上の絵は有名な鳥獣戯画です。
さて、この絵はどうやって描かれたのでしょうか。
以前、カエルやウサギを捕まえて殺し、相撲のポーズをさせ、それを写生しデッサンしたのだと言い張った人がいました。
面白い話ですが、そんなことはあるわけ無いと思います。その人はリアリズムを純粋素朴に信じきっているのです。つまり前回引用した山本鼎の以下の主張です。
「子供にはお手本を備へてやらなければ画は描けまい,と思ふのならば,大間違ひだ。吾々を囲んで居るこの豊富な『自然』はいつでも色と形と濃淡で彼れ等の眼の前に示されて居るではないか,それが子供らにとっても大人にとっても唯一のお手本なのだ。」
山本の主張は、自然は見えるがままに実在しているのだから、創作は自然を唯一の対象にすべきだということであり、それは主観と客観の関係において成される、これがリアリズムです。そしてこの考えは、透写装置などにより、自分の網膜像をトレースし、抽出することによって絵は描かれるという、ルネッサンス以来の透視法が原点なのです。
だから、鳥獣戯画のカエルやウサギが精緻であればある程、目に映った対象としてカエルやウサギに相撲のポーズをさせたに違いない…となるのです。
又、源氏物語絵巻などで描かれる吹き抜け屋台は、寝殿造りの屋根が葺かれる前に、絵師が木に登って写生したといい張った人もこれと同様です。
しかしこれは思い込みであり、盲信だと思います。
これは何もカエルに相撲のポーズをさせたり、絵師が木に登って写生したという人に対してだけ言っているのではありません。西洋由来であるリアリズム自体が我々の思い込みではないかと言っているのです。
鳥獣戯画は粉本などのお手本を対象にする、いわゆる「写し」の原理で描かれました。これには二つの根拠があります。
一つは過去の資料です。粉本という、いわゆるお手本帖を絵師が写し、制作していたことは事実として確認されていますし、多くの粉本が残っています。
鳥獣戯画も模本という多くの「写し」が残っており、鳥獣戯画自体、時期が異なる「写し」や粉本を集めて組まれたのではないかとも言われています。鳥獣戯画乙巻などは粉本がそのまま組まれたという説もあります。
そして絵師が現実世界のものを見ながら描く、つまり写生といわれるものや、網膜像をトレースするという透視法様の制作方法を用いたという痕跡=資料は見つかっていないのです。
ただしこれは、18世紀半ば、中国と西洋から写生や透視法が日本に輸入されてからは別です。写生はそれ以降、行われました。又、雪舟が中国に渡った時、現地で写生をしたという話しが伝わっているといいますが、日本でそれをしたかどうかは不明です。痕跡がないのです。
二つ目は、…こちらがより重要で、比重が高いのですが…それは私の経験から導かれた実感です。
上の絵は私が描いたカエルの色んな姿態です。
短時間(一分足らず)で描いたので、精度は非常に悪いですが、何も見なくても、あるいは、カエルにポーズをさせなくとも、どんな姿態でも描くことができるということを示したものです。
この絵で、右上のカエルは冒頭の鳥獣戯画のカエルを臨画したものです。あとのカエルは、実物のカエルや写真はおろか、何も見ずに描きました。
つまり、絵師はお手本を何度も写すうち、あるいは既成の絵を眺めるうちに体がその図像を記憶し、いざ、自分が描く時、記憶の図像を取り出し、組み合わせ、お手本の図像にどんな姿態でも変更を加えることができるのです。…とは、「子供の描画」において著者H・ガードナーがある研究者の分析を引用したものです。
その研究者の分析は「写し」に関するものではありませんが、模写(=臨画とするならば)の効用においてそれは一致するはずです。
その研究者は、マーベルコミックスの場面からとった絵を一万枚も描いたという学生は、どんな姿態でも、状況でも空で描けることを驚きを持って報告しています。しかし、そんなこと、マンガ家なら普通に行う日常の仕事でしょう。
つまり、ここでは山本鼎が言う、眼の前に示された、色と形と濃淡を持つ豊富な『自然』など、直接的対象として一切関与しないということであり、これがリアリズムと異なる「写し」の原理なのです。冒頭の絵はこうして描かれたのだと推測できます。そして絵だけではなく、前回も言ったように和歌や書、彫像や工芸など、かつて芸術全ての創作原理でした。 . .
それではリアリズムから見た制作原理とはどういうものでしょうか。
これについても前述の著作「子供の描画」に象徴的な話が出てきます。それはサヴァン症候群の少女ナディアの話しです。
「自閉症サヴァン症候群と診断されたナディアは2歳の頃から遅滞が見られ、運動や反応が緩慢だったし言葉が理解出来なかった。しかし3歳頃、彼女は突然、信じられない絵を、誰の介入も無く、たった一人で、次々に描き出すのである。」
から始まるナディアの項目は非常に興味深いものです。彼女の絵は訓練を受けた写実主義の画家の絵のように写実的だったのです。
しかし、ナディアの場合、自閉症サヴァン症候群がもたらした特殊な事例だと結論付けられるのです。
それは通常人は持っていないとされる視覚(感覚)を記憶できる能力があり、その能力によってナディアは絵を描いたということです。又、視覚(感覚)記憶に関しては、その後、同じくナディアを登場させ、N・ハンフリーが著作「喪失と獲得」でより踏み込んで語っています。
通常、人は視覚(感覚)は記憶できないのです。J・スパーリングの実験によれば視覚の記憶、あるいは保持時間は約一秒以内だということです。その後、視覚データはコーディング(符号化)され脳の短期記憶に移されるとされるといいます。コーディング(符号化)とは概念化と言ってもいいのかと思います。
ナディアは視覚を通常ではあり得ない視覚記憶として保持しており、絵を描く際、画用紙に重なるようそれをアウトプットし、それをなぞり、絵にしたのでしょう。ガードナーやハンフリーもそう結論付けています。
もしそうなら、これは凹面鏡やカメラオブスキューラ、透写装置やカメラルシーダによる描画原理と一致します。記憶の視覚(ヴィジョン)が光学機器や装置がもたらすヴィジョンに置き換わっただけです。
つまり、カメラオブスキューラや透写装置によりもたらされたというリアリズムの制作原理とは、通常の人の視覚は記憶されないという生理学的機能を押してまでも、目に映る『豊富な自然』というものを再現することにあるのです。だからナディアが描く絵は彼女の網膜像(のアウトプット)であり、写実主義の画家が描こうとするのも彼の網膜像なのですから、同じ写実=リアリズムという評価になります。
しかし、光学機器や透写装置、あるいはナディアのような能力なしで、本当にそんなこと出来るのか、ということです。 .
ここで人は視覚を記憶できないとするならば、「写し」原理において、絵師が粉本を何度も写すことにより、その図像を記憶できるなど食い違うではないか、…と思われるかも知れませんが、それは食い違いません。又、私自身、視覚記憶の持ち主などと思ったことなどありません。
その図像は概念だから記憶できるのです。
視覚データはコーディング(符号化)され脳の短期記憶に移されるとされるといいましたが、それを何度も繰り返すと長期記憶になります。つまり、小説などを読む場合、紙の上のインクやシミ、活字などの視覚データは文字が持つ概念データに変換され、短期記憶に送られます。それを何度も繰り返すと長期記憶になり、いつでも文字や文章をアウトプットできます。図像もそうです。又、そればかりではなく、文字や文章がそうであるように、それらを無限に組み合わせることにより、未知なる意味(概念)を構築できるとさえ考えています。これが「写し」の原理です。
E・H・ゴンブリッチは彼の著作「芸術と幻影」において、絵は概念的である、と断言しています。又、J・ピアジェは著作「発生的認識論」において「あまりにもしばしば忘れられている一つ」とした上で、言語が表象の全てではなく、身振り、描写、描画、彫像など行為における多くの表象形式があるのだ、と言っています。
図像による言語なき思考。これが「写し」の原理であると言えるかも知れません。
又、光学機器や透写装置、あるいはナディアのような能力なしで、本当にそんなこと出来るのか、…と言いましたが、ゴンブリッチは上の著作で、そもそも見たものを描くことなど出来ないし、印象派が登場するまで、画家たちはそのことを充分承知していたはずだ、…と述べています。それに呼応する形で、彼は、画家は何より先に描き方を習得するのが先決であり、現実のモデルに当たる前に、彼らは何年もかけて、デッサン集を模写しまくった、と述べ、模写に使用したデッサン集を挙げています。
これが事実なら、西洋においても「写し」に相当する原理が成されていたことになります。そして印象派が純粋でナイーブだったのか、より狡猾だったのか解りませんが、いずれにしても、山本鼎らが素朴かつ純粋に信じた西洋は、建前ではリアリズム、実質的には「写し」に相当する原理というダブルスタンダードを敷いていたことになります。 .
金星夜会に向けて
.
.
