<8月15日付ハル氏のコメントの転載とそれに対する応答>
(岡田)自然な視覚では「左右の目からほぼ同じ像が入って来る場合」などありません。
(ハル)いいえ。対象までの距離が10mを超える場合は、すべてそれに該当します。
(岡田)従って遠くの物体把握は近くの物体把握により常時成り立つということであり、そこには両眼に視差による異なった情報が常時あるということです。
(ハル)利用できない情報はないのと同じです。「常時ある」すなわち利用できるということなら、対象が何十メートル離れていようと、視力が及ぶかぎり両眼視機能は働くはずですが、実際はそうではありません。われわれは経験から遠近感を補っているだけで、視覚にとっては遠方の物体は宇宙空間のモノリスと変わらないのです。そんなことはないと言うなら、両眼視機能がなぜ10m余りで打ち止めになるのか、説明してください。
(岡田)立体視の引用は両眼視機能がいかなるものであるかという一点に絞り引用しただけであり、「立体視は人間の視覚に近い、少なくとも近づけることを目指している」などとは一言も言っていません。この誤解を回避するために『立体視は自然な視覚とは異なりますが』という前置きを欠かさず入れていたはずです。
(ハル)結局、意義のわからない実験だったということです。 人間の視覚に近づける意図がないなら、カメラの間隔はなぜ7cmなのでしょうか。別に70cmでも7mでも構わないはずですね。 「自然な視覚とは異な」るが、「両眼視機能がいかなるものであるか」とは関わりがある、とは、一体どういうことでしょう。 もともと自然な視覚と異なるものが、ナットールの左図と異なるからといって、ナットールの左図は自然な視覚と異なる、と主張する根拠にはなりません。左右に7cm離したカメラでは、ほぼ同じ(に見える)2枚の風景写真しか撮れませんが、そのことは両眼視機能と関わりがあるのですか、ないのですか。 私が当初から指摘したかったことは、貴方の主張の根拠のこのような脆弱さです。
(岡田)写真や透視法絵画が人間の知覚認識の全てというのは全くのナイーブな短絡です。
(ハル)「全て」とは思いませんが、「ナイーブな短絡」で問題なく説明がつくかぎり、その説明は有効です。われわれが大地は平らだと考えていて、普通は問題がないのと同じことです。ただ、放送事業を始めるとでもなれば、そうはいきませんね。それと同様に、貴方が示した例は特殊なものばかりです。
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<コメントに対する応答>
「もしあなたが宇宙空間のような何もない空間に浮かび、数キロ離れたところにポッカリ浮かぶ大聖堂、あるいはモノリスみたいな立方体を見ることを想定しているのなら話は別です」と言ったはずです。
実生活においてそんな状況はまず無いと言っていいでしょう。対象物が10m以上でもその対象物はあなたのいる地点と空間的に繋がっているのです。 つまりあなたの視野にはその対象物とは別の近くにあるものが絶えず入っているということです。 たとえ上のような状況でも、もし鼻が高い人やめがねをかけている人ならば、あるいは宇宙ヘルメットを装着しているならば、視野の端に極近距離の鼻やめがねやヘルメットの断片が入り込むということです。 これら近距離の把握において遠距離が相対化できるのです。そして把握するとは視野にあるより近距離のものは視差角がより大きくなることから生じます。
「左右の目からほぼ同じ像が入って来る場合」など無い、つまり左右の目の網膜スクリーンに結ばれた映像が同じではないというのは、スクリーンの周辺部が視差角によって左右異なってくるということです。
又、遠近把握として視野の内には近距離の情報が「常時ある」ということです。
実生活において両眼視機能が10m余りで打ち止めになるとは考えていません。以前やった実験では視野に入る近距離、あるいは距離感を示す他の情報を出来るだけ消し去り、つまり上の宇宙空間のような状況を作り、対象物の視差角だけでどれくらい遠近が把握できるかというものです。 この状況でもし近くにものがあれば、つまり視野内に近くのものが入れば、遠方のものも恒常知覚などがより多く働くのではないかと考えています。
「両眼視機能がいかなるものであるか」とはこういうことです。「リアリティについて(2)」で提示した以下の立体視を見れば理解されるかと思います。
二つの画像を立体視(融像)すると五つの○が浮き出、あるいは沈みこみます。この遠近感は間違いなく脳が作ったものであり、元の図ではそういった情報は一切含まれていません。ただ脳の両眼視機能に即し、左右の目に視差として入れるため○の位置が水平方向に若干違えてあるだけです。
つまりそうした細工により脳は、何もないところから遠近感を作り出すということになります。これが両眼視機能であり実生活において普段から行われている脳の機能であると推測できます。この立体視において脳が持つ両眼視機能がいかなるものかを実感できるということです。いわば左右の元図(つまり両眼網膜像)からまるで異なった像を組み立てる機能だということです。
