発達心理学の分野において、ジャン・ピアジェは次のようなことを言っている。
生まれたての人間は主客未分の混沌とした状態で、感覚と運動が直接結びついている。やがて自らと外の世界を区別するようになるのだが、初めの段階では主客の自覚がなく、外の世界との対し方は自己中心的であるという。
次の段階で自分が世界の一部であることを自覚し、他人の視点、…つまり他人からは如何見え、如何思っているのかをおもんばかる「視点の分化」を獲得し、その時点で主客分離が完成されるという。
そうした発達の過程や、その発達が何歳頃までになされるかを知るため考案され行われた「三つの山問題」というのかある。
これは1m四方のテーブルに大きさ、高さ、色、形状の異なる三つの山の模型を配置し、一方に幼児を座らせ、三つの山がどう見えるか、あるいは、テーブル上の小さな人形からは如何見えているかを答えさせるものである。
4歳から12歳の計100人を対象に行われ、模型を10方向から描いた10枚の絵を選ぶことにより、又は三つの山を模した三枚の色の異なるプレートを並べることにより、その見えを報告してもらうというものだ。
その結果、課題を理解しなかったと解された群、他人(人形)の見えを問われたにもかかわらず自分の見えに固執し、自分の見えを他人の見えと答える群、異なる視点を区別して表現しようとするが失敗すると解された群、視点と見えとの関連性に気づくもののまだ十分ではないが、やがて視点の協応が可能になり、正しくこたえられるようになると解された群に、年齢が増すごとに分けられるという。
ここから主客の自覚がないとされる自己中心的段階が、自分の見えを他人の見えと答えることにおいて、視点の分化の無さが重要視される。 視点の分化がなされるには「空間的視点取得」が必要であり、これは移動可能な視点で構成される世界の表象であり、これにおいて空間的に主体、客体、あるいは主観、客観が自覚されるのだという。
「表象」を辞書で引くと「(哲学・心理学で)直観的に心に思い浮かべられる外的対象像をいう。知覚的、具象的であり、抽象的な事象を表す概念や理念とは異なる。」とある。 つまり心に思い浮かべられる外的対象像=心的イメージとは、今我々が見ている現実の世界から構成され、それは意識上移動のできる視点を持ち、そのイメージを基に、例えば上方から見ればこうなる、左方から見ればこうなる、他者から見ればこうなるとイメージすることが空間的視点取得によるものであり、これが幼児期のある時点に取得され主体が意識されるようになり、主客分離の起因になるということなのだろう。
後年、ピアジェの説はその不備が指摘され修正されているというが、しかし発達心理学の分野においてこの大筋は変わらないのだろう。そして教育にかかわるだろうこの大筋に大いに不満があるのだ。もしかするとこの論は根本的な思い違いで成り立っているのではないかと思う。
「視点取得」を英語訳すれば「perspective taking」であるという。パースペクティブとは透視法であり透視図のことである。これは15世紀以前は世界中何処にも存在しなかったし、日本においては18世紀半ばまで存在しなかったのだ。そうした絵画などの痕跡が現れる以前から人間はそうした心的イメージを持っていたと言うのだろうか。 もしそうならば、人間が自然に持っていた心的イメージを表出し、絵画などに残すのに西洋では15世紀、日本では18世紀まで待たねばならなかったのは何故なのか。それに15世紀透視法の成立過程は人間が自然に持っていた心的イメージの表出と言うには、はなはだ胡散臭い。
これに関し絵画と心的イメージについて興味ある論文がある。それは「表象」の本性に関わる論争の経緯とその方向を示した論文だ。 「表象」の意味することは上に記したが、表象と心的イメージは同じものと言ってもいいのだろう。
「認知心理学の興隆とともに60年代後半に再興した、認知過程内での表象としての心的イメージの研究に、今、大きな動きがおこっている 。心的イメージの本性に関する論争がそれである。」
とした上で著者は冒頭に「心的イメージは、例えば視覚的心的イメージの揚合、常識的には「心 の中の眼」を通して見られる「絵」のようなものとして把握される。再興した心的イメージの研究もこの点については特に疑わなかった。」と述べている。