美術ブログランキングに
参加しています
他メンバーのブログはここからどうぞ
どうぞよろしく…
にほんブログ村
コメント
コメント一覧 (75)
彼女のような能力をもっていて発達障害がなければ,一流の画家になる可能性が高いわけです。幼い頃から驚異的な画を描いたというのは,画聖伝説の定番であって,基になる事実があったと思います。人間全体のなかではもちろん稀少ですが,プロの画家のなかではときどき見られるケースでしょう。
で,誰かが作った図像が何代も写されたり,アレンジされたりということは珍しくありませんが,最初の図像は宇宙から隕石に乗って落ちて来たわけではなく,誰かの網膜像に由来します。また,最初の図像は最初の生命と違って,1 回きりではありません。ただ,画家になるほどの人は多くの画を見ているでしょうから,純粋に自分の網膜像に由来するのか,既存の図像の影響を受けているのか,渾然として区別がつかないというのが実際ではないでしょうか。(ナディアについても,鶏の画や写真を見ていた可能性を否定できないと思いますが,今は問題にしません)
プロの漫画家でも,どうもうまく描けないなと思うことはあるでしょう。そんなとき,実物を見たり,ポーズをとってもらったりして,スケッチしないのでしょうか。もししないのなら,「北斎漫画」とは根本的に違います。
北斎は写生の鬼であり,弟子にも写生を勧めました。絵手本を示しておきながら,これだけ写しておれなどとは言いませんでした。彼は「富嶽百景」のあとがきで,自分は 6 歳からものの形を画に写し取ってきたと述べています。知能は高かったようですが,「画狂人」と自称する変人でした。ナディアと同種の能力の持主だったにちがいありません。
私も模写を含む画像記憶と写生の両方が相互作用を起こしているのだと思います。日本は極端で、狩野派みたいに模写しかさせないかと思うと、近代以後の洋画などでは模写をほとんどやらせないようですね(これには古典技法がちゃんと輸入されなかったという理由もあるのでしょう)。粉本主義も写実主義も極端化すれば弊害が生ずるのではないでしょうか。
私が子供の頃、私と私の弟は両方とも絵が好きだったようですが、弟のほうが圧倒的に才能がありました。二人とも同じような教育を受けて、見た絵もそんなに違わないのですが、やはり元が違うのが明らかなのを、身をもって体験しております。それは手先の器用さというよりは、目と脳の力のようなものだと思います。
また、写生が、網膜に映った像が絵に映されるような解説にも思えるのですが、人間が一瞥で見ているのは、ほんのわずかの微笑な空間に過ぎず、それを絶え間なく繰り返される眼球運動(あるいはいくばくかの身体運動も含む)で得られた部分像(と運動の記憶)を、脳の中で再構成して得られるのが、視覚的なイメージだ、という説がしばしば言われています。そうした意味では、人間の眼はカメラのレンズではないのです。カメラアイとか直感像所有者というのはときどき聞きますが、それがどんなメカニズムによるのかはわかりません。
私も三十路を過ぎてから本格的に絵を初めて、洋画の模写を中心とした古典技法から現在では日本画をかじっていますが、未だにデッサンは下手糞です。私が模写をある程度やっていても、ぜんぜん模写もしてない画学生のほうが遥かにデッサンが上手いのは、やはり中身(才能)が違うからだと思います。
常人とは速さが違うのだと思います。われわれが何時間もかけて,あるいは,アントニオ・ロペス・ガルシアが何年もかけてやることを,一瞬のうちに行うのではないでしょうか。
ご経験があるならお分かりだと思いますが,デッサンは視覚像の概念化・符号化です。ここの角度や長さはこれくらいとか,ここはあそこより暗いとか明るいとか,考えながら木炭や鉛筆の粒子で置き換えていくわけでしょう。ここのブログ主は,視覚像を「トレース」 (なぞる) しようとするせいでデッサンがうまくできずに,ずっと屁理屈をこねているのです。誤りを拡散されては困ります。
光は網膜上で既に符号化していると考えられています。光をフィルム上の粒子で符号化したものが写真であり,写真と視覚像とはもちろん全同ではありませんが,両者は近いものと一般に認められています (写真は裁判の証拠にもなる)。デッサンは「網膜像のトレース」ではなく,光の符号化の画材による再現といえるでしょう。ただ,人間は光情報を脳において処理する (その結果が視覚) ので,視覚像には個人差があり,デッサンにも個性が出るのです。これをブログ主は勝手に拡大解釈して,視覚に普遍性はない (どんなふうに見える人がいてもおかしくない) と言い,同時に,デッサンを「網膜像のトレース」と誤解しているので,デッサンの個性を見出すことができない (「どれも酷似している」としか見えない) わけです。
臨画や模写も,元の画を隣に置いて写すかぎり,「トレース」ではありません。3 次元像の再現より 2 次元像の再現の方が一般に易しいだけです。元の画の上にトレーシングペーパーを置いてなぞった場合は「トレース」です。
デッサンにはいろいろな方法があって,どれが正しいとか理想的だとか,一概に決めることはできないと思います。対象への愛,世界への愛が伝わって来るデッサンが,私の好きなデッサンです。
ナディアは特殊がな事例です。N・ハンフリーによると彼女はその後のリハビリが功を奏し、ある程度の言語を習得する過程で、絵の才能?(視覚記憶)が急速に衰えたといいます。山下清は彼の絵を見る限り視覚記憶はなかったように思います。
あなたたちは天才信仰があるのです。これがあなたたちの可能性を邪魔しています。
確かに北斎や手塚治虫は図抜けていますが、私の想定範囲内です。ナディアのような視覚記憶はなかったと断言できます。絵を見れば解ります。
又、Hydraさんがご指摘のように、人間とカメラは違います。当然です。しかし、ルネッサンスの解剖学の発達により、目の構造とカメラ(当時はカメラオブスキューラ)の一致が発見され、事実それは一致すると言ってもいいでしょう。又、Paganさんが言うように、写真プリントは視覚と近い、あるいは一致するという世間の評価があるのは事実です。この考えを拡張すれば視覚の普遍性に繋がるのでしょうが、私はこれには懐疑的です。問題は眼球の網膜から脳に至る認知システムです。このシステムはカメラ構造を確かに含んでいますが、それを遥かに超えるものです。
眼球運動が認知やそのアウトプットに影響を及ぼしているのは確かです。しかし眼球運動だけを取り上げるのというには理解に苦しみます。認知と表現はすべての人体活動のたまものなのです。恐らくあなたが言う、表現される眼球運動とは注視点の移動のことかと思いますが、これを全て眼球運動に帰せる根拠はないと思います。
Paganさんから「デッサンは視覚像の概念化・符号化です。」という文言が聞けるとは思ってもいませんでした。これは全くその通りだと思います。しかしその後がいけません。「(光学写真機の)光をフィルム上の粒子で符号化したものが写真であり,」とは全く間違いです。それも幼稚な間違いです。これがあなたの悪い癖で、思い付きを直ぐ、口にする前に、『概念化・符号化』とは何かということを丹念に調べることを勧めます。
神が死んだ (ニーチェ) ことによって天才がもてはやされるようになったのは確かですが,それまでは神の代行者,「神の手を持つ男」 (=ヤン・ファン・エイク) などと呼ばれていたわけで,天賦の才能自体は古今東西変わらず存在します。
> 効率的な学習によって大学受験に受かるように
重要なのは,受かってから大きく伸びるかどうかです。
> 誰もが職業絵師の門戸は開かれています。
凡庸な画は見たくありません。
> モーツァルトにはなれないかも知れませんがサリエリには成れるのです。
絶対になれません。アントニオ・サリエリも並外れた才能の持主であり,多くの音楽家を指導しています。
> ナディアは特殊がな事例です。
発達遅滞があった点だけが特殊です。彼女も人間である以上,概念化によって描いていたとしか考えられません。あの程度のクロッキーを描く画家はざらにいます。G・スパーリングが行なったようなフラッシュ刺激の実験をナディアは受けていませんから,彼女が視覚記憶を持っていたということは証明されません。
> あなたたちは天才信仰があるのです。これがあなたたちの可能性を邪魔しています。
現代の日本ほど,天賦の才が軽んじられたことはないでしょう。何の根拠もない「実験」が世紀の大発見と騒がれたり,お笑い芸人が何百人もいたりします。
> Paganさんから「デッサンは視覚像の概念化・符号化です。」という文言が聞けるとは思ってもいませんでした。これは全くその通りだと思います。
つまり,視覚記憶がなくてもデッサンはちゃんとできるのであって,根本的にあなたの間違いです。少しも非人間的な行為ではありません。
> 「(光学写真機の)光をフィルム上の粒子で符号化したものが写真であり,」とは全く間違いです。それも幼稚な間違いです。
どのように間違いなのか,あなたが説明できることはないでしょう。
> 『概念化・符号化』とは何かということを丹念に調べることを勧めます。
カメラに概念はありませんから概念化するわけはありませんし,そんなことは一言も言っていません。つまらない藁人形論法は相変わらずですね。
<a href="http://manji.blog.eonet.jp/photos/uncategorized/2013/09/03/photo_3.jpg" rel="nofollow">http://manji.blog.eonet.jp/photos/uncategorized/2013/09/03/photo_3.jpg</a>
これらの鶏はどこか少し変だと感じていたのですが,私は鶏を描いたことがなく,実物を凝視したことがないせいで,鹿の場合のようには気づきませんでした。
鶏といえば伊藤若冲でしょう。北斎も見事な鶏を描いています。
<a href="http://www.artmall.co.jp/jyakuchu2013_cimage33.jpg" rel="nofollow">http://www.artmall.co.jp/jyakuchu2013_cimage33.jpg</a> (若冲)
<a href="http://adachi.mtcommerce.jp/ukiyo-e/items/hokusai115/hokusai115_main.jpg" rel="nofollow">http://adachi.mtcommerce.jp/ukiyo-e/items/hokusai115/hokusai115_main.jpg</a> (北斎)
それで写真で確認して,やっとなるほどと気づいたわけです。さすがに違いますね。
ナディアに画の才能があったことは揺るぎませんが,写真のような視覚記憶ではなかったことがわかります。
確かに天才はいます。しかし世界を変えてきた人の殆どは凡夫の努力です。だからより多くの人がそこに参加し、努力することはいいことなのです。
