通りに描くと考えが現れ始めたのはやっとルネッサンスの時代を迎えてからである。…しかし、どの世代にも思いがけない伏兵の拠点、つまり因習という砦が相変わらず待っており、これが彼らに見たものよりむしろ、学んで知った形を描かせたのであった。19世紀の反逆児たちはこれら因習のことごとくを一掃しようと提案したのである。」p245
これが書かれているのは「美術の歩み(下) 」 友部 直 訳 改訂新版 美術出版社です。この部分の精緻で丹念な再論証を試みたのが「芸術と幻影 」であり、ここではこうした内容がいたるところで繰り返されています。例えばp525「回想」の2行〜12行、p525 2行〜14行を読んでください。 又、「自分が見ているものを描くことはできない…」p7とも書かれています。
ところであなたはスケッチやクロッキーをしたことないのですか。一分間クロッキーとはモデルがポーズする一分以内でそのポーズしているモデルを描くものであり、従って通常、目はモデルとスケッチブックを秒単位で何度も往復します。 何故そうするのかというと、人は機能的に見たものを記憶できないからであり、それにもかかわらず見たものを描こうという要求があるからです。
見たものを記憶できるなら秒単位で何度も往復する必要もないし、又、見たものを描こうとしないなら、つまり概念に変換しその記憶を描くならば、これも秒単位で何度も往復する必要もないのです。従って、この行為自体が出来ないことをやろうとする矛盾を露呈しているのです。それにもかかわらず、この行為が見たものを描く方法だと、あなたや多くの一般の人は信じています。 ゴンブリッチの主張の一つはこの思い込みに向けられています。
「美術家は『自分が見ているものを描く』ことはできないし、習慣を完全に払拭することもできない、とする趣意の私の主張は、警句的で独断的なものと受け止められてもやむをえまい。この自説を明確に実証するために、私は誠に重宝な知覚理論なるものの再検討をしなければならなかった。」p7 として、「芸術と幻影」はその再検討の記録であるといっています。 どうやったら「芸術と幻影」をあなたのような読み方ができるのか全く信じられません。文献や提出された科学的データを自分たちの思い込みを基に捻じ曲げ解釈する何とかの塔からやって来る人たちを思い出します。
そしてヤン・ファン・エイクの「アルノルフィーニ夫妻の肖像」に描かれている犬の絵の描き方なのですが、私が「図像の写し」としたのは「写し」の描画原理をいったのであり、何かをコピーするこどではありません。 つまり「写し」の描画原理とは粉本や画帳の図像を何度も写すことにより、その図像を概念化して絵師の長期記憶に保存することであり、その記憶をアーカイブとして、その断片をアウトプットし組み合わせ、変形し、新しい絵を創るというものです。これはマンガの描画原理に類比できます。「臨画、罫画のススメ(4)」のアンソニーの事例をお読みください。 http://manji.blog.eonet.jp/art/2012/01/post-a5b2.html
そしてここに来て、ゴンブリッチという頼もしい味方が現れました。彼が言うのには「何も無いところから忠実なイメージは創れない」p129 のであり、そこには描き方という知識、図像のフォーマットが必要であるということです。 そしてルネッサンスになり「自分が見ているものを描く」という欲求が生じてからは、その図像のフォーマットを、現実の視覚情報に合わせ、追加、修正する、すなわち「図式と修正」という手続きを持って成されるといいます。又、そのフォーマットがなければ描くことはおろか見ることもできないということです。p38 そしてこのフォーマットの構築は絶え間ない模写によって成されるということであり、この主張は私の「写しの原理」と大筋において重なります。
ヤン・ファン・エイクの犬はこうして描かれたのです。ゴンブリッチに言わせると犬の描き方という図像のフォーマットがまずあって、そのフォーマットに現実の犬に合わせる「図式と修正」が成されたということです。 あなたの考えは、そこにいる現実の犬を見えたとおり描いたということになるのでしょうが、それには視覚記憶が問題になります。そして天才はそれを成し得るということになるのでしょうが、特殊な場合を除きそれはまずありません。少なくとも印象派が現れるまで、画家は陶器職人や庭師などと同じ、職業の一つだったのです。
ルーベンス
例えば東西を問わず、ドラゴンの絵は沢山ありますが、この実際には存在しないドラゴンはどうやって描かれたのかということです。実際それを見ることは叶いません。あるいは鳥獣戯画のカエルやウサギの絵はどうやって描かれたのかということです。
以前あなたのコメントで、カエルを捕まえてきてそれを殺し、相撲のポーズをさせ、それを見える通り描いたのではないか、私ならそうすると言っていましたが、そんな怖いことをするのはあなただけです。普通絵描きはそんなことは考えません。そして私も絵描きの端くれです。だから「赤い裸婦」や「逆立ちに挑戦する鶏」を提示したのは、「写しの原理」でそれが普通に描けるいうことを伝えたかったからに他なりません。
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コメント
コメント一覧 (28)
それを示さなければ,捏造と見られても仕方がありません。あなたには大八車の前科があります。
> ここではこうした内容がいたるところで繰り返されています。
『芸術と幻影』では序文と回顧においてであって,本論においてはむしろマイルドになっています。
> 従って通常、目はモデルとスケッチブックを秒単位で何度も往復します。
1 秒きりでは何もできませんから,1 秒実験は描画とは徹頭徹尾無関係です。
> 従って、この行為自体が出来ないことをやろうとする矛盾を露呈しているのです。
誰にもクロッキーはできないはずなのに,見事なものを描く人がいます。なぜですか?