ところが70年代に入り、情報処理論的な認知モデルの構築に努力している認知心理学者の中から、この常識的な前提を批判するものが出てきたというのである。 それは心的イメージは、認知システムの中で、命題による記述の形で コーディングされて存在しており、「絵 」的な特性は付帯現象であって本質的な意味を持たない、と考えるべきだというのである。
それ以降、心的イメージは常識的とされる「絵」派と、「命題」派に分かれ、論争が続いているという。前者をイメージ派、後者を命題派というらしい。
これはこれで興味深いのだが、言いたいのは著者が常識的だという「絵」とはどんな絵を指しているのかと言うことだ。
「視覚的」「心の中の眼」と言う以上、それは視点を持ったパースペクティブ、知覚的な透視法絵画であり、クールベなどの写実主義絵画だろう。源氏物語絵巻などは命題的とまで言えないが、明らかに視点を持たない概念的な絵だ。
土佐光吉「源氏物語色紙 初音」江戸初期
絵巻の多くは吹抜屋台法で描かれ、洗練の度合いは全く異なるが、この技法はリュケが命名した幼児の「知的リアリズム」と多くの点で類似性があると思う。
幼児期の描画は,一定の視点から見える通りに事物や風景を描く写実に基づくのではなく、知っていることを描くという点に特徴がある。
リュケはこのような幼児に特有な描画表現を知的リアリズムと名づけ、視覚的リアリズムと区別した。
知的リアリズムは壁を透過して内部を描くレントゲン画、視点の混合、展開法、鳥瞰図法などの多様な表現様式をとり、総合能力や注意の欠如、自己中心性といった幼児期の心性に由来すると発達心理学では考えられている。そしてこの自己中心性という概念はピアジェが踏襲し発展させている。
こうしたことが真実なら日本の伝統的絵画はレントゲン画的、視点の欠如、展開法、鳥瞰図法などにおいて、総合能力や注意の欠如、自己中心性といった幼児期の心性に由来していることになる。…私はとてもそうは思わない。この設定には西洋独特の根本的間違いがあるのではないかと思う。
イメージ論争の著者が言う「絵」が日本の伝統絵画ではなく、透視法絵画であるとするなら、前述の問題が又、繰り返される。何度も言うが、日本において18世紀半ば以前には透視法絵画や写実絵画は存在しなかったのだ。著者が心的イメージは常識的に「絵」のようなものだと言えば、18世紀半ば以前の日本人にとってはその絵とは、レントゲン画的、視点の欠如、展開法、鳥瞰図法などで描かれた伝統的絵画を思い浮かべるのが必然なのだ。
これは日本人たる著者の日本美術の勉強不足か、それとも他は排除する、特定の範囲内だけで通用する論なのか。いずれにしても日本文化を軽んじ、西洋優位主義に阿る学術の体質の表れそのものなのだろう。
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ここでピアジェの三つの山問題、あるいは空間的視覚取得に話を戻す。
この課題に対して殆どの幼児は試験者が想定する正解を答えられない。ある少女はテーブルの上の小さな人形は私と同じように見えていると主張する。そしてこの主張はある程度共感できる。
恐らくそれはそこにあると知っている、…というのと、限定された時間と視点を持って一瞬を知覚したものという差における見解の相違なのだろうと思う。
そしてその見解は表象、つまり心的イメージにおいて決定されるのではないか。
前出のイメージ論争で言えば、表象たる心的イメージの本性とは正に絵や図像ではないかと思う。しかしその絵や図像は透視法絵画や写真に限定されるのではなく、透視法絵画をも含めた人類が構築した全ての絵がその可能性となる。そしてその絵はそれぞれが言語のように意味性を持ち、その意味性において世界を把握し現実に当てはめる。…例えば、透視法絵画、あるいは写真は固定した視点を持ち、世界の一瞬を切り取り、そのことを持って主観と客観が喚起される、…というように。
上図の「人形の家」は以前「臨画、罫画のススメ(3)」で取り上げた4半歳の天才と騒がれたシューラが描いた絵である。そしてその後の調査により、シューラの絵は家にあったエンバリーの手による絵の描き方マニュアル本が下敷きとなっていたと判明する。
ここでシューラはエンバリーの絵を真似たと解するのは大間違いだ。彼女は好きな絵を眺めているうち、あるいは写しているうち、その図像が心的イメージとなり、それを持って現実を眺め、それを描いたに過ぎないのだ。絵とはそういうものだと思う。
リュケやピアジェ、あるいはそれに続く発達心理学は、ほんの部分を全体とするという間違いを犯していると思えてならない。そこには主客未分、あるいは主客分離も勿論部分として含まれる。 .