ナディアの事例は特殊です。又、少なくともガードナーやハンフリーは特殊な事例として彼女を取り上げています。そして臨床学的にその事例は一般化されています。それが視覚記憶です。あなたがそんなこと無いと言い張っても、そこに確たる根拠がない限り、あなたの主張にに対しては「ああ、そう思うのですか。」という他ありません。
「カメラに概念はありませんから概念化するわけはありません」というのなら、「符号化」とは何かということを丹念に調べることを勧めます。「(光学写真機の)光をフィルム上の粒子で符号化したものが写真であり,」と、あなたは言ったのですから。
光学写真の場合、(あるいはカメラオブスキューラの場合、)これは符号化ではなく現象です。デジタルの場合、符号化と言えますが、これは光学写真プリントに近づけるため運用されたテクノロジーです。つまり「概念化。符号化」とは生態活動、もしくはそれを擬した(人為的、生態的)テクノロジーです。
ナディアが描いた絵の多くは彼女が見た写真集や画集から取られたものであるということは後に検証されたといいます。つまり、以前見た写真や絵の記憶を取り出し、それをなぞったとされています。しかし北斎や若冲の絵はそれと根本的に異なっています。この違いを一般の人に説明することがこんなにも難しいことだと思ってもいませんでした。
先日NHK日曜美術館の再放送で手塚治虫が鳥獣戯画を解説するというのがありました。これは非常に興味あるもので、先日のレクチャーでは急きょプログラムを変え、この番組の解説に時間を割いたくらいです。
重要な箇所はいくつかあるのですが、一番面白いのは手塚が何も見ず、アナウンサーと喋りながら10秒くらいで戯画のウサギを筆ペンで描くところです。何も見ずですから明らかに記憶から抽出されたことになります。そしてその記憶はナディアのような視覚記憶か、あるいはそれとは別のものかということです。
今回のブログ記事はこの番組の放映前でしたが、私が提示したカエルの姿態図は期せずして手塚のデモンストレーションと全く一致します。手塚のウサギに対して私のカエルです。
このレクチャ―の内容は動画を公開するか、それが無理ならブログで書こうと思っています。
サリエリは若くして頭角を現したマルチタレントであり,作曲と演奏に卓越特化したモーツァルトとはタイプが違うのです。同時代人から才能を妬まれていたのは明らかにサリエリの方で,彼は陥れられたようです。努力次第でサリエリには絶対になれません。
> だからより多くの人がそこに参加し、努力することはいいことなのです。
創造に参加できるのはごく一部の人だけです。それは「業」のようなもので,手放しで「いいこと」ともいえません。「幸福な人間は創造しない」 (加賀乙彦) のです。
> あなたがそんなこと無いと言い張っても、そこに確たる根拠がない限り、あなたの主張にに対しては「ああ、そう思うのですか。」という他ありません。
ナディアの画は幼児が描いたものとしては確かに驚きだが,顔が鶏らしくない感じがする,何が原因なのかはわからない,小学校の飼育小屋に鶏がいた,目が据わっていて怖かった,そうだ目だ,ということで,他の画や写真を見て気づきました。ナディアの鶏は,目玉がくちばしにくっついています。鶏はこんな目をしていませんし,視覚記憶ならこのようには描かれないはずです。
韓国人の鶏はそもそも下手ですが,これも顔が違う鳥のように見えます。鶏の目の周りの赤い部分はこんな真円形ではないのです。
鶏はありふれた題材ですから,プロの画家になるなら,こういうことはすぐにわからなければダメだと思います。
> 光学写真の場合、(あるいはカメラオブスキューラの場合、)これは符号化ではなく現象です。
光は人間の網膜上で符号化しますが,この時点ではまだ脳で処理されていませんから,電流に変わるという現象にすぎません。
> デジタルの場合、符号化と言えますが
イメージセンサは光を電流に置き換えて符号化します。イメージセンサから送り出される電気信号はアナログです。デジタルカメラの光学部分は,光を銀塩粒子の化学的変化に置き換えるフィルムカメラと本質的に同じです。
> ナディアが描いた絵の多くは彼女が見た写真集や画集から取られたものであるということは後に検証されたといいます。
やはり鶏を見て記憶したわけではなかったのですね。
河鍋暁斎は 2 歳で蛙を写生したといいます。彼は後年,こんな楽しい画を描いています (鳥獣戯画またはその模写を見る機会はなかったはずです):
<a href="https://kumareon.files.wordpress.com/2008/07/6a00cd971aa3d04cd500fa96858b160002.jpg" rel="nofollow">https://kumareon.files.wordpress.com/2008/07/6a00cd971aa3d04cd500fa96858b160002.jpg</a>
<a href="http://3.bug-studio.com/wp-content/uploads/2013/04/6a00cd971aa3d04cd500fa96858b160002.jpg" rel="nofollow">http://3.bug-studio.com/wp-content/uploads/2013/04/6a00cd971aa3d04cd500fa96858b160002.jpg</a>
鳥獣戯画自体は他のものの写しかもしれませんが,最初の図像を作った人は,蛙や兎を写生したにきまっています。
> しかし北斎や若冲の絵はそれと根本的に異なっています。この違いを一般の人に説明することがこんなにも難しいことだと思ってもいませんでした。
簡単ですよ。誰もが無条件に「いい!」と思うのは北斎や若冲ですから。
人間の眼球自体は構造的に光学カメラと似ています。外界はレンズを通し網膜上に結像します。カメラオブスキューラならスクリーンであり写真機なら印画紙です。この結像自体は符号化とはいいません。光学現象です。問題はその先です。網膜の一部には視細胞が密集しており、赤緑青にそれぞれ反応する視細胞によって、電気信号に変えられ、脳内のネットワークが構成されます。この視細胞の電気信号はオン、オフなので、1、0のデジタルです。デジタルカメラもそうで、像を基盤上の無数のセンサーが1,0のデジタル信号にかえます。その信号を読み取り、モニターに像が再現されます。この基盤からモニターまでの電気信号が符号範囲であり、像は基盤により符号化されモニターで復号化されます。
人間の脳に当てはめれば、網膜に結像した像は視細胞により符号化されます。その信号が脳の奥深くにあるモニターで復号され、それを小人さんたちが眺めます。これをカルテジアン劇場といいます。
「ナディアが描いた絵の多くは彼女が見た写真集や画集から取られたものであるということは後に検証されたといいます」と両立しません。ナディアの鶏の画にもその検証があてはまるなら,あの画を 3 次元像の視覚記憶とする一般的解釈は明確な誤りです。
> この結像自体は符号化とはいいません。
言いません。光学カメラなら (印画紙の前に) フィルム上の銀塩粒子の感光,人間の目なら網膜上での光の電気信号への変換を符号化と言います。
> この視細胞の電気信号はオン、オフなので、1、0のデジタルです。デジタルカメラもそうで、像を基盤上の無数のセンサーが1,0のデジタル信号にかえます。
どちらも電圧変化はアナログです。デジタルカメラの「デジタル」たる所以は,イメージセンサから送られて来るアナログ信号を A/D コンバータでデジタル信号へと変換し,さらにデジタルデータとして保存する点にあります。電気信号が変換器を通る前はデジタルカメラも人間の目と同じであり,フィルムカメラとの違いは,符号化を電気的方法で行うか,化学的方法で行うかです。
<a href="http://manji.blog.eonet.jp/photos/uncategorized/2013/09/03/photo_3.jpg" rel="nofollow">http://manji.blog.eonet.jp/photos/uncategorized/2013/09/03/photo_3.jpg</a>
下の韓国画家はまず岩がダメです。皴法をデジタル化する試みは,私は面白いし悪くないと思いますが,いったん画筆の跡を正確に写し取るべきでしょう。これでは岩に見えません。
次に,この種のゴツゴツした皴法を使うなら,鶏の足の際まで描き込まないと,岩の上に立っているように見えません。
また,鶏の羽根を細かく描くスタイルを採った以上,腿の部分がのっぺりした茶色ではいけません。鶏冠と肉襞ものっぺりした赤です。若冲は他の画で拡大して見ると,細かいドットを入れていることがわかります。
<a href="http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-ac-3a/shuzoukiln/folder/1208334/16/62398416/img_0" rel="nofollow">http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-ac-3a/shuzoukiln/folder/1208334/16/62398416/img_0</a>
東洋画の専門家なら,さらにボロクソに言うと思います。
全然違うことは一目瞭然,「天才信仰」などとレッテルを貼っても無意味です。デッサンはきわめて人間的な行為といえます。私は「写し」を全否定するものではありません。ただ,優れた画家が自分の目で見た世界を描いた画が,何百年たっても輝きを失わないのに対して,「写し」しか認められない画は,確実にゴミになるということです。
ナディアの視覚記憶は主にガードナーとハンフリーの著作に沿ったものです。彼らの主旨は、ナディアが絵や写真の図版を視覚として記憶し、それを抽出し、なぞったというものです。この視覚記憶の能力をガードナーはラスコー、ハンフリーはショーベの洞窟壁画の画家と類比され、対象が二次元、三次元に関わらず両者とも視覚記憶によると結論づけられます。又、ガードナーはシューラという少女が描いた絵も例として挙げています。シューラの場合も後に既成のイラストが対象とされていたことが解るのですが、こちらは視覚記憶ではなく概念記憶です。この違いは彼女たちの絵を比べれば理解できると思います。
網膜下での視細胞によるオンオフの電気信号への変換を符号化と言えますが、 フィルム上の銀塩粒子の感光は一般的に符号化とは言わないのです。もしあなた以外にそう書かれたものがあるのならば提示してください。
【感光】[名]物質が光を受けて反応し、化学変化を起こすこと。「フィルムが―する」デジタル大辞泉
>東洋画の専門家なら,さらにボロクソに言うと思います…
そう思うのなら、又、韓国画家に対してそれだけ問題点を具体的に挙げることができるのなら、今からでも絵をお描きになったらどうですか。
若冲は確かに優れた描き手だと思いますが、まるで手の届かない天才だとは到底思いません。又、そう思えることが第二、第三の若冲の出現に繋がるのです。そうでなければ絵という表現形式は過去、現在、未来へと繋がっていきません。
