メディウムとは媒体と訳され、媒体とはある情報を伝えるための物理的媒介手段といえるだろう。そうであるなら、新聞や雑誌は紙媒体であるし、テレビやラジオはその装置機構が媒体といえるだろう。つまり媒体とは情報の流通の物的手段において発想されるものであり、芸術それ自体に当てはめるものではないと思う。
しかし西洋人はいつの頃からか、絵や彫刻などにおいてこれを当てはめる。つまり絵におけるカンバスや絵具は、カンバスや絵具それ自体では無い別のものを指し示すための媒体=メディウムであると。あるいは彫刻の素材である木や石や合成樹脂はそれ自体ではない別のものを指し示す媒体=メディウムであると…。
こうした屁理屈のような理屈からクレメント・グリーンバーグは「芸術表現はそれぞれのジャンルに固有のメディウムへと純化、還元されるべきである。」等とのたまい、例の絵画の自己言及性や自立性、平面性、イリュージョン等というもっとばかばかしい議論を美術に持ち込むのだ。 この固有のメデュウムの特性を「メディウム・スペシフィシティ」というのだそうだ。
そして近年、グリーンバーグの弟子のロザリンド・クラウスは、固有のメディウムに還元できない映像作品を批評の俎上に乗せるため、師の論の修正を試みたという。私は彼女の文章を読んでいないから断定はできないが、そもそもこれが屁理屈の上の帰結であるだろうというのは、上のアトムの画像を見れば一目で解ることではないか。一目瞭然だ。何故、こうした西洋人の理屈をありがたがるのか解らない。
上のプラスチックのアトムは、アトムそれ自体である。このプラスチックの物体がそれ自体とは別の、アトムを指し示しているメディウム等とは誰も思わないだろう。そしてその場合の指し示されるアトムとは一体何かということになる。歴史上に現存したアトムだというのか。 言うなればアトムの実体とは手塚が作る、あるいは別の人や企業が作るそれぞれのアトムにおいてアトムを形成しているのであり、そこには出来不出来があるが、そのそれぞれにおいてがアトムの実体なのだ。指し示しているものなど始めから無いのだ。 又、歴史上に現存した人物の彫像についても同じだ。例えばj重文親鸞座像は木というメディウムが現存した親鸞を媒介し指し示してなどいない。これはアトム同様、過去繰り返された親鸞の言説、描かれた肖像、彫られた彫像において実体化され、それにおいて親鸞座像は親鸞座像そのものなのだ。だから熱心な信者はその像が美術館に展示されようとも拝まずにはおれないのだ。この比喩は信者さんに失礼かも知れないが、丁度それはオタクと呼ばれるコアなアニメファンが平面美少女それ自体を愛することに似ている。平面美少女の図像は親鸞座像と同様に他の何かを指し示す物質的媒体などでは毛頭なく、言うならばそれ自体が実体なのだ。
そしてこのメディウム論は理屈の上からいってもおかしいのではないかと思う。それは描かれ彫られた像を言葉と対応することによって見えてくる。
言葉を発すると音声が物理的空気振動によって受け手の鼓膜に伝わる。この場合、空気が言葉の持つ情報の媒体であるというのは理屈の上でいえるだろう。この空気振動を電気信号にかえても同じで、この鼓膜に伝わるまでの電気信号の部分は確かに媒体といえるだろう。これは最初に示した通りだ。
しかし鼓膜で再生された言葉自体は媒体ではない。今や言葉は元よりある観念に対応する、思考するための道具とはみなされていない。又、元よりある観念を媒介する媒体ともみなされていない。 言葉それ自体に指示する物とされるものを包含し、言葉が無ければ我々が得られる観念は何もないとソシュールが言ったように言葉=観念であり、これが現代言語学のルーツだ。
これは鼓膜が再生する音声言語でも網膜が再生する文字言語でも同じである。そして手塚治虫が主張する「マンガ記号説」が示唆したように、あるいはそうした洗練されたマンガ文化に満たされその心理機構を共有する我々が、又は視覚印象の比重が高い象形文字を使い、西洋とは異なる制作原理で作られた多くの作品を遺産として持つ我々が、何故西洋のこうした理屈をありがたがるのかということだ。
絵の図像を手塚が示唆するように記号、あるいは言語記号の一種と見た場合、西洋における「絵におけるカンバスや絵具は、カンバスや絵具それ自体では無い別のものを指し示すための媒体=メディウムである」という解釈は正にソシュール以前の言語道具論にあたり、西洋美術は未だにロゴス中心主義に立っているということだ。
MEDIUM MAN