参照文献
林 昭志 「子どもの空間概念」 名古屋大学教育心理学論集
http://www.edu.shiga-u.ac.jp/~watanabe/sub2-1-1.htm
宮崎清孝 「メンタル・イメージは絵か命題か」
http://ci.nii.ac.jp/naid/130004572076
渡辺雅之 「 空間的視点取得能力に関する発達心理学的」大阪大学 http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/25960/1/18136_%E8%AB%96%E6%96%87.pdf#search='%E7%A9%BA%E9%96%93%E7%9A%84%E8%A6%96%E8%A6%9A%E5%8F%96%E5%BE%97'
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コメント一覧 (17)
厳密にはそうですが,perspective には「遠近感」という程度の意味もあります。3 つの山で言うと,自分からは近くに小屋,遠くに十字が見えるが,人形からは近くに十字,遠くに小屋が見えるはずだ,ということがわかるかどうかです。子供に正確なパースの理解を求めているわけではありません。
日本の伝統的絵画と,幼児の画とは違うでしょう。
なぜなら,現代においても,説明のための図像では,「レントゲン画」や「視点の欠如」がいくらでも見られるからです:
<a href="http://i-zukan.net/ic/information/art/08_kaneda_iso.jpg" rel="nofollow">http://i-zukan.net/ic/information/art/08_kaneda_iso.jpg</a>
<a href="http://www.frontier-world.co.jp/plan_corection/img/cad_zumen/c/cad_c124_7.gif" rel="nofollow">http://www.frontier-world.co.jp/plan_corection/img/cad_zumen/c/cad_c124_7.gif</a>
<a href="http://www.honda.co.jp/JADE/webcatalog/interior/image/usf_photo01_1.jpg" rel="nofollow">http://www.honda.co.jp/JADE/webcatalog/interior/image/usf_photo01_1.jpg</a>
これらを幼児的だとは誰も思いません。「日本の画は幼児的だと言われている」というのは,あなたの誤解です。
視点を固定しない画は概念を説明するためのもの,視点を固定した画は表現の喜びのためのものといえます。写実画家は,ただ「この世界は美しい」と訴えているだけなのです。
視点を固定するといっても,単眼視ではありません。写実画家が制作に写真を使うことがあったとしても,作品と全く同じ構図の写真は撮れません。
諏訪敦氏は,ある女性の遺影写真から生前の姿を肖像画に再現するという,素人にも無謀と思える試みに挑戦しました。その作品は,誠に失礼ながら,クオリティの面で諏訪氏の他の作品に到底及ばなかったと思います。やはり実際に対象を見ないとダメでしょう。
日本の伝統的絵画と、幼児の画とは精度において違います。しかしあなたも言うように現代においても、日本の伝統的絵画と幼児の絵に共通する、説明のための図像で「レントゲン画」や「視点の欠如」がいくらでも見られます。それなのに幼児画のその要素の表出を持ってリュケやピアジェ、あるいは発達心理学は「総合能力や注意の欠如、自己中心性といった幼児期の心性に由来している。」と断定しているのです。私が言っているのではありません。そしてそのことから彼らは日本の伝統絵画は「総合能力や注意の欠如、自己中心性といった幼児期の心性に由来している。」と言っているのも同然だ、と、私は主張しているのです。読むのなら正確に読んでください。