画家が自分の目で見た世界を描くという意識はあったと思っています。これを否定するつもりはありません。ここで問題にしているのは、網膜像をなぞることによって絵を描くという透視法の胡散臭さです。「写し」(という機構)において画家が自分の目で見た世界を描くという意識が全て説明できると考えています。
透視法への最初の疑問は、絵はものを見て認識したものが描かれるはずだ、という描き手としての大前提から生じていることは何度も言ったと思います。
立体のデッサンが非人間的な行為か否かというのが,このブログのテーマの 1 つです。ナディアが鶏の実物を見て描いたのでないなら,彼女の画は無関係です。
> 網膜下での視細胞によるオンオフの電気信号への変換を符号化と言えますが
人間はデジタル機器ではないので,オンオフではありません。アナログ符号だということです。チマチマと間違ったことを繰り返しても正しくはなりません。
> フィルム上の銀塩粒子の感光は一般的に符号化とは言わないのです。もしあなた以外にそう書かれたものがあるのならば提示してください。
かつてはたいてい「記号化」と言っていたからです。写真は光をインデックス記号化したものだと述べたのは C・S・パースです。
> 今からでも絵をお描きになったらどうですか。
描いたとしても,若冲の真似なんか絶対にしません。
> まるで手の届かない天才だとは到底思いません。
(笑)
> そうでなければ絵という表現形式は過去、現在、未来へと繋がっていきません。
画にはいろいろな描き方があるのに,恥をかくだけの物真似をする必要はありません。美への奉仕はもとより時を超えるものです。
> ここで問題にしているのは、網膜像をなぞることによって絵を描くという透視法の胡散臭さです。
あなた以外,誰もなぞろうとしていません。そんなことは不可能でしょう。うまい人は瞬時に,正確に概念化しているのです。
「人間はデジタル機器ではないので,オンオフではありません。」…これに関しては以下のリンクをどうぞ。
<a href="http://www.enhanced-life.net/essay/108/" rel="nofollow">http://www.enhanced-life.net/essay/108/</a>
<a href="http://www.gifu-nct.ac.jp/elec/deguchi/sotsuron/ieiri/node4.html" rel="nofollow">http://www.gifu-nct.ac.jp/elec/deguchi/sotsuron/ieiri/node4.html</a>
「写真は光をインデックス記号化したものだと述べたのは C・S・パースです。」
これに関しては下のリンクをどうぞ。パースは写真の指示対象という機能を問題にしているのであり、化学現象としての写真自体のことを言っているのではありません。
<a href="http://artscape.jp/artword/index.php/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9" rel="nofollow">http://artscape.jp/artword/index.php/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9</a>
「あなた以外,誰もなぞろうとしていません。そんなことは不可能でしょう。うまい人は瞬時に,正確に概念化しているのです。」
私は網膜像をなぞって絵を描く、あるいは網膜像を対象にするのは透視法がもたらした思い込みだと言っているのです。現にカメラルシーダが使われていましたし今もクラウドファンディングで製造された品が売られています。又、B・エドワーズの短期間で絵が上手くなるというマニュアル本「脳の右側で描け」は透視法(網膜像をなぞる)をベースにしたものであり、これは世界的にベストセラーだといいます。又、彼女公認の高額なセミナーが日本各地で催され、盛況だといいます。それに関しては下をどうぞ。
<a href="http://manji.blog.eonet.jp/art/2013/04/post-fb15.html" rel="nofollow">http://manji.blog.eonet.jp/art/2013/04/post-fb15.html</a>
しかしあなたから「そんなことは不可能でしょう。うまい人は瞬時に,正確に概念化しているのです。」などと聞けるとは思いませんでした。絵は概念(あるいは記憶)で描く…というのが当ブログのテーマであり、これが「写し」の原理に繋がります。もう少しです。概念化するとは実質的にどういうことか考えてください。
可能な例がたくさんありますから,全くの誤りです。
> これに関しては以下のリンクをどうぞ。
「また、シナプスの信号伝達の効率は、常に一定なわけではなく、変化し得る。この性質をシナプス可塑性と呼ぶ」アナログ符号です。石川英明←胡散臭くて窒息しそう(笑)
> これに関しては下のリンクをどうぞ。
「ある対象の光学的な痕跡としての写真は……指示対象そのものとの物理的な対応関係を有している」物理的な対応関係とは化学現象の結果です。
> 網膜像を対象にするのは透視法がもたらした思い込みだと言っているのです。
透視法より前からやっています:
<a href="http://www.mfa.org/collections/object/saint-luke-drawing-the-virgin-31035" rel="nofollow">http://www.mfa.org/collections/object/saint-luke-drawing-the-virgin-31035</a>
> それに関しては下をどうぞ。
石膏デッサンではカメラルシーダもピクチャープレーンも使いません。全く別の行為です。
> 概念化するとは実質的にどういうことか考えてください。
こうすることです。機器も使いませんし何の図像も写しません:
<a href="http://www.mfa.org/collections/object/saint-luke-drawing-the-virgin-31035" rel="nofollow">http://www.mfa.org/collections/object/saint-luke-drawing-the-virgin-31035</a>
「指示対象そのものとの物理的な対応関係を有している」…の「指示対象」とは脳内で発生するものであり、その「指示対象」が光学的現象と対応しているということです。物理的光学現象そのものが自ずと「指示対象」を持つのではありません。
ウェイデンは北方ルネッサンスの画家であり透視法です。
何度も言うように体一つで行う石膏デッサンは、多くの場合、 網膜像を写し取ることなど出来ません。だから思い込みだと言っているのです。
あなたは概念化、あるいは概念の意味を理解していないのではありませんか。そうでなければ「現代美術が難解な理由」でいただいたコメント、「視覚芸術は言葉で表せない情意を表そうとします。言葉で紡ぎ出される sophia とはそぐわない気がしますね。」…と矛盾します。
「on-off」の効率が刻々と変化し続けているものと考えられますから,脳が受け取るのはアナログ信号です。さらに,「網膜の多くの神経細胞は, 脳神経系などで見られる活動電位と呼ばれるスパイク状の電位変化とは異なり, 緩やかな電位変化を発生する」:
<a href="http://becomerich.lab.u-ryukyu.ac.jp/UR-DBMS/SyndromeDetail.php?recid=6451&winid=1" rel="nofollow">http://becomerich.lab.u-ryukyu.ac.jp/UR-DBMS/SyndromeDetail.php?recid=6451&winid=1</a>
網膜の神経細胞には「全か無の法則」は必ずしもあてはまりません。
高級機種のデジタルカメラで撮った写真より,コンパクトカメラで撮った銀塩写真の方が自然に見えることが多いのは,銀塩粒子による符号化 (インデックス記号化) が網膜上のアナログ符号化に近いからです。
> 「指示対象」とは脳内で発生するものであり
パースはそんなことを述べていませんし,考えていません。
> ウェイデンは北方ルネッサンスの画家であり透視法です。
フィレンツェの透視法を初めて北方に伝えたのはデューラーです。ロヒールの画にはたくさんの平行線が見えますが,1 点に収束するといったことは全くないので,彼が透視法を知らなかったことがわかります。
> 何度も言うように体一つで行う石膏デッサンは、多くの場合、 網膜像を写し取ることなど出来ません。だから思い込みだと言っているのです。
誰でも練習すればできるというものではありません。それを「特殊能力」と呼ぶべきかどうかはわかりません。
昔,美術部の顧問の先生は,デッサンだけならプリュドンがいちばんうまいと言っていました:
<a href="http://www.mfa.org/collections/object/standing-female-nude-seen-from-behind-170800" rel="nofollow">http://www.mfa.org/collections/object/standing-female-nude-seen-from-behind-170800</a>
私は,日本人のなかでは安井曾太郎もうまいですが,松岡壽が一番だと思います:
<a href="http://jmapps.ne.jp/geidai/det.html?data_id=4333" rel="nofollow">http://jmapps.ne.jp/geidai/det.html?data_id=4333</a>
彼らは網膜像を写し取ろうとしています。ただし,なぞろうとはしていません。彼らの作品を「思い込み」と否定するのはあなたの自由ですが,賛同する人はゼロでしょう。
> あなたは概念化、あるいは概念の意味を理解していないのではありませんか。そうでなければ「現代美術が難解な理由」でいただいたコメント、「視覚芸術は言葉で表せない情意を表そうとします。言葉で紡ぎ出される sophia とはそぐわない気がしますね。」…と矛盾します。
視覚像の概念化は「日本語」や「英語」のような自然言語ではなく,画家の個人言語によって行われるのだと思います。それは自然言語には置き換えられないので,画家は自分の画の描き方を他人に説明することができません。
さらに,芸術にとってはそれだけでは不十分です。画によってしか表されない情意 (これが美を生み出す) が含まれていなければ,写真と見紛うデッサンが描けても藝大には入れてもらえません。