> どうやったら「芸術と幻影」をあなたのような読み方ができるのか全く信じられません。
あなたがバカだからでしょ。ゴンブリッチ自身が,話の辻褄が合うように言い訳をしてるじゃないですか。彼は影響力のある美術史家かもしれませんが,"...what we see first in him〔=Giotto〕 is therefore not lifelikeness but rigid restraint and majestic aloofness." (p.51,邦訳 p.101) などと言っているのは,感性が欠けている証拠です。
> つまり「写し」の描画原理とは粉本や画帳の図像を何度も写すことにより、その図像を概念化して絵師の長期記憶に保存することであり
ヤンが見たという粉本や画帳が具体的に示されないから,ここはダメブログなのです。
> ゴンブリッチに言わせると犬の描き方という図像のフォーマットがまずあって、そのフォーマットに現実の犬に合わせる「図式と修正」が成されたということです。
ヤンも人間ですから,何らかのフォーマットはもっていたはずです。しかし,それは視覚情報に基づいて痕跡をとどめないまでに修正されています。まさに "the portrayal ceases to be a secondhand formula and reflects the unique and unrepeatable experience" (p.139,邦訳 p.245) です。要するに,ヤンのように犬が描けるかどうかがすべてであって,視覚自体が記憶できようとできまいと,関係ありません。職人だというならなおさらそうでしょう。
> この実際には存在しないドラゴンはどうやって描かれたのかということです。実際それを見ることは叶いません。
いろいろな生き物を写生して,組み合わせたのだと思います (ペルセウスが退治した怪物はドラゴンではありません)
> そんな怖いことをするのはあなただけです。普通絵描きはそんなことは考えません。
ふつう絵描きはそう考えるのです。ターナーは吹雪の海を観察するために自ら船のマストに縛り付けられて,凍死しかけました。私にはとても真似できません。
> だから「赤い裸婦」や「逆立ちに挑戦する鶏」を提示したのは、「写しの原理」でそれが普通に描けるいうことを伝えたかったからに他なりません。
娼婦を写生したというクールベの裸婦の生命感は「赤い裸婦」にはありませんし,ルーベンスの実在しない怪物の「リアリティ」は「逆立ちに挑戦する鶏」にはありません。「写しの原理」は実際の観察には敵わないことがわかります。
<a href="https://www.museodelprado.es/en/the-collection/online-gallery/on-line-gallery/obra/saint-george-battles-the-dragon/" rel="nofollow">https://www.museodelprado.es/en/the-collection/online-gallery/on-line-gallery/obra/saint-george-battles-the-dragon/</a>
このドラゴンには爬虫類っぽくない所が多いです。いろいろな動物 (腕は人間) の観察を組み合わせたことは間違いありません:
<a href="https://www.museodelprado.es/uploads/tx_gbobras/P01644.jpg" rel="nofollow">https://www.museodelprado.es/uploads/tx_gbobras/P01644.jpg</a>
ターナーの吹雪の海の逸話にしても、彼はマストに縛り付けられて網膜像をコピーする写生をするなど不可能に決まってるでしょう。彼はその現場体験を記憶に刻みたかっただけです。それと視覚を写す写生という行為とは違うのです。
ドラゴンに関しては爬虫類系とけもの系の二つの流れがあるようです。日本においては竜(龍)は爬虫類系(蛇・トカゲ)の一種類ですが、けもの系は「麒麟」として区別され伝わったのでないかと私は考えています。このドラゴンのイメージは太古より営々と受け継がれています。そしてその個別のイメージの生成は、受け継がれたドラゴンのフォーマットの組み合わせ、あるいはその変形によるものです。
東西を通じ、その個別のイメージの生成はその都度、その都度、個人の描き手が「いろいろな生き物を写生して,組み合わせた」のではこの一貫したドラゴンの継承の説明がつきません。「中世から18世紀に至る間の美術が連綿として連続することができた因は、実にこのような伝統習得についての強要があるからであって、その間ずっと図柄(図像)は何ら挑戦を受けることなく支配し続けたのである。」 p226 とゴンブリッチも言うように、図像の模写、写しという強制があったから継承されるのです。個人の写生ではありません。視覚の要素が付加されるのは透視法のルネッサンス以降のことです。そしてそれも継承される図式、フォーマットの「図式と修正」においてです。
又、日本において写生という行為が行われるのは西洋から透視法が、中国から南宋画が伝わった18世紀半ばからと言われています。(大田孝彦著 「文人画の変容」 神林恒道編「日本の芸術論」ミネルヴァ書房 p109)それまでは写生ではなく粉本等の写し、ゴンブリッチに言わせれば図式の模写によるフォーマットの構築だったのです。これが文献による論証です。写生などもともとなかったのです。そしてこれが奇異でも何でもないといえるのは絵画やマンガ制作における私の実体験です。それを提示したのが「赤い裸婦」であり「鶏」なのです。ド素人の盲信、思い込みと違い、これ以上の証拠が何処にあるのですか。
超一流でなくてもよい画を描く人は大勢いますよ。