'View taking' はおそらく,単に見えなかったものが見えるようになるという意味に解釈されるでしょうから,該当しないでしょう。渡部雅之氏は「視点取得(perspective taking)という用語をいつ頃,誰が用い始めたのかは定かではないが,1970年代より文献中に散見されるようになった.Psychological Abstractsのsubject indexには1982年に初出している.ちなみに同年,それまで主に使用されてきた役割取得(role taking)の項には19論文が載っている」 (p.3) と述べています。Perspective に拘る必要はないと私は思います。
いわゆる 3 面図は通常,透視法ではなく平行投影図法 (単一視点なし) によって描かれますが,それぞれの図は異なる視点から見える世界を描いています。単一視点の欠如と,視点そのものの不在とは違います。
> ピアジェらの答えは後者であり、取得は12歳頃にそれが芽生えるということです。
芽生えるのは 6 歳頃,ほぼ完成するのが 9-10 歳です。よく読んでください。
> 日本の伝統的絵画と、幼児の画とは精度において違います。
精度の違いではありません。幼児の画の特徴は,おそらく視点そのものの不在です。日本の画は世界的に見てかなりリアルな方であり,例えば,正面向きの体に横向きの顔をつないだりはしません。
尚、視点取得がほぼ完成されるのは9-10歳が正解です。ここで訂正します。
「方向」と「視点」の違いがわかりません。透視法的視点のみを「視点」と呼ぶというのは無意味です。それでは「方向」がある場合とない場合の区別ができません。
「方向」がないのが幼児の画の特徴です。ピャジェが問題にしたのはまさにその点です。彼自身は perspective などという語は使っていません。
> 例えば本文で取り上げたバスの内部を描いたレントゲン画と呼ばれる絵には視点が無く、絵巻には視点があるというのは、如何いう根拠でそう言えるのか全く理解できません。
厳密にはその子供が他にどんな画を描いたか見ないと,視点を持っていたかどうかはわかりません。
「信貴山縁起絵巻」では,同じ人物 (剣の護法童子) が視点によって違う見え方をすることを,正確に描き分けています:
<a href="http://livedoor.blogimg.jp/masatukamoto/imgs/2/b/2b1afab1.jpg" rel="nofollow">http://livedoor.blogimg.jp/masatukamoto/imgs/2/b/2b1afab1.jpg</a>
<a href="http://livedoor.blogimg.jp/masatukamoto/imgs/7/e/7e08da57.jpg" rel="nofollow">http://livedoor.blogimg.jp/masatukamoto/imgs/7/e/7e08da57.jpg</a>
幼児の描く人物はたいてい正面向きです。ミッフィー (ナインチェ) は幼児画の特徴をよく表しています。
> 「単一視点と視点そのもの」の違いは何処にあるのか。根拠を示してください。
あなた自身が「視点」と「方向」とを区別しています。その違いです。
あるのは方向で、方向とは「南の方に向かう」とか、「どこそこの方に向かう」ということであり、具体的には「私は(花子ちゃんは)花子ちゃんの(私の)家の方に向かう」等です。この場合、「私」あるいは「花子ちゃん」から見た家の風景=視点ではなくあくまで方向です。それを表した絵には誰からの視点もありません。それと同じように剣の護法童子は方向を表しています。又、エジプトの人物像は横向きが多いですが、左右どちらもあります。それは例えば王と従者の方向を表しているのであり、それを描いた人からの見え=視点などは含まれていないのと同じです。
レントゲン画に関しては、レントゲン画というもの自体を問題にしたのであって、ここにはこの時期に子供が描く絵と同様に、視点は無いと言っているのです。同じように、絵師が描く絵は絵師自身からの見え=視点など無いと言っているのです。
以前、絵巻を描くにあたって、絵師は屋根が葺かれる前に高い木に登り、それを写生したと言った人がいましたが、カエルを殺してポーズさせて描いたのが鳥獣戯画だと言うのと同じように、そんなことある訳ないでしょ。
「視点そのもの」=「方向」 (大人なら誰でもわかる),「単一視点」=「透視法的視点」 (西洋画の勉強をしないとわからない) と考えれば,日本の伝統的絵画にも視点そのものはあるが,幼児画にはそれがない,はっきり違うと結論されます。