しかし何度も言うように立体視は自然な視覚とは異なっています。それは元になる情報が写真(この場合は図像)だからです。 その違いを解りやすく示したのが「視覚と写真と透視法(2)」で取り上げた下の例です。
ニ枚の写真は下の図で示す自然な視覚をカメラで置き換えたものです。
垂直に引いた赤い線上に押しピンを8cm間隔で3つ並べ、25cm離れたところから真ん中の押しピンを両眼で見たところです。この両眼をカメラに変えたのが上の写真です。 見ること、あるいは両眼視機能とは左右の目で捉えた対象物を一つに融像することと言っていいかと思いますが、上の二枚の写真を一つに融像するのが立体視で、この原理は自然視覚と同じです。 この場合、交差視仕様ですから、左の写真が右目の位置、右の写真が左目の位置というように逆転しています。
これを立体視(融像)すると左右のそれぞれ角度がついた赤い線が是正され、3つの押しピンが乗った真っ直ぐ垂直な一本の線になります。脳が是正したということですが、考えれば不思議です。先ほど言った左右の元図からまるで異なった像を組み立てる脳の機能ということです。 そしてこの立体視像が実際見たものと一致するかといえば一致しません。
上の図が実際に両眼で見たところです。真ん中の押しピンを見れば真ん中の押しピンは融像され一つになるのですが、前後は融像されず、従って真ん中の押しピンを中心に赤い線はX状になり押しピンは計5個になります。手前の押しピンに視点を移動すると手前のピンが一個に融像され赤い線はそれを中心にX状になります。 つまり写真の場合は、融像すれば、全画面一気に融像されますが、自然視覚では融像される箇所がワンポイントなのです。実験してください。
そして融像される箇所がワンポイントであるばかりでなく、自然視覚では解析範囲も限定されています。
上の図は両眼で中心の赤い丸を見つめたまま視点の移動をしないで、視野にある図像をどこまで解析できるかという視覚実験です。これは言うまでもなく、網膜の視細胞の分布により、集中した箇所を外れると解析能力が極端に落ちることを示しています。 つまり人間の自然な視覚とは、外部環境を把握するためには視点の移動が必要だということになります。 その線が一本の直線なのかどうか、押しピンがいくつその線上にあるのかを認知するには視点の移動により成されているということです。
この部分が写真(透視法)と自然視覚の初歩的相違であり、写真を素材にする立体視が「人間の視覚に近づける」とは無縁であるという所以です。そして写真や透視法自体にもそのことが当てはまります。 因みに認知心理学の下條信輔氏によれば、立体視の原点は先の大戦の米軍における航空写真による敵のカモフラージュ破りにあるとされています。その折、二つのカメラの位置は7cmどころか数十メートル離れたニ機の航空機より、数百メートル下の同一地点の撮影にあったといいます。その二枚の写真をステレオスコープにかけ、はるか上空からの自然視覚では到底解らないカモフラージュされた敵キャンプを解析したといいます。 つまり立体視の原点は、人間の視覚に近づけるのではなく、人間の両眼視機能を利用することでその自然な機能の拡張が図られたということです。それも軍事目的です。
ナトールの左図は歴史的にも実質的にも写真の原理、つまり奥行の全ての輪郭線は無限遠の一点に集中するという、投射装置などの作画手続きを経ることによる西洋出自の透視法によって、抽出されたものです。 透写装置による作画は固定された単眼から、対象世界に向け、無数の視点を発射することにおいて構成され、これを一瞬間で成す写真は原理的に透視法と同じです。それ故、写真を素材とする立体視は全画面一気に融像されるのです。これが根本的に自然視覚と異なる所以です。
「ナイーブな短絡」で問題なく説明がつくというのは、それ自体、ナイーブな思い込みです。その思い込みにおいてなんら問題がなければいいのですが、その思い込みにより、透視法、あるいは写真の制作原理の外部にある芸術…これは明治以前の日本の絵画、あるいはマンガを想定しているのですが…の正当性を損ね、大きな損失を被らせているということです。
例えば、雪舟の絵は西洋出自の透視法が踏襲されているなどという西洋に阿った間違った解釈は、日本文化を捻じ曲げ損失を与える何物でもないでしょう。
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コメント
コメント一覧 (7)
夜空を見上げると、近くの木や建物も視野に入りますが、われわれは月と金星のどちらが遠いかわかりません。
遠方に見える2棟のビルのどちらが手前にあるか、寄って行かないとわからないことがときどきあります。もちろんもっと近くの建物や道路や、いろいろなものが視野に入っています。
10mかどうかは別としても、両眼視機能がある距離で打ち止めになることは確かです。それより遠くにあるものについては、左右の目に入って来る情報は同じであると考えられます。実際には違うのかもしれませんが、われわれはその違いを知覚することも、利用することもできません。
>写真を素材にする立体視が「人間の視覚に近づける」とは無縁であるという所以です。