山田新一氏は佐伯祐三と親交があったようですね。その佐伯に影響を与えたといわれる中村彝は,日本美術史上の傑作「少女裸像」を残しています:
<a href="http://search-art.aac.pref.aichi.jp/search/p/sakuhin.php?OI=OBJ199703990" rel="nofollow">http://search-art.aac.pref.aichi.jp/search/p/sakuhin.php?OI=OBJ199703990</a>
手も,左の乳房も,背中の線もうまくいってませんが,対象への愛だけは明確に伝わって来ます。やはり「見る,見る,見る,描く」が大事なのです。
網膜像をコピーしようと試みながら,人間が行うかぎりそれとは違うものが出来るのが,写生の妙味ではないでしょうか (写真でも撮り手の腕によって,あるいはメディアの性能によって違います)。ターナーも吹雪の海を写生できるならしたでしょう。しかしそれは無理なので,かなり長い時間観察して,視覚を記憶するしかない,そのためにはマストに縛り付けられる必要があったわけです。視覚を記憶することは不可能だ,実験の結果云々,というのは,実際にターナーが吹雪の画を描いている以上,意味のないことです:
<a href="http://www.tate.org.uk/art/artworks/turner-snow-storm-steam-boat-off-a-harbours-mouth-n00530" rel="nofollow">http://www.tate.org.uk/art/artworks/turner-snow-storm-steam-boat-off-a-harbours-mouth-n00530</a>
> 東西を通じ、その個別のイメージの生成はその都度、その都度、個人の描き手が「いろいろな生き物を写生して,組み合わせた」のではこの一貫したドラゴンの継承の説明がつきません。
共通なのは蛇の体を持つ点だけで,あとは自由です。リアルで恐ろしげならよいのです。ルーベンスのドラゴンに似た他の画家の例を探すのは難しく,また,ルーベンス自身が他の画では大きく違った姿のドラゴンを描いています:
<a href="http://www.royalcollection.org.uk/collection/405356/landscape-with-st-george-and-the-dragon" rel="nofollow">http://www.royalcollection.org.uk/collection/405356/landscape-with-st-george-and-the-dragon</a>
画全体の主題がわからないと,ドラゴンなのかサタンなのか海の怪物なのか,見分けがつきません。私が最初ペルセウスと間違えたのは,ゲオルギウスが剣を振るっているからです。ゲオルギウスの武器は多くの場合,槍です。ルーベンスの画では槍はドラゴンの上顎に刺さり,折れてしまっています。
> 日本において写生という行為が行われるのは西洋から透視法が、中国から南宋画が伝わった18世紀半ばからと言われています。
違います:
<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%82%E7%9B%B8" rel="nofollow">http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%82%E7%9B%B8</a>
> ド素人の盲信、思い込みと違い、これ以上の証拠が何処にあるのですか。
ただ描ければよいというなら,ド素人でも写生が必要だとは思っていないでしょう。よい画が描けなければ意味がありません。
網膜像をコピーしようとしても投射装置などを使わない限り人間の機能からそれは不可能なのです。写生はそうした機構とは別の仕組みで成り立っています。例えばゴンブリッチが言う概念であるフォーマットの「図式と修正」であり、あるいは記憶にある図像の現実への適用です。網膜像をコピーしようとして違うものが出来るこを「写生の妙味」とするのか「写生の幻想」とするのかは大きな違いです。
「かなり長い時間観察して,視覚を記憶するしかない」…は視覚から得た概念記憶のことであり「視覚記憶」とは区別しているのは何度も言っている通りです。そして視覚から変換される概念は元から記憶されている概念フォーマットに影響されるということです。ターナーの絵はそうして作られます。
ウサギの絵がウサギとして、カエルの絵がカエルと共有されるのは皆が共有するフォーマットに従っているからです。全く自由ではカエルをカエルとして伝えることはできません。ドラゴンもしかりです。ただ西洋の場合、日本と違い爬虫類系とけもの系があるということです。リンクの図はけもの系のようです。
中国において写生が説かれるのは南北朝時代の謝赫の画論からだとされています。その写生という技法が何時日本に伝わり行われたかどうかということです。雪舟が中国で写生を行ったと伝えられていますが、その雪舟を師と仰ぐ狩野派は最後まで写生を拒否し粉本主義を通しました。禅宗の僧が閉じられた場所で写生を古くから行っていたという可能性はありますが資料がないのです。又、中国の写生は網膜像をコピーするという透視法とは別物です。
もちろんよい絵を描くことに意味があります。しかし写生、特に網膜像をコピーするという思い込みによる写生やデッサンはこれに反するベクトルが働きます。そればかりかこの写生やデッサンを子供に強いることは多くの場合、絵を描く興味自体を無くさせます。それにこれは未確認ですが視覚系に影響が出ると思っています。