私の一連のシリーズに「メディウムマン」と名付けたのは、こうした西洋流のメディウム論の懐疑からであり、又、一歩進めて「媒体」の意味することの逆転を試みたかったからである。それは記号と現実としての対象の中間に設定されたメディウムである。
オイルの海
絵は現実のほんの一部分も表象などしていない。逆に絵の記号作用において現実を切り取り構成している。そして記号とは過去から継承された文化に属する観念的なものであり、その記号と対象としての現実の中間にあるメディウム=媒体を設定することにより新しい記号の構築を、それはつまり新しい現実の切り取り方の可能性を模索することだった。
絵の本当の存在意義はここにあると思うからだ。
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コメント
コメント一覧 (2)
・親鸞の図像は門徒にとってはイコンです。宗派から認められていることが重要で,作品の巧拙は問われません。私が親鸞像を描いても誰も拝みませんし,仮にそれが画として評価されてもダメでしょう。
・西本願寺蔵国宝「鏡御影」ももちろん今はイコンですが,描かれた時点では親鸞を表象していました:
<a href="http://web.kyoto-inet.or.jp/people/shiunji/gif/kagami1.JPG" rel="nofollow">http://web.kyoto-inet.or.jp/people/shiunji/gif/kagami1.JPG</a>
<a href="http://web.kyoto-inet.or.jp/people/shiunji/gif/kagami2.JPG" rel="nofollow">http://web.kyoto-inet.or.jp/people/shiunji/gif/kagami2.JPG</a>
すばらしいデッサンです。西洋のデッサンとの違いは,銀筆や木炭か,墨かという,媒体の違いに帰することができます。
親鸞像は聖像であり西洋風にイコンといってしまえば話がややこしくなります。それはイコンには偶像という意味が含まれるからです。日本では心情的にも偶像など存在しなかったと考えています。神道などでは岩や木がご神体ですし、仏教の親鸞像もそうです。しかしアブラハムの宗教からいえばこれらは偶像であり偶像崇拝です。つまり唯一神は唯一だから「そんなところには神はいませんから、それは偶像であり、そんなものは崇拝してはいけません。」というのが偶像崇拝の禁止です。この戒めにより多くの像が破壊されました。これをイコノスクラムといい、偶像破壊とも訳されます。東ローマ帝国や宗教改革、イスラムのバーミアン破壊が有名です。特に東ローマ帝国や宗教改革の場合、キリスト教内部で破壊が行われました。それはイコンを拝むのは偶像崇拝の禁止に抵触するという理由からです。そこでカトリック教会はイコンの定義を徹底化します。それ自体に神が居るか居ないかということです。もし居るとなれば神道のご神体を拝む行為と同一になり改革派から見れば異教徒であり偶像崇拝になります。従ってそこには神は居ず、それは神を示す単なるイメージであり、それを拝むのはイメージで示される唯一神を拝むことだからその行為は正当である、ということでありそれがイコンの定義です。つまりイコンとは、それは神の本体ではなく偶像だということになります。そしてこの場合、イコンの偶像性と偶像崇拝は異なるというのが彼らの理屈です。偶像崇拝は像それ自体を偶像としてではなく崇拝するのに対し、イコンは像の向こうに居る神を崇拝するから違うのだという一種の言い訳です。これにより西洋美術が破壊から救われたのですが、これがイコンという語には偶像という意味が纏わりつく所以です。そしてこの理屈はアブラハムの宗教というローカルな戒律において、又、透視法という絵は現実を視覚的に再現するというローカルな制作原理を持って成立している訳ですが、その理屈を八百萬の神を持つ日本人がありがたがり、踏襲する理由など何もないということです。何故ならこの理屈が現代に至るまで西洋美術の底辺に流れているということであり、今回取り上げた「メディウム論」はその典型だといえます。「カンバスや絵具は、カンバスや絵具それ自体では無い別のものを指し示すための媒体=メディウムである」「芸術表現はそれぞれのジャンルに固有のメディウムへと純化、還元されるべきである。」という勝手な理屈からグリーンバーグは芸術を勝手な方向へ持っていきます。親鸞像、あるいはアトムは偶像でないのと同時に媒体でもないのです。