これらは相矛盾していますから、何事かを主張する根拠にはなりえません。
>つまり立体視の原点は、人間の視覚に近づけるのではなく、人間の両眼視機能を利用することでその自然な機能の拡張が図られたということです。
「二つの画像はそれぞれ二つの目からの入力に対応し、左右の目の間隔7cmの視差で対象をカメラで捉えたものである。」
<a href="http://manji.blog.eonet.jp/art/2014/06/post-bf07.html" rel="nofollow">http://manji.blog.eonet.jp/art/2014/06/post-bf07.html</a>
これらも相矛盾しています。根拠に矛盾がある以上、「そもそも視覚の客観性の根拠に9本の木の理屈を持ち出すのはお門違いだろう」と主張することはできません。
牧野義雄という人が、自分の父は透視図法で描かれた箱をゆがんでいると言った、西洋の進んだ知識を学ばないとまともにものを見ることもできない、と述べたのに対して、ナットールは、それは違うだろう、ものの見方と絵の描き方は別だ、と反論しているのです。西洋に阿っているのはナットールではなくて、牧野義雄の方でしょう。
私は東洋画のことはよく知りませんが、中国に、近くのものを極端に大きく、遠くのものを極端に小さく描く画風があったはずです。雪舟は中国に渡った時、そうした絵を見たのではないでしょうか。いずれにしても、彼らはただ見えた通りに描いただけでしょう。別に透視図法を知らなくても、そのように描く人は居ておかしくないと思います。
それはたぶん,南宋の院体画派のことですね。雪舟は同時代の明の画家より,院体画派の夏珪や馬遠から多くを学んでいます。
立体感,遠近感をもたせた描き方は古代ローマからありました。トロンプ=ルイユの始まりです。チマブーエは遺跡の画を見て模倣したのでしょう。それがジョットに受け継がれ,数学的に計算されたルネサンスの透視図法へとつながったのです。そのような描き方をする人は多くはありませんでしたが,世界のあちこちにいたわけです。ここのブログ主はマトモじゃありませんから,相変わらず「雪舟の絵は西洋出自の透視法が踏襲されているなどという」などという,トチ狂った藁人形論法をやっています。
ついでに言っておくと,
<a href="http://manji.blog.eonet.jp/art/images/2014/08/21/photo_5.jpg" rel="nofollow">http://manji.blog.eonet.jp/art/images/2014/08/21/photo_5.jpg</a>
これらの写真は被写界深度によって 3 つの画鋲にピントが合っているかに見えますが,実際は真ん中の画鋲にしか合っていません。現に,赤線の手前の方はボケています。
もっと絞りを開いて近距離での人間の視覚に近づけてやれば,奥と手前の画鋲はボケて,立体視ができないほど違いの大きい 2 枚の写真が撮れます。すなわち,
<a href="http://manji.blog.eonet.jp/art/images/2014/08/21/photo_13.jpg" rel="nofollow">http://manji.blog.eonet.jp/art/images/2014/08/21/photo_13.jpg</a>
これに近い状態になります。
前に述べたように片目で小さな穴を通して遠方のもののみを見ると、両目で自然に見るより小さく見えます。これは遠方のものでも両眼視機能により遠方過大視という恒常知覚が働いているからです。両眼視機能とはこれらを含んだ機能ですから、自然視においては…ある距離以上にある二つのものだけでその遠近は測れないと言えても…「両眼視機能がある距離で打ち止めになる」とは言えないと考えます。
両眼視機能の大きな特徴を端的に定義すると、左右の目の視差によってそれぞれ二つの違った像、つまり異なった二つの形状のものが融像され、一つにすること。言葉を換えれば異なった二つの形状とは違った三つ目の新しい形状を脳が造り出す機能です。考えればこれは不思議ですが、そういう機能があるのは確かです。そして立体視はその機能を端的に見ることができます。上の五つの○は視差に則しその位置を変えてやると○の前後関係は自由に変えられます。これは人間には両眼視機能があり、その機能の法則に則って作図してあるからです。しかし立体視と自然視覚は明らかに異なっています。その大きな原因は立体視の融像の素材が写真や図像だからです。
上の押しピンと赤い線の立体視は、融像すると赤い線は傾斜のない一本の垂直線になります。…これが三つ目の形状です…しかし自然視では赤い線はX状になります。実験してください。
従って立体視は人間の両眼視機能は測れるが「人間の(自然)視覚に近づける」ものではないということです。何の矛盾もありません。
牧野義雄は西洋におもね、それを盲信した初期の日本人の一人です。そして多くの牧野義雄がその後に続きます。西洋に阿っているのはナトールなどと一言も言っていません。…おもねるというのは「見えた通りに描いただけでしょう。透視図法を知らなくても、そのように描く人は居ておかしくない」などと安易に言ってのける多くの牧野義雄に対して言ったのです。