そうだろうと私も思いますが,「目の前にあるものを描く」あるいは「実物を見て知っているものを思い出して描く」のと,「他の図像を見ながら描く」あるいはさらに「他の知っている図像を思い出して描く」のとは,また別の仕組みで成り立っています。皆それがわかっているから写生したり,とりあえず現場を見に行ったりするのです。
> 網膜像をコピーしようとして違うものが出来るこを「写生の妙味」とするのか「写生の幻想」とするのかは大きな違いです。
「ここでこんなことをしている」あなたが「幻想にすぎない」と主張したところで意味がないというのが,私の主張です。よい画を描くことに意味があるからです。
> ターナーの絵はそうして作られます。
視覚から得た新しい概念記憶がなければ,あの画は描けなかっただろうということです。言い方をいくら変えても,ターナーが現場を観察する必要があったことは揺るぎません。
> ドラゴンもしかりです。
実在しないのですから,極端な話,画家がドラゴンだと言えばそれがドラゴンです。
> リンクの図はけもの系のようです。
「けもの系」の他の実例を示してください。
ちょっと調べたところ,ドラゴンのフォーマットはあったようですが,ルーベンスはプラドの画の下画でドラゴンの形態を模索しており,結局フォーマットに従っていません。最終的にいろいろな動物をスケッチして組み合わせたことはまず間違いないと思います:
<a href="http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/r/rubens/7graphic/20drawin.html" rel="nofollow">http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/r/rubens/7graphic/20drawin.html</a>
<a href="http://arts-graphiques.louvre.fr/detail/oeuvres/311/106654-Saint-Georges-terrassant-le-dragon-max" rel="nofollow">http://arts-graphiques.louvre.fr/detail/oeuvres/311/106654-Saint-Georges-terrassant-le-dragon-max</a>
> その雪舟を師と仰ぐ狩野派は最後まで写生を拒否し粉本主義を通しました。
後継者がいなかったのに師と仰ぐというのは不思議ですね。さらに不思議なのは,流派の外では透視法が流行し,写生も行われていたのに影響を受けなかった点です。やはり才能のない人を集めていたのだと思います。
> 禅宗の僧が閉じられた場所で写生を古くから行っていたという可能性はありますが資料がないのです。又、中国の写生は網膜像をコピーするという透視法とは別物です。
像主に似ていることが大事なわけですから,少なくとも像主を見たことのある人が紙形を描いたでしょう。透視法はもとよりリアリズムの一技法にすぎません。
> しかし写生、特に網膜像をコピーするという思い込みによる写生やデッサンはこれに反するベクトルが働きます。
デッサンのうまい人はよい画が描けないという,奇怪なことになりますね(笑)
> そればかりかこの写生やデッサンを子供に強いることは多くの場合、絵を描く興味自体を無くさせます。
すべての子供に写生をやらせるべきかどうかと,プロの画家になろうとする人がデッサンができるべきかどうかとは,全く無関係です。それぞれの結論がどうであろうとも。
こついて過言すれば、これらは一つに纏められる極普通の絵の描き方といえるかと思っています。私が問題にしているのは、これらにプラスされるもう一つの要素です。それは 「目の前にあるものを描く」とした場合、目に映る対象物の輪郭線を正確になぞろうとする、つまり網膜像のトレースという特殊な要素が加わることであり、それによって絵の意義がまるで違ってくるということです。
ここは重要だと思うので綿密に説明します。
絵を描くという原理は本来一つです。それは視覚情報を概念的図像に変換するということ、あるいは逆に概念により世界に当てはめ世界を構築するということです。そして概念の構築は,「他の図像を見ながら描く」あるいはさらに「他の知っている図像を思い出して描く」ことにおいてなされます。例えば小学生がスケッチに行く場合、彼らは先生の言う通り、対象物を観察してそれを描こうとします。しかし学年が下がる程、対象物を観る時間は少なくなり、自分の絵に集中する時間が増えます。そして幼児は対象物を見ながら描くということは殆どしません。しかし幼児はお母さんや隣の何とかちゃん、私のおうちなどをよく描きますが、それではその現実の対象物に対応する図像は何処から来たのかということです。
それは現実のものを記憶にある概念的図像に当てはめるというものであり、その図像は記憶した絵本やアニメの図像がフォーマットになります。小学生や中学生でもそれは同じであり、幼児にくらべそのフォーマットは格段に多いということです。しかしスケッチという現象面からは「目の前にあるものを描く」あるいは「実物を見て知っているものを思い出して描く」ということになります。しかし思い出された対象物とはその記憶された視覚像でないと同じように目の前にあるものは視覚像ではなく一秒後に概念フォーマットに変換されたものです。双方ともそこにあるのはその対象物に対応する記憶された概念的フォーマットをベースにしたものなのです。つまり 「目の前にあるものを描く」あるいは「実物を見て知っているものを思い出して描く」は同一線上に並ぶものであり、唯一異なるのは時間の違いです。
例えば一週間前に訪れた城郭を絵にしようとします。絵描きなら蓄えられた概念フォーマットの組み合わせで難なく記憶した城郭にそれを対応しそれをそれらしく描くことができるでしょう。しかし記憶されていない細部、立つ位置において見えた窓が幾つであり、その窓が四角だったかアーチ状だったかといったその城郭が持つ個別性の全ては記憶になければ描けません。その点において現場で描く、つまりスケッチが効力を発揮しますが、違いはその点だけです。記憶の新鮮さにおける時間の違いだけです。