<a href="http://www.acpt.jp/acpt_resumeFile/shinbnkeikei/neu01.pdf#search='%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E3%82%AF%E7%8A%B6%E3%81%AE%E9%9B%BB%E4%BD%8D%E5%A4%89%E5%8C%96'" rel="nofollow">http://www.acpt.jp/acpt_resumeFile/shinbnkeikei/neu01.pdf#search='%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E3%82%AF%E7%8A%B6%E3%81%AE%E9%9B%BB%E4%BD%8D%E5%A4%89%E5%8C%96'</a>
リンクの11pに「ニューロンのインパルスが、閾値下の刺激ではまったくおこらず、かつ閾値以上の刺激ではつねに応答の大きさが一定で変わらないことを『全か無の法則』*にしたがうという。このことはニューロン内をつたわるインパルスがデジタル情報であることを意味する。」…とあり、又、注釈に「 神経・筋などの興奮性細胞は、単一細胞として全か無の法則にしたがう。ただしこの法則は、心筋では細胞間に電気的連絡があって単一細胞と見なせるためあてはまるが、神経束・骨格筋など多細胞の組織には適用できない」…とあります。
この「神経束」とは同一方向に走る神経繊維の束とあり、それは細胞間に電気的連絡がなく一方向であると解せ、又、下のリンクの「複合活動電位は『全か無かの法則』には従いません。 複合活動電位というのはたくさんの活動電位の集合で、一見すると1つの細胞から発せられたような形をしています。」…ということから、オンオフの信号を発するニューロンが集合して「神経束」となり、そこから「全か無の法則」にはあてはまらない「複合活動電位」を発すると解せます。
つまり素人的には、デジタルの集合でアナログが表現されるということであり、これは人間のアナログな知覚は構造的にデジタルによって表現されているということだと解せます。
<a href="http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1113681606" rel="nofollow">http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1113681606</a>
「指示対象」とは脳内で発生するものでなければ、地球上で生物がいなくなったと仮定すれば、そこにある物質が自ら「指示対象」を指し示しているということになります。「指示対象」とはその物質ではない別の物質を指し示すことです。晩年のパースならそんなこと考え付くかも知れませんが、本当に彼がそう書いたのなら、その箇所を引用してください。
網膜像を出来るだけ正確に写し取ろうとするのがリアリズムです。そしてその考えはカメラルシーダや透写装置の使用を見ても解ります。網膜像のトレースです。そしてこの考えの起源は眼球のモデルとしてのカメラオブスキューラです。
石膏デッサンのデスケルや計測棒が何のためにあるのか考えてください。いずれにしても「彼らは網膜像を写し取ろうとしています。」とは進歩です。
概念化の例に ウェイデンを挙げるのには承服できません。それは完成かどうかは議論の余地がありますが、透視法だからです。それが建前であったにせよ「網膜像を写し取る」という行為は概念化の対極にあります。
私なら概念化の例に象徴的に鳥獣戯画や雪舟、あるいは宗達を挙げます。彼らは観察して描いたかも知れませんが、網膜像を写し取ろうなどとは考えなかったと思います。
以前、絵は言語に近いと言っらあなたは否定したかと思いますが、「視覚像の概念化は「日本語」や「英語」のような自然言語ではなく,画家の個人言語によって行われるのだと思います。」…とは少しは進歩です。しかし根本的誤りがあります。言語を代表する概念とは何かと言うことです。それは個人言語、あるいは個人概念などあり得ないということです。集団内で共有されるから言語であり概念なのです。そして鳥を観察して言語の「鳥」や図像の「鳥」に置き換えることが概念化であり、言語の「鳥」はもちろんのこと、図像の「鳥」は粉本などにより記憶において集団内で共有されるものです。「網膜像を写し取る」行為はこの対極にあり概念化ではありませんし、体一つで行うこの行為は人間の機能を逸脱しているということです。
それは何度も言うように、そして実際お目にかけるように、ナディアでもない限り、視覚(網膜像)は記憶できず、概念である言語や図像は記憶できるのです。
その電位変化の効率が常に動いているので,結局,脳はアナログ信号しか受け取れません。
> デジタルの集合でアナログが表現されるということであり、これは人間のアナログな知覚は構造的にデジタルによって表現されているということだと解せます。
銀塩粒子の感光も,電子の移動によってデジタルに説明することは可能でしょう。
> 「指示対象」とは脳内で発生するものでなければ、地球上で生物がいなくなったと仮定すれば、そこにある物質が自ら「指示対象」を指し示しているということになります。
パースはそんなことを述べていませんし,考えていません。
> 石膏デッサンのデスケルや計測棒が何のためにあるのか考えてください。
網膜像をトレースするためのものではありません。網膜像と紙とは,デスケルや計測棒を使っても重なっては見えません。
> 概念化の例に ウェイデンを挙げるのには承服できません。それは完成かどうかは議論の余地がありますが、透視法だからです。
透視法ではありませんし,あなたを承服させる必要はありません。
どんなに思い返してみても,こんなことを望んだ記憶はやっぱりありません。石膏デッサンが難しいのは,私も含めて多くの人が感じることだと思いますが,あなたのようなことを望む人はまずいないでしょう。それが,あなたの言っていることがどう考えても変で,訳がわからない理由なのです。
視覚像を精確に写し取ろうとする試みは,透視法が発明されるより遅くとも数十年前から始まります。
<a href="http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/g/gaddi/taddeo/croce/08baronc.html" rel="nofollow">http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/g/gaddi/taddeo/croce/08baronc.html</a> (タッデオ・ガッディはジョットの弟子で助手)
<a href="http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/m/master/xunk_bo/margaret.html" rel="nofollow">http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/m/master/xunk_bo/margaret.html</a>
この技法は,銀筆等のメタルポイントと紙の普及によって,フランドルで急速に進歩し,ファン・エイク兄弟の油彩技法へとつながっていきます。
<a href="http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/e/eyck_van/jan/01page/111alber.html" rel="nofollow">http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/e/eyck_van/jan/01page/111alber.html</a>
<a href="http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/w/weyden/rogier/19graphi/1young.html" rel="nofollow">http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/w/weyden/rogier/19graphi/1young.html</a>
この頃,フィレンツェの透視法はまだ北方には伝わっていませんでした。初めて伝えたのはイタリアを旅したデューラーです。下はデューラーが 13 歳の時の自画像で,フランドルに由来する北方の技法だけで描かれています。
<a href="http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/d/durer/2/11/1/01self13.html" rel="nofollow">http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/d/durer/2/11/1/01self13.html</a>
デューラーの下の画のような装置は,実際に使われていたと思います。
<a href="http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/d/durer/2/12/9_1528/5draught.html" rel="nofollow">http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/d/durer/2/12/9_1528/5draught.html</a>
方眼紙にデッサンしたものが数多く残っています。
<a href="http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/r/raphael/7drawing/3/13drawin.html" rel="nofollow">http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/r/raphael/7drawing/3/13drawin.html</a>
しかしながら,上のデューラーの装置は人が視覚像を写し取るのを補助するものであって,視覚像をなぞる,トレースするためのものではありません。また,すべて単眼視で写し取れるとは考えられません。
下のような装置ならトレースすることになりますが,デューラーが描いたものとは明らかに違います。
<a href="http://manji.blog.eonet.jp/photos/uncategorized/2011/02/25/toshasouti.jpg" rel="nofollow">http://manji.blog.eonet.jp/photos/uncategorized/2011/02/25/toshasouti.jpg</a>
<a href="http://manji.blog.eonet.jp/photos/uncategorized/2011/06/03/sd212.jpg" rel="nofollow">http://manji.blog.eonet.jp/photos/uncategorized/2011/06/03/sd212.jpg</a>