彼らが問題にしたのは「視点取得(パースペクティブ・テイキング)」ということであり、この「視点」とはどういうものが想定されているのか、ということです。
「視点取得」というからには、ある時点で「視点」を取得する訳で、それ以前には「視点」は無かったということになります。当然、以前から視覚はあった訳で、その視覚にプラスして「視点」を得るのです。ならば、単なる視覚と、それに上乗せする「視点」とはどういう違いを想定していたのか、ということです。
この取得により、他人の視点をおもんばかるようになるのですから、自分の「視点」は自分だけのものであり、それは、他人はそれぞれ個々に「視点」を持っているという気付きに繋がります。つまり「視点取得」とは一人称視点の取得であり、それは文字通りパースペクティブです。
私がこの発達過程論を疑うのは、日本の伝統絵画には一人称視点、つまりパースペクティブが無かったからです。
ピャジェ自身は perspective などと言っていませんから、無関係です。
<a href="http://www.edu.shiga-u.ac.jp/~watanabe/home_page_2012/hyoron.pdf" rel="nofollow">http://www.edu.shiga-u.ac.jp/~watanabe/home_page_2012/hyoron.pdf</a>
の冒頭に以下のように書かれています。
「空間的視点取得(spatial perspective-taking)研究は、Piaget and Inhelder(1948)に端を発し、1960〜1970年代には認知発達の主要な領域の一つとして広範な研究が行われた。またその間、空間的視覚取得を測定する課題としてPiagetらが用いたいわゆる「3つの山問題」が頻用された。」
又、他の研究者の論文にも視点取得は「3つの山問題」と関係づけられ、やはりピアジェの延長線上にあり、 perspective-takingが用いられ、ピアジェの志向性が読み取れます。…関係なくはないのです。
リンクした渡辺雅之の英文からの訳 Piaget,J. & Inhelder,B.(1948) の第8章部分には「知的リアリズム」とその後の「視覚的リアリズム」の関係を「トポロジー関係」と「射影関係」に比されています。射影幾何学はもちろん透視法が源流です。トポロジー関係とはこの場合、右とか左とかの方向性が示唆されています。
そして以下のような一節があります。
「なぜ子どもは簡単な遠近関係をマスターするのがそんなにも遅く、また多くの可能な視点を統合することが可能になって初めてマスターできるのかという問題が生じてくる。その答えは、彼らが十分に意識しているものの1つとして自身の視点に対して物体を関係づけることを遠近法システムが可能にするからである。」これは英文訳の日本語訳ですから「遠近法システム」とは「 perspective system」の可能性が高いと思います。いずれもPiaget and Inhelderの文章です。
以上のように視点取得の視点は最初からパ-スペクティブが想定されていたように思われます。
もちろんこの潮流に反対の意見もありますが、この反対意見の設定においてもピアジェらがパースペクティブを視野に入れていたことが示唆できます。
それは渡辺も触れていますがリンクした、表象とは絵画的であるか命題的であるかという議論です。この場合、命題的に対比する絵画的の絵画とは透視法絵画が想定されています。絵巻などではないということです。
私の考えは表象は絵画的であり、かつ、命題的だということです。対置するようなものではないのです。何故なら絵画とは日本の伝統絵画がそうであるように本来命題的なものですから。
「視点取得(perspective taking)という用語をいつ頃,誰が用い始めたのかは定かではないが,1970年代より文献中に散見されるようになった.Psychological Abstractsのsubject indexには1982年に初出している.ちなみに同年,それまで主に使用されてきた役割取得(role taking)の項には19論文が載っている」 (渡部雅之 2003: 3)。ピャジェが言っていないことは明らかであり,徹底的に無関係です。