その違いにおいて記録するという観点からいえばスケッチは合理的かと言えますが芸術面からいえばあってもなくてもいいのです。現に日本では写生を重視しませんでした。そして現場でスケッチするといえども概念フォーマットが記憶に蓄えられていないものは描けないし、又見ることもできないのです。
絵師がたとえスケッチをして廊下を描いたとしてもフォーマットを持っていなかったから廊下の「ハ」の字は抽出できなかったのであり、又、そう見ること、あるいはそう認識することもできなかったというのが私の考えです。絵師は廊下を観察し例の何処までも平行になるという概念フォーマットを当てはめたのです。
そしてこのことは言語に似ています。例えば小説家が現場に赴き、観察し、現場の状況を事細かに描写したとします。リアリズム文学です。しかし小説家の彼のボキャブラリィを発揮し言語をいくら駆使し状況描写しても、そこにある言語というフォーマット以上のものは抽出できないのと同じです。個別の特徴をフォーマットにより細分化するだけです。重要なのは概念フォーマットの構築であり変革だと思います。
しかし加えられたもう一つの要素である透視法から導かれた個人の視覚という幻想は、上記の本来的スケッチとはまるで別物であり、そのフォーマットの構築と変革の足を引っ張り邪魔をする以外の何物でもないということです。
> 目の前にあるものは視覚像ではなく一秒後に概念フォーマットに変換されたものです。
網膜像をトレースしようと試みながら――多くの画家はそんな生理学的な知識はもたず,ただ「見えたとおりに描く」だけですが――意図とは異なるものが出来る,ということであって,何ら問題はありません。騒いでいるのはあなた 1 人です。
> 例えば一週間前に訪れた城郭を絵にしようとします。
「写しの原理」はそんなことはしないはずです。全く無関係です。
> 現に日本では写生を重視しませんでした。
違うでしょう。或る流派は実物を見ること自体重視しなかったでしょう? 例えば上村敦之氏は現代の画家です。ちゃんと実物を見ています。日本画の伝統に従って写生はしないと言っていますが,修業の過程で写生をしたことがあるにきまっています。
> しかし加えられたもう一つの要素である透視法から導かれた個人の視覚という幻想は、上記の本来的スケッチとはまるで別物であり、そのフォーマットの構築と変革の足を引っ張り邪魔をする以外の何物でもないということです。
あなたの言う「幻想」から,大なり小なり影響を受けて描かれた多くの見事なデッサンは,すべて邪魔物ということですか。
ものすごいですね(爆笑)
これについては,当時の様式に従ったということももちろんあるでしょうが,むしろ,廊下に立ってスケッチはしなかったというべきでしょう。例えば,建物の外を歩きながらスケッチしたなら,廊下はどこまでも平行でよいのです。絵巻の建物は物語が展開する舞台ですから,廊下に立ち止まってはいけないのです。
絵巻に描かれた衣服,調度品,建物の構造は正確で,服飾史や建築史の重要な資料になっています。絵師は写生をすることもあったと私は思います。
昔の日本の絵師が透視法的フォーマットをもっていなかったことは確かですが,仮に透視法的認識がなかったのだとすれば,それは何を意味するでしょうか。
Anthony D. Nuttall は,"A New Mimesis: Shakespeare and the Representation of Reality" (2007, Yale University Press) の中で日本の絵画にふれており,"The full application of this austere denial has extraordinary consequences. We would not see trees against a background of distant hills, since if the hills were represented on the same scale as the trees we should not see hills at all, but only a portion of one of them." (p.14) (この厳格な〔透視法の〕否定を完全に適用すると異常な結論に至る。我々は遠くの丘々を背景にした木々を見ることはできないだろう。なぜなら,もし丘々が木々と同じ縮尺で表されれば,我々には丘々は全く見えず,1 つの丘の一部が見えるにすぎないだろうからである) と述べています。
この英文学者の意見はシンプルですが,的確です。私も「描かれたものは認識されたものの一部であり,描かれたものを根拠に認識の様相を推し量ることはできない」というあたりまえのことを述べて,すべてのコメントを終了したいと思います。
確かに騒いでいるのは私だけかも知れませんが、しかしこれは未来に関わる重要な問題を孕んでいると思っています。だから少しでも多くの人に伝えなければならないと思っています。
例えば「見えたとおりに描く」とした時の思いには次のことが含まれています。今自分が見ている像は人間であれば誰でも同じように見えているはずだ、そのことは誰が見ても普遍的な自然がそこに実在し、誰でも共有できる自然とそれを見る私という関係が生まれます。それを見る私とは個別で私的で他人と区別できる私です。つまり主観と客観です。しかし見て認識する自然が外部から取り込まれた概念フォーマットで決まるなら、この主観と客観の世界観とは大きく異なります。そして明治以前の芸術の創出は、あるいは私が得た経験は、この世界観では説明が付かないということです。