一方,レオナルド・ダ・ヴィンチは,視覚像をトレースするための装置を考案しています。
<a href="http://blogs.library.ucla.edu/special/files/2011/11/Belt-Vinciana-bookplate-full-web.jpg" rel="nofollow">http://blogs.library.ucla.edu/special/files/2011/11/Belt-Vinciana-bookplate-full-web.jpg</a>
しかし,ガラスにデッサンしたものは見つかっていません。実際には使えなかったと考えられます。
視覚像を写し取る行為は人間本来のものであり,透視法はそれを効果的に行うための一技法にすぎません。もちろん,高いレベルで実現できる人は限られており,才能に加えて修練を要します。しかし,その能力がプロの画家に求められるのは当然といえます。どんなヴィジョンでも描いて見せられるというのが理想でしょうから。
視覚像を直接なぞろうとする試みもなかったわけではありませんが,それこそ機器がなければ不可能です。石膏デッサンにおいて,視覚像のトレースは求められていませんし,そんなことを強いる教師もいません。求められているのは視覚像の概念化と再現です。ただし,それは画を描くためだけの個人言語によって行われます。つまり,描き方は各自どうでもいい,説明は要らない,美しく描けさえすればよいということです。ごく部分的に,「ここの角度はもっと大きい」「ここはそこより暗い」などと,自然言語に置き換えられることはありますが,結局は描いて見せるしかありません。
このブログ自体が壮大な藁人形論法なのです。
パースが何を言ったのか提示してください。
「視覚像を精確に写し取ろうとする試みは,透視法が発明されるより遅くとも数十年前から始まります。」
…透視法の成り立ちは議論の余地があると思いますが、大雑把には14、15、16世紀です。又、「視覚像を精確に写し取ろうとする試み」=透視法と考えていますが、分けて考えることも可能かもしれません。しかしここで重要なのは、「視覚像を精確に写し取ろうとする試み」があったことをあなたが認めている点です。
透写装置もカメラルシーダも目的は「視覚像を精確に写し取ろうとする試み」でありその試みが印象派まで本流として続きます。そして石膏デッサンは新古典派のダヴィッドが考案したと言われていますが、これも「視覚像を精確に写し取ろうとする試み」の一環であろうことは容易に理解できます。
デスケルと計測棒の用途はデューラーの透写装置の転写型と全く同じです。日本においては明治期、工部画学校のフォンタネージが持ち込み、これが延々と大学受験に使われています。あなたがお受けになった趣味の日曜画家や小中学校の図画工作の授業はどうか知りませんが、美術専門教育においての石膏デッサンは当初から「視覚像を精確に写し取ろうとする試み」なのです。比べるにはレベルが違います。
「視覚像を精確に写し取ろうとする試み」と「網膜像のトレース」は全く違うとのことですが、「網膜像のトレース」が「視覚像を精確に写し取ろうとする試み」の最善の策であるという結果になるということです。これは逆に「網膜像のトレース」が「視覚像を精確に写し取ろうとする試み」という理念を生んだのかも知れません。この二者は資料的にも方法論でも密接に関連しています。
透写装置は転写するものやスクリーンに直接描きこむもの、糸をはり穴を開けていくものなど色々なタイプが記録に残っています。これは実際に使われ、これは使われなかったというのは勝手ですが、身勝手な想像だといえます。現にカメラルシーダ、カメラオブスキューラ(現時点ではデジタルカメラ)は今でも使用されています。
美術史で重要なのは、日本の絵師に西洋の「視覚像を精確に写し取ろうとする試み」と同じものがあったかどうかということです。中国では観察して描くという画論があり、それを広義で「写生」といいます。当時、対象物を見ながら描くという「対看写生」は「写生」の極一部だったのです。そして、かの静岡県立美術館主任学芸員氏もいうように、日本において円山派登場以前には、その「対看写生」の痕跡すら見つけるのが難しいのです。(恐らく確たる証拠は見つかっていないと思います)そこには当然、カメラオブスキューラやルシーダ、透写装置などの「網膜像のトレース」の痕跡や画論などは一切ありません。このことから西洋の「視覚像を精確に写し取ろうとする試み」という理念は、東洋の「観察して描く」という画論とは原理的に異なったものと推測できます。
そして「観察して描く」は記憶を通過するものであり、これこそ概念化であり、人間本来のものです。
<a href="http://manji.blog.eonet.jp/art/2011/03/post-2731.html" rel="nofollow">http://manji.blog.eonet.jp/art/2011/03/post-2731.html</a>
人間は情報のデジタル変換をしません。だから,例えば見たもののサイズを何cm 何mm,持ったものの重さを何百何十何g と (推定でなく) 確言できないのです。符号化とデジタル化とは無関係です。
> パースが何を言ったのか提示してください。
写真は光をインデックス記号化したものだと言ったのです。パースの時代に脳科学は未発達でしたから「脳内」などという概念はありませんでしたし,脳内は真っ暗ですから光学的現象は起こりえません。
> …透視法の成り立ちは議論の余地があると思いますが、大雑把には14、15、16世紀です。
「透視法」を自分に都合よく使ってはいけません。透視法「的」な表現なら古代ローマからあります。日本にも中国にもあります。チマブーエやジョットやヤン・ファン・エイクは明らかに透視法「的」です。しかし,数学に基礎を置く「透視法」は 15 世紀にフィレンツェで発明されたものです。議論の余地は一切ありません。
> 「視覚像を精確に写し取ろうとする試み」=透視法と考えていますが、分けて考えることも可能かもしれません。
絶対に分けて考えるべきです。同一視は認められません。
> デスケルと計測棒の用途はデューラーの透写装置の転写型と全く同じです。
同じですが,デスケルと計測棒を絶えず使い続け,終始単眼視でデッサンするという人を知りません。もちろんそんな指導を受けたこともありません。それが専門教育なのですか。答えてください。
ちなみに,隻眼は画家には決定的に不利なはずです。大成した人は福王寺法林だけではないかと思います。
> 「視覚像を精確に写し取ろうとする試み」と「網膜像のトレース」は全く違うとのことですが、「網膜像のトレース」が「視覚像を精確に写し取ろうとする試み」の最善の策であるという結果になるということです。
網膜像のトレースが機器 (カメラ・ルシダ) によって可能になったのは 19 世紀です。視覚像をコピーする試みは 13 世紀末には始まっています。両者は 500 年間無関係であり,しかも,機器を使わずに視覚像をコピーする練習をした人でないと,機器を使いこなせません。
> これは実際に使われ、これは使われなかったというのは勝手ですが、身勝手な想像だといえます。
作品が残っているかどうかという客観的な根拠があります。物理的に不可能なものは論外です。
> 現にカメラルシーダ、カメラオブスキューラ(現時点ではデジタルカメラ)は今でも使用されています。
何に対する「現に」なのか意味不明です。カメラ・オブスクラやデジタルカメラは視覚像のコピーともトレースとも全く無関係です。
> 美術史で重要なのは、日本の絵師に西洋の「視覚像を精確に写し取ろうとする試み」と同じものがあったかどうかということです。
私は,古今東西常にあると考えています。人間の本性だと思います。ただ,確かに「あった」と認められる証拠が残るためには,適した画材が得られ,かつ,それを使いこなせる才能が現れなければなりません。西洋でも,ジョットが現れるまでは「なかった」ことになっています。結局は運です。そして,ジョットを 1 世紀間眺め続けたフィレンツェ人が透視法を発明したのです。その逆ではありません。
記号論とは意味や認識とは何であるかという論考です。物理学ではありません。パースによれば人間が表象する全ての物は記号として捉えられ、記号は、イコン、インデックス、シンボルという三角形で表現されます。認識とは記号の三角形が次の三角形を生じさせ、その三角形は又、次の三角形を生じされるという連鎖の過程であるとされます。
「透視法」の定義は前にも言いましたが辻茂の論を採用しています。日本には透視法はありませんでした。「透視法的」などとはあなたの主観でありそれこそ都合です。
透写装置と石膏デッサンが同じであると認められればそれで結構です。もちろんそういう指導が行われ、受験会場ではデスケルなどの持ち込みは認められています。
隻眼が画家にとって不利かどうかという点では、以前、リキテンシュタインに会ったことがありますが、彼は極度の外斜視でした。彼の外側に固定された片目は視力において機能していないと思います。そうした例は沢山あります。
カメラ・ルシーダは17世紀初頭、ヨハネス・ケプラーの「屈折光学」において発表され、それによりカメラオブスキューラと眼球の仕組みを理論的に結び付けます。
「視覚像を精確に写し取ろうとする試み」と同じものが日本にあったかどうかということについて、それが古今東西常にあるという理由は、ジオットが現れる「運」による、…等というのは論理の破たん以外の何物でもありません。意味が解りませんし、解る人などいません。
銀塩写真を眺めるのも人間であり,写真は光に対応するアナログ符号です。
> 記号論とは意味や認識とは何であるかという論考です。
そうですね。ですから,「地球上で生物がいなくなったと仮定す」る必要はそもそもないのです。
> 物理学ではありません。
しかしインデックス記号は「指示対象そのものとの物理的な対応関係を有」するのです。記号論は物質と無縁とは限りません。
> 「透視法」の定義は前にも言いましたが辻茂の論を採用しています。
ではロヒール・ファン・デル・ウェイデンは透視法を知らなかったことになります。彼は視覚像をコピーする試みをもう始めていました。
> 透写装置と石膏デッサンが同じであると認められればそれで結構です。
石膏デッサンは透写装置の助けを借りることもあるというだけです。同じではありません。また,カメラ・ルシダを使わないかぎり石膏像と紙とは重なって見えないので,網膜像のトレースはできません。網膜像がなぞれなくても,視覚像を精確に写し取ろうとする試みを,画家たちは何百年間も続けてきました。美術教育で強いられていることがあるとすればその試みであって,網膜像のトレースではありません。
> もちろんそういう指導が行われ
デスケルやはかり棒を使わずに,両目で石膏像を見たりしてはいけないんですね(笑)
> 彼の外側に固定された片目は視力において機能していないと思います。そうした例は沢山あります。
それこそあなたのかってな推測です。外斜視と隻眼とは全然違います。
> カメラ・ルシーダは17世紀初頭、ヨハネス・ケプラーの「屈折光学」において発表され