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このブログを読まれている多くの人に誤解があってはならないので明記しますが、「雪舟の絵は透視法で描かれている」と主張したのはあなたです。それも後には「雪舟の絵は透視法の絵のようだという感想を言ったに過ぎない。その感想を述べて何が悪い」などという低レベルな居直りに近い修正はなされましたが…。
又、上の押しピンの立体視の要点はカメラのピントとは関係はありません。確かにカメラの深度により3つのピンに焦点が合ってしまいましたが狙ったのはあくまで真ん中のピンです。そして深度が浅く、奥と手前のピンがボケたとしても、赤い線は融像すると(奥と手前がボケた)垂直の一本の線になります。自然視におけるX状にはなりません。ここが要点です。軽薄な想像と思い込みで否定する前に実験して検証することを勧めます。
その場合は、片目で見ても遠近がわかりますから、両眼視機能とは関係がありません。
>片目で小さな穴を通して遠方のもののみを見ると、両目で自然に見るより小さく見えます。
ただ片目をつぶって自然に見るよりやはり小さく見えますから、これも両眼視機能とは関係がありません。
>両眼視機能とはこれらを含んだ機能ですから
両眼視機能とは両眼視機能と関係のない現象を含む機能ということになって、明らかに矛盾が生じます。
>上の押しピンと赤い線の立体視は、融像すると赤い線は傾斜のない一本の垂直線になります。…これが三つ目の形状です…しかし自然視では赤い線はX状になります。実験してください。
<a href="http://manji.blog.eonet.jp/art/images/2014/08/21/photo_14.jpg" rel="nofollow">http://manji.blog.eonet.jp/art/images/2014/08/21/photo_14.jpg</a>
この図の眼球と同じ位置にカメラのレンズを構え、直線の延長の真上から左右に3.5センチずつずらして撮影すると、融像できそうにないほど傾いた斜線の写真が2枚出来ます。それぞれの写真は、
<a href="http://manji.blog.eonet.jp/art/images/2014/08/21/photo_13.jpg" rel="nofollow">http://manji.blog.eonet.jp/art/images/2014/08/21/photo_13.jpg</a>
この図の斜線たちに酷似しています。赤い線を細くすればよりはっきりします。Pagan氏が言うように、被写界深度を浅くすれば前後がボケて、さらに自然視に近くなります。
>従って立体視は人間の両眼視機能は測れるが「人間の(自然)視覚に近づける」ものではないということです。何の矛盾もありません。
写真を使った立体視で両眼視機能が測れるなら、視覚と写真には近似した点があるということです(全く同じということではない)。視覚と写真とが根本的に異なるものなら、立体視は錯覚にすぎず、両眼視機能を測る実験に写真を使ってはならないことになります。それでも矛盾しない、両立するというなら、誰をも説得することはできないでしょう。
>おもねるというのは「見えた通りに描いただけでしょう。透視図法を知らなくても、そのように描く人は居ておかしくない」などと安易に言ってのける多くの牧野義雄に対して言ったのです。
現にそのような作品が残っているのですから、仕方がありません。
牧野義雄は、透視図法を知らなければ視覚もおかしくなると言ったのです。視覚自体は変わらないはずだというのがナットールや私の立場であり、視覚自体が今と違っていたのだ、「おかしい」と評価するのがおかしい、というのが貴方の立場でしょう。しかしながら、貴方の主張には正当な根拠が欠けています。
<a href="http://manji.blog.eonet.jp/art/images/2014/08/21/photo_14.jpg" rel="nofollow">http://manji.blog.eonet.jp/art/images/2014/08/21/photo_14.jpg</a>
この条件での撮影は接写になり、画鋲を3つとも被写界に入れることはどだい無理なようです。
<a href="http://manji.blog.eonet.jp/art/images/2014/08/21/photo_5.jpg" rel="nofollow">http://manji.blog.eonet.jp/art/images/2014/08/21/photo_5.jpg</a>
これらの写真は、上のような条件ではなく、被写体からもっと離れて撮ったものだと思います。上の条件でレンズの間隔を両眼間と同じ7cmにした場合とは、赤い線の傾斜も大きく違います。赤い線がいやに太いのも、立体視を成立させ、写真と視覚の違いを誇張するためのトリックでしょう。