あなたがそうであるように、今我々は、あるいは学校教育はこの世界観に基づいています。だからその固執から観ると純粋な芸術の創出を歪めてしまうのではないかということです。
例えば引用した牧野の透視法で描かれた箱は、牧野にしてみれば「見えたとおり」に描かれた箱であるのに、父にはそれが現実の箱とは結びつかなかった。それは父は透視法で描かれた箱のフォーマットを持っていなかったからそれは歪んだ箱でしかなかったと考えられます。しかしこの世界観の固執から観れば牧野の父は未開人であるとか牧野のホラ話ということになります。あるいは平安の絵師が描く平行の廊下は絵巻の厳格な様式に従っただけであり絵師は我々が見るように「ハ」の字に見えていたはずだとなります。しかしそれは本当かということです。色々な観点から、その世界観と異なるデータを挙げ、これに疑問を呈するというのがこのブログの主旨です。
>上村敦之氏は現代の画家です。ちゃんと実物を見ています。
ちゃんと実物を見てそれを概念フォーマットにおいて当てはめ記憶し、描くときは何も見ないで描く。上村淳之氏はこの創作原理の重要性に気付いたのかも知れません。
>大なり小なり影響を受けて描かれた多くの見事なデッサンは,すべて邪魔物ということですか。
私の主張に反する邪魔者などと思っていません。これらの多くの見事なデッサンは,あなたが信じる方法で描かれたのではないということです。その根拠を示したのが「赤い裸婦」の提示です。あなたが言われるようにこの絵は出来がよくありませんが、それでも当時展覧会でそれなりの評価は受けています。 しかしその根拠を示すにはこの絵で充分かと思います。つまり現実のものは100%見ず、記憶だけで、あるいは概念フォーマットの組み合わせで描けるという根拠です。それによって「多くの見事なデッサン」は模写により取り込まれた概念フォーマットを個別に当てはめるとするゴンブリッチがいう人体デッサンの方法で描かれたという根拠となります。
>昔の日本の絵師が透視法的フォーマットをもっていなかったことは確かですが,仮に透視法的認識がなかったのだとすれば,それは何を意味するでしょうか。
この質問に対してAnthony D. Nuttall の意見を充てるのはお門違いだろうと思います。彼は主観と客観の世界観を揺るぎなく信じているのでしょう。幸いにもあなたは透視法的フォーマット、あるいは概念フォーマットの存在をお認めになりました。この概念フォーマットにおいて世界が構築されるということです。少しは進歩が認められるということです。
それは何の関係もありませんね。
<a href="http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-89-f7/pagannudes/folder/337770/63/21961963/img_2" rel="nofollow">http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-89-f7/pagannudes/folder/337770/63/21961963/img_2</a>
"Do the Japanese see six trees, in real life, where we see nine? I think not."
私は経験と過去のデータからこれを間違いだとしています。そして科学の観点からもこれを十分に疑えます。カリフォルニア工科大学教授の下條信輔氏は実験から知覚レベルで0.1秒間で入力された感覚データから脳が現実を組み立てるといっています。又、認識レベルでは0.5秒間の感覚データの集積から脳が瞬間を組み立てるとしています。つまり透視法の原理、これは写真の原理ですが、写真の原理と人間の脳は違うということです。
未来の記憶
<a href="http://manji.blog.eonet.jp/art/2012/02/post-eb2c.html" rel="nofollow">http://manji.blog.eonet.jp/art/2012/02/post-eb2c.html</a>
<a href="http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-89-f7/pagannudes/folder/337770/63/21961963/img_4" rel="nofollow">http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-89-f7/pagannudes/folder/337770/63/21961963/img_4</a>
昔の日本人には木が 6 本しか見えなかった,少なくともその可能性がある,というなら,もうそれでいいんじゃないですか(笑)
それは主に,あなたが「しかるべき手続き」を取ったからでしょう:
<a href="http://manji.blog.eonet.jp/art/cat9804081/" rel="nofollow">http://manji.blog.eonet.jp/art/cat9804081/</a>
> それによって「多くの見事なデッサン」は模写により取り込まれた概念フォーマットを個別に当てはめるとするゴンブリッチがいう人体デッサンの方法で描かれたという根拠となります。
だからその「個別に当てはめる」ところで,私をはじめ皆が信じる方法が使われているんですよ(笑)
私は裸婦の画像を千数百枚持っていますが,あなたの「赤い裸婦」は妙に印象に残る画です。モデルを見ずに描いたということは,そう知らされなければ私には見抜けません。はっきり言って不気味な画です。これだけ不気味に描くのも難しいでしょうから,幾多の凡庸な裸婦よりは評価されるべきものかもしれません。悪夢の中に現れる女のようです。