カメラ・ルシダが実用化されたのは 19 世紀初頭であり,それまでケプラーの理論は忘れられていました。
> それによりカメラオブスキューラと眼球の仕組みを理論的に結び付けます。
カメラ・オブスクラは眼球ではありませんから,カメラ・オブスクラが作る像は網膜像とは無関係です。
> 意味が解りませんし、解る人などいません。
わからないのは頭の悪いあなただけでしょう。日本には銀筆や木炭のような画材がなかったために,視覚像をコピーしようと試みたと広く認められる作品が残っていないのです。
<a href="http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku1/shinran.jpg" rel="nofollow">http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku1/shinran.jpg</a> (伝・専阿弥陀仏「親鸞聖人影像」部分,1243 年頃,西本願寺)
<a href="http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/e/eyck_van/jan/01page/111alber.html" rel="nofollow">http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/e/eyck_van/jan/01page/111alber.html</a>
両者のやっていることは同じです。すなわち,視覚像をコピーする試みです。画材と技法が異なるにすぎません。
石膏デッサンはそれ自体に視覚像を正確にコピーするという目的があります。そういう目的のもとに石膏デッサンという訓練法が開発されたからです。私はそういう石膏デッサンなら即刻やめるべきだと主張しています。アリアドネを目の前にして、デスケルや計測棒を捨て、つまり単眼視計測を止め、心に浮かんだ別の何かを描くよう石膏デッサンなら大いに推奨します。
斜視に関しては以前随分調べました。それによれば殆どの斜視は先天性だとされています。もし幼児の段階で斜視が見つけられず、それを放置すれば、斜視の度合いにもよりますが、脳による抑制のため、いずれ一方の視力が失われるといいます。
ブログにも書きましたが、二年前、私は眼筋麻痺による突発性内斜視状態になりました。右目が鼻の方に極端に寄り、全く動かなくなりました。突発性なので両目の視力は正常ですが、右目が動かないため融像できず、物が絶えず二重に見えます。つまりひどい複視です。そしてこの状態で生活していると、片方の視力が抑制遮断され片目だけの情報となります。これを脳による抑制といいます。医師によると、眼筋麻痺の50% は脳に外科的、あるいは神経内科的原因が見つかり、50%は原因不明で、その残り約半分は自然に治るといいます。三か月たっても治らなかったので、殆ど諦めていた私に医師は力づけようと言いました。「あなたは手術やプリズム強制は不可能ですが、しばらくすると片方の視力が抑制され、今よりずっと生活しやすくなります。」それで抑制された目はどうなるのですかと聞くと、「いずれ視力が失われます」といわれました。つまりリキテンシュタイン氏が真正斜視なら、片方の目は機能していないということです。
カメラルシーダは19世紀英国人ウォラストンが特許を取り販売しましたが、今ではケプラーの「屈折光学」の盗用だとされています。
意味が解らないのはあなたの文章です。文章から内容を読めません。それを全部人のせいにするのではなく、少しは反省が必要だと思われませんか。
リンクの二枚の肖像は光学機器で描かれたのではない限り、同じ原理によって描かれています。しかし一方は視覚像を正確にコピーするという意志が読み取れ、そしてその前後にそうした意志が見出せる行為の跡が残っています。つまり透写装置や光学機器による作画法です。しかしもう一方にはそうした痕跡など全くありません。にも拘らず、一方の意志を全てにあてはめるのは拙速ではないかと言っているのです。
当てはめれば写真はただの物質です。当てはめない (人間が認識している) から写真は光に対応する記号なのです。同時に,写真は光の物理的痕跡でもあります。
> 例えば岩石はそれ自体の性質で別の何かを指し示しているということになってしまいます。
写真と岩石とは違います。
> つまりリキテンシュタイン氏が真正斜視なら、片方の目は機能していないということです。
それほど重症には見えません。
<a href="http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c3/Roy_Lichtenstein_(1967).jpg" rel="nofollow">http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c3/Roy_Lichtenstein_(1967).jpg</a>
<a href="http://www.chrisfelver.com/images/large/artists1/lichtenstein_roy.jpg" rel="nofollow">http://www.chrisfelver.com/images/large/artists1/lichtenstein_roy.jpg</a>
> カメラルシーダは19世紀英国人ウォラストンが特許を取り販売しましたが、今ではケプラーの「屈折光学」の盗用だとされています。
アイデアが盗用だったからといって,ウォラストンより前にカメラ・ルシダが実在したわけではありません。
> それを全部人のせいにするのではなく、少しは反省が必要だと思われませんか。
思いません。あなただけを相手に書いているのではありません。
> リンクの二枚の肖像は光学機器で描かれたのではない限り、同じ原理によって描かれています。
光学機器で描かれたのではなく,同じ原理によります。
<a href="http://www.mfa.org/collections/object/saint-luke-drawing-the-virgin-31035" rel="nofollow">http://www.mfa.org/collections/object/saint-luke-drawing-the-virgin-31035</a>
<a href="http://collectie.boijmans.nl/en/collection/n-9-(pk)" rel="nofollow">http://collectie.boijmans.nl/en/collection/n-9-(pk)</a>
光学機器は秘密にされていたのだというのは,根拠のない陰謀論であり,無意味です。ピラミッドやモアイ像は宇宙人が作ったのだというのと大差ありません。
<a href="http://www.chrisfelver.com/images/large/artists1/lichtenstein_roy.jpg" rel="nofollow">http://www.chrisfelver.com/images/large/artists1/lichtenstein_roy.jpg</a>
<a href="http://gigaplus.makeshop.jp/aziz0215/shopimages/8_001000002187.jpg" rel="nofollow">http://gigaplus.makeshop.jp/aziz0215/shopimages/8_001000002187.jpg</a>
リキテンシュタイン氏の一番上の画像は(1967)とありますから44歳です。これを見れば斜視とは全く思えません。二番目はやや斜視と見えます。三番目は完璧に斜視です。
私が極短距離で目にしたのは1995年の稲盛財団の京都賞講演会の折ですので彼が72歳の時です。この時は三番目の画像より斜視が進行していたと思います。黒目の部分が半分くらいしか見えませんでした。
これによると歳を重ねる程、斜視の傾向が強くなっていると推測できます。そして眼科学会は否定しますが後天性斜視の職業的要因はやはりあるのではないかと思ってしまいます。
彼が石膏デッサンに興じていたとは思えませんが、彼の技法はコミックスの画像をプロジェクタでキャンバスに拡大投影し、それを写すものです。つまりトレースです。彼はそれを生涯続けました。
今までプロジェクタによるトレースは考慮しませんでしたが、その行為自体、両眼視機能は必要でないというより、むしろ邪魔になるのかも知れません。
蛇足ですが、1994年東京都現代美術館が彼の「ヘアリボンの少女」の購入を決めています。因みに1990年に東京都が購入した私の200号の作品が1994年に東京都現代美術館に入るのが決まり、購入リストが送られてきて驚いたのを思い出します。何と「ヘアリボンの少女」は都税支出6億円だとあります。私の200号は5,60万程だったと思います。
写真も岩石も物質です。その物質の成り立ちを解明しようとするのが物理学です。パース記号論では人間が表象する全ての物質は記号であるとしました。ですから写真も岩石も記号となります。類似・指標・象徴の三角の領域が異なる記号です。しかし物理学では写真も岩石も記号とはしませんし、写真はそれ自体でそれとは別のものを指し示す性質を持っているなどとしません。記号論は人間の物に対する心理の在り様を対象とし物理学は一般的に心理の在り様を切り離します。
> 写真も岩石も物質です。
写真は光を記号化するための人工物です。
> 記号論は人間の物に対する心理の在り様を対象とし物理学は一般的に心理の在り様を切り離します。
記号論は物理的現象を殊更に切り離しません。インデックス (指標) はその指示対象と物理的かつ直接的な結びつきを有します。すなわち,銀塩粒子は光によって化学変化を起こした,光に対応する符号です。
><a href="http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/d/durer/2/12/9_1528/5draught.html" rel="nofollow">http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/d/durer/2/12/9_1528/5draught.html</a>
>方眼紙にデッサンしたものが数多く残っています。
><a href="http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/r/raphael/7drawing/3/13drawin.html" rel="nofollow">http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/r/raphael/7drawing/3/13drawin.html</a>
この方眼は、デッサンを他に拡大転写するためのものではありませんか?