ちなみに,perspective という語自体は,ピャジェによって何度も使われています。「遠近感」と訳すべきもので,「透視法」は誤訳です。「透視法」は専門の勉強をした人にしかわかりません。たまに勉強しなくてもわかる人がいますが,特別な才能のある人です。発達心理学に「透視法」が出て来るわけがありません。
そこには自分を中心にして世界を見渡す(開く)という意味があるのです。だからそこに「視点」というものが重要な要素となるのです。世界を開く自分の「視点」です。
そしてそこから見る私と世界、つまり主体と客体が生まれます。その視点の取得より主客分離が成されるということであり、パースペクティブという語はそういったことに深く拘わっています。西洋にとってパースペクティブという語は美術、発達心理学はおろか、科学、哲学、神学、経済学、数学などあらゆる学問に関係しているのです。
ピャジェは美術の専門家ではなく,実験の内容からして,perspective を派生的な意味で使っていることは明らかです。あなたが逆立ちしたって「透視法」とは無関係です。
それを英語でも perspective と呼ぶことがあるのです。言葉の意味は変わるので仕方がありません。ピャジェの perspective にも原義は残っていません。残っているとすれば,子供に透視法の理解を求めたことになります。それは変ですから,あなたの間違いです。
それは勉強になりました。因みにそうした用法がある文献をお示しください。
>残っているとすれば,子供に透視法の理解を求めたことになります
もし、パースペクティブという語に投影という意味があるのなら、意味の幅が広がるだけです。パースペクティブという語は透視法という日本語に一対一で対応しているのではありませんから、子供に透視法の理解を求めたことにはなりません。透視法を含んだ、あるいはそこから派生した広い意味があるのは前回言いました。
例えば「見立て」という語は一対一で対応する英語はありません。その文脈に応じて含まれる意味が抽出されるのです。「砂を川に見立てる」と言った場合、「似せる=mimic」「例える=liken」「(砂で川を)再現する=represent、reproduce」などが考えられると思いますが、やはりいずれもしっくりきません。「見立て」は「見立て」なのです。パースペクティブもそうした語で、パースペクティブはパースペクティブなのです。
<a href="http://encyclopedia2.thefreedictionary.com/Axonometric+perspective" rel="nofollow">http://encyclopedia2.thefreedictionary.com/Axonometric+perspective</a>
<a href="http://en.wiktionary.org/wiki/isometric_perspective" rel="nofollow">http://en.wiktionary.org/wiki/isometric_perspective</a>
<a href="http://en.wikipedia.org/wiki/Graphical_projection" rel="nofollow">http://en.wikipedia.org/wiki/Graphical_projection</a> ('cavalier perspective', 'cabinet perspective')
<a href="http://en.wikipedia.org/wiki/Oblique_projection" rel="nofollow">http://en.wikipedia.org/wiki/Oblique_projection</a> ('cavalier perspective', 'cabinet perspective')
> もし、パースペクティブという語に投影という意味があるのなら、意味の幅が広がるだけです。
「投影」ではなく「遠近法」「遠近感」です。ピャジェの言う perspective について,「パースペクティブとは透視法であり透視図のことである」をあなたが撤回すれば済む話です。1970 年代から使われ始めたという 'perspective taking' の perspective についても同様です。