こうしたモデルなしのフォーマットだけで描く絵は珍しいものではなく、むしろ一般的と言えます。新しくは村上隆や奈良美智の描くキャラであり、古くは鳥羽僧正のカエルやウサギです。これらはモデル、つまり視覚像は対象とされずフォーマットの組み合わせです。しかし透視法の影響からルネッサンスから印象派の頃まで視覚が対象とされました。つまりモデルを視覚的に再現しようとする時期であり、この時期は美術史としてはむしろ特殊です。あなたが信じるのはこの時期に形成され喧伝された方法でしょう。しかしゴンブリッチも言っているように視覚が対象とされても、それをそのまま写すことなど出来ないのです。そこには過去から一貫してフォーマットが必要であり、その方法がフォーマットを個別、つまりモデルに当てはめるという作業です。つまりモデルの有る無しはいわば付随的であり、フォーマットの有る無しが重要なのです。
あなたが信じているように、例えカエルを殺し、相撲のポーズをさせ、それを描こうとしたとしてもフォーマットがなければそれは描けないし、見ることさえ出来ません。もちろん鳥獣戯画図はそんな方法で描かれたのではないですが、そう信じるあなたは「笑える」を通り越して不気味です。
もし私が写実的な絵を描こうとする若い人にアドバイスをするなら、石膏デッサンや裸婦デッサンに興じるよりも、概念フォーマットを蓄積させるよう過去の絵や図像を何度も見、又、それを空で描けるまで、何度も写すことを勧めます。
それをやって,美大受験を何浪もしていた先輩がいましたよ。
他大学に籍を置きながら,隠れ浪人して,高校の美術室に画を描きに来ていました。その人のデッサンは,私には完璧に見えました。無礼な生徒だった私は,顧問の先生に「あの人,先生よりうまいんじゃないですか?」と言いました。すると先生は「おれもそう思う,ある意味ではね」と,事も無げに答えました。
その後どうなったかは知りません。
その先輩に驚くほど似た人の話があります:
<a href="http://kugabi.fc2web.com/kan66-70.html" rel="nofollow">http://kugabi.fc2web.com/kan66-70.html</a>
フォーマットを見せない,感じさせないように描けなければダメなのでしょう。素人には違いがわかりません。概念を隠してしまうのはやはり視覚像です。そんなことは不可能だとあなたは言うでしょうが,常人には不可能なことができないと,藝大には入れてもらえないのです。
<a href="http://search-art.aac.pref.aichi.jp/search/p/sakuhin.php?OI=OBJ199703990" rel="nofollow">http://search-art.aac.pref.aichi.jp/search/p/sakuhin.php?OI=OBJ199703990</a> (愛がある)
<a href="http://manji.blog.eonet.jp/art/images/2014/05/18/photo_3.jpg" rel="nofollow">http://manji.blog.eonet.jp/art/images/2014/05/18/photo_3.jpg</a> (愛がない)
<a href="https://www.museodelprado.es/coleccion/galeria-on-line/galeria-on-line/obra/gallo-muerto/" rel="nofollow">https://www.museodelprado.es/coleccion/galeria-on-line/galeria-on-line/obra/gallo-muerto/</a> (愛がある)
<a href="http://manji.blog.eonet.jp/art/images/2014/05/18/photo_4.jpg" rel="nofollow">http://manji.blog.eonet.jp/art/images/2014/05/18/photo_4.jpg</a> (愛がない)
<a href="http://jmapps.ne.jp/geidai/det.html?data_id=4329" rel="nofollow">http://jmapps.ne.jp/geidai/det.html?data_id=4329</a> (愛がある)
<a href="http://manji.blog.eonet.jp/art/images/2014/01/27/photo_2.jpg" rel="nofollow">http://manji.blog.eonet.jp/art/images/2014/01/27/photo_2.jpg</a> (愛がない)
鳥獣戯画の魅力の 1 つは,蛙たちのリアルさです。あの体の模様はどう考えても写生に基づいたものです:
<a href="http://manji.blog.eonet.jp/art/images/2014/02/04/photo_7.jpg" rel="nofollow">http://manji.blog.eonet.jp/art/images/2014/02/04/photo_7.jpg</a>
<a href="http://www.google.co.jp/search?as_st=y&tbm=isch&as_q=%E3%83%88%E3%83%8E%E3%82%B5%E3%83%9E%E3%82%AC%E3%82%A8%E3%83%AB" rel="nofollow">http://www.google.co.jp/search?as_st=y&tbm=isch&as_q=%E3%83%88%E3%83%8E%E3%82%B5%E3%83%9E%E3%82%AC%E3%82%A8%E3%83%AB</a>