デスケルという道具は、格子が16個ぐらいしかないでしょう? デューラーの格子は36個もありますね。こんなに細かいと、どうやっても目がずれてしまって、逆に使い物にならないと思います。
なるほど,確かにそう書いてありますね。コメントをよく読んでいませんでした。
方眼紙はよく見かけるものですが,下のものも拡大や転写,いわゆる籠写しのためとされています:
<a href="http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/m/master/xunk_it/xunk_it3/y_study6.html" rel="nofollow">http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/m/master/xunk_it/xunk_it3/y_study6.html</a>
<a href="http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/b/bronzino/2/man_lux.html" rel="nofollow">http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/b/bronzino/2/man_lux.html</a>
<a href="http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/c/campi/vincenzo/z_study3.html" rel="nofollow">http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/c/campi/vincenzo/z_study3.html</a>
もし,方眼が基本的にこのような目的のものだとすれば,デューラーの装置が実際に使われたと考えるべき根拠はなくなります。おっしゃるとおり,視点の固定は非常に難しいと思われ,方眼が細かいほど,少しでもずれたらアウトになります。
<a href="https://www.youtube.com/watch?v=Qde6C3Crt3Y" rel="nofollow">https://www.youtube.com/watch?v=Qde6C3Crt3Y</a>
基準になる線は垂直と水平の 2 本で,画面は 4 分割です。1 枚目の油彩画はあまりこの画家らしい作品には見えません。しかし,2 枚目の鉛筆デッサンでは視覚像のコピーが試みられます。画家はコンパスや測り棒を持ち,ときどき単眼視で構図を確認しますが,基本的には両目で対象を見て描いています。ブログ主が主張する「視覚像のコピー=透視法」は根本的な誤りなのです。
このアントニオ・ロペス・ガルシアのパフォーマンスには,画家と世界との幸福な関わり方を見ることができます。他方,キム・ジョンギの芸は全く自閉的なものです。
<a href="https://www.youtube.com/watch?v=kKtGVJiOC2Q" rel="nofollow">https://www.youtube.com/watch?v=kKtGVJiOC2Q</a>
ラストの「私の見ているものは皆が見ているものと同じだろうか」というナレーションにグッときたのを思い出しました。
それはさておき、ここでロペスがやっている描法はデューラーの透写装置の原理とは少し異なるのではないかということです。これが以前腑に落ちなかった点で、マルメロの木の周囲に透写装置なら二本でいいはずなのに彼は3本の支柱を立て、それに糸を張ります。そしてカルトンを出来るだけ対象物と平行になるよう置くのが普通ですが、彼はわざわざ90度の角度に置きます。そしてこの90度の効用はL字形の杖のような長い計測棒によって対象物の任意の点と糸が交差する延長の位置をもってカルトン上に印すことで発揮されるよう場面上で見えます。
この作業はあくまで未確認の推測ですか、デカルト座標による作画法ではないかと思います。以前、デカルト座標理論による作画法があるとどこかで読んだことがあります。それにロペスは彫刻家でもありますし、時間があれば調べたい興味ある事例です。
デューラーの透写装置について何か誤解があるのではないかと思われるので補足します。リンクにあるデューラーの透写装置は実際使用されていたというのが一般的解釈です。アルベルティの「絵画論」にも視覚のピラミッドの説明においてカメラオブスキューラの言及が一切無いのに対し透写装置は引用されています。つまり視覚のピラミッドを横切る平面がすなわちそれが絵画であり、それは(「当時評判の」という注釈つきで)透写装置のスクリーンに例えられています。
又、視覚像のコピーに対し、目の固定という難しい問題があるのは事実です。しかし透写装置においてスクリーンが固定された机の天板に同じく固定された照準器と呼ばれた器具において支障がない程度に目の固定は保障されます。そしてここで確認しておかなければならないのは、あなた方が使われる「視点の固定」の「視点」の意味するところです。
「視点」には大よそ二つの意味があります。それは対象物の注視点であり、もう一つは注視点を方向付ける目から発する一つの視線の出発点です。ここで視点は目と対象物の注視点を結ぶ一直線を形成するということになります。もし、この一直線を透写装置においての「視点の固定」というならそれは大間違いです。透写装置においてはあくまで視線を発する目の固定であり、視線は対象物の無限の注視点に向けて無限に発せられるということです。従って方眼が細かいほど無限が限定され、より精度が上がるということです。
同じではないでしょう。あれはアントニオの夢ですから。
> ここでロペスがやっている描法はデューラーの透写装置の原理とは少し異なるのではないか
同じです。
> これが以前腑に落ちなかった点で
あくまで誤解に基づいて世界を見るんですね。
> マルメロの木の周囲に透写装置なら二本でいいはずなのに彼は3本の支柱を立て、それに糸を張ります。
最初は 2 本です。水平線は背後の塀に白い絵具で描いていたのですが,おそらく雨で消えたので,水平の糸を張るための支柱をさらに 2 本立てて,後には 4 本になっています。
> カルトンを出来るだけ対象物と平行になるよう置くのが普通ですが、彼はわざわざ90度の角度に置きます。
あんな大きなカンヴァスを平行に置いたら,かなり木から離れないと木が隠れてしまいます。木の隣には枝が邪魔で置けないでしょう。木をできるだけ近くで見るためにイーゼルをあの位置に据え,木とカンヴァスを交互に見ても木への視点がずれないように,木に直接目印を付けたのです。後半では,木とカンヴァスを同時に見るために,鏡を使っています。
> そしてこの90度の効用はL字形の杖のような長い計測棒によって対象物の任意の点と糸が交差する延長の位置をもってカルトン上に印すことで発揮されるよう場面上で見えます。
計測棒は出て来ますが,そんな使い方はしていません。
> リンクにあるデューラーの透写装置は実際使用されていたというのが一般的解釈です。
先に升目を施した紙にデッサンしたものは残っているのですか? まあ,デューラーほどの腕があれば可能かなとも思うので,この点はもう議論しません。問題は,一瞬たりとも透写装置を離れて両目で対象を見たら,それは透視法ではないということです。そうしてはならないという指導は専門教育でもしていませんね。したがって「視覚像のコピー=透視法」は完全な誤りです。
> 照準器と呼ばれた器具において支障がない程度に目の固定は保障されます。
> 従って方眼が細かいほど無限が限定され、より精度が上がるということです。
理論的には確かにそのとおりです。しかし,デスケルは 16 分割しかありません。デューラーの透写装置が画家の必携品にならないのはなぜでしょう。現実には視点の固定は困難であり,多少ずれてもアバウトな装置の方がごまかしがきくのです。
鏡は絵だけを見るためキャンバスの真後ろに設置されているように見えます。あの近距離で対象物と垂直に置かれたキャンバスと対象物は同じ角度からは同時には見えません。
「計測棒は出て来ますが,そんな使い方はしていません。」
それでは対象物とキャンバスを繋ぐ計測棒とはどんな使い方ですか。
「一瞬たりとも透写装置を離れて両目で対象を見たら,それは透視法ではないということです。」
透視法についてこのブログで延々と書いていますが、装置を離れれば透視法ではないなどと思っていませんし書いてもいません。透視法は透写装置や光学機器により導かれたと何度も言ってます。それが実際上、不可能であろうともです。
初めに装置を使って描いた絵は見たままを正確に再現できると知られます。そして次に装置があろうとなかろうと、絵はそのようにして描くべきだ…ということになります。そのようにして…とは「透写装置でした作業のように」です。つまり透写装置のスクリーンを直接絵に置き換えるという作業です。これが透視法であり、絵は視覚のピラミッドを垂直に切断された平面であるという発想です。そしてこれが絵は視覚像を直接の対象とするという発想の始まりです。
こうした発想は光学機器や装置が使用される以前、又はかつての日本にはありませんでした。絵は「見たものを描く」としても、そこには必ず記憶