対象への愛 (世界への愛と言ってもよい) のない作品は,多くの場合,weirdness で勝負することになります。それに価値がないとは言いませんが,今から 100 年後,200 年後も評価されているのは,村上隆や奈良美智ではなく,牧野邦夫や磯江毅だろうと,私は思います。
「愛」は契約者においてのみ多大な効力と恩得を発揮し、その分、異教徒は動物や自然をも含め追いやられ収奪され殺されます。つまり諸刃の剣です。これを短絡的に独断的に決めつけ振るうこと、ここに身勝手な独善性と獰猛さを感じます。
<a href="https://www.museodelprado.es/coleccion/galeria-on-line/galeria-on-line/obra/gallo-muerto/" rel="nofollow">https://www.museodelprado.es/coleccion/galeria-on-line/galeria-on-line/obra/gallo-muerto/</a> (愛がある)
リンクの足を縛られ逆さに縛り付けられ、画家の目の前で死んでいる実在の鶏が、あるいはこれから死のうとしている実在の鶏がこの絵の対象なのでしょうが、この画家は自ら足を縛りポーズを付けたであろうこの哀れな鶏に対し、どういった種類の「愛」を持っているのか。画家は食べると旨いであろう鶏料理を愛しているのか、それともサディスティックな変態的性愛における「愛」か。あるいは愛する家族や一族の安泰を祈る聖なる生贄という錯誤か。いずれにしても画家がこの実在の鶏に「愛」があるというのならそれこそ身勝手な独善的で危険で異常な「愛」に他ならないでしょう。
<a href="http://manji.blog.eonet.jp/art/images/2014/05/18/photo_4.jpg" rel="nofollow">http://manji.blog.eonet.jp/art/images/2014/05/18/photo_4.jpg</a> (愛がない)
何度も言うようにこの絵には鳥獣戯画と同様に前段のような足を縛りポーズを付けたであろう実在の対象、つまりモデルはいませんから従って個別のモデルに対する感情など無いのは当然です。言うなればこの絵の対象はこの絵自体です。この絵自体に意味性が内在しているのです。そしてその意味性はそれを描く作者本人を超越しています。つまり汎心論です。絵自体が心や感情を持ち、そしてそれは作者を凌駕しているのです。あなたには理解できないでしょうが、ここがあなたが信奉する偶像でないといけないという神学的制約が課せられた西洋絵画と大きく異なる点であり、絵の未来を切り開く要素だということです。
・愛とはギリシャ語のエロス,ラテン語のアモルに由来し,人間の根源的な力を指します。ルネサンス以降,ギリシャ・ローマの異教は,ユダヤ・キリスト教と並んで西洋文化の大きな柱となりました。
・釈尊が愛を否定したのは出家修行者に対してだけです。インドはカーマ・スートラの国ですよ。
・愛は確かに諸刃の剣ですが,剣がなければ何も切れません。
・ハブリエル・メツーは鶏肉屋でもあったらしく,モデルは商品でしょう。対象への深い関心と愛着がなければ,とてもあのようには描けないと思います。面白半分に殺したはずがありません。
> それこそ身勝手な独善的で危険で異常な「愛」に他ならないでしょう。
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この美しい画がですか?
> 絵の未来を切り開く要素だということです。
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こんな醜怪なものが?(笑)
釈迦はカーマ神のヒンズーが受け継いだバラモン教を否定、改革しようとしたのです。諸刃の剣とは相手を切るには自分も傷つくということです。拡張すれば全滅です。ここで言っているのは絵の対象です。鶏肉屋が自分の商品に愛着があるのは当然でしょう。商売ですから。あなたも鶏肉屋ですか。
発表された作品に対してどんな感想を抱くのも自由です。それが発表するということです。しかしここであなたのナイーブな嗜好性をいくら主張しても意味がありません。もしあなたがキュウリが好きでも私はキュウリが嫌いだから仕方ありません。議論になりません。もしキュウリ愛好者を広めたいならキュウリ嫌いが耳を傾けるキュウリの知られざる効用を述べるべきなのです。ここで重要なのは鶏肉屋の絵には目の前に死んだ鶏という対象があり私の絵にはそうした対象などないという根本的制作原理の違いです。
「ナイーブな嗜好性」は普遍的です。芸術が求める美は,「人類である」ことに根差していますから,思想とは関係がありません。炭水化物と油分の組合せが誰にとっても旨いのと同じです。私はあなたの味覚がおかしい (あなたがここでこんなことをしているという事実がそれを証明している) と言っているだけなので,議論は不要です。
「ナイーブな嗜好性」とは単に「好み」のことを言ったに過ぎません。そして「好み」とは普遍的ではなく変化するものです。又、「好み」をがなりたいのならどうぞよそでやってください。
かつては確かにアカデミズムの弊害がありましたが,今のキュレータは「偏食」ではいけないことになっています。彼らは新しい才能を見出そうと鵜の目鷹の目ですから,ゴッホやゴーギャンのような奇才が生前は埋もれたままといったことは,現代ではまず起こりえません。
世界の名だたる美術館は,どこも壮麗なウェブサイトをもち,自らの好みを普遍的と信じて,がなり続けています。日本の美術館はずいぶん見劣りがします (地方で頑張っている所もありますが,如何せん収蔵数が淋しい)。経済大国でも劣等民族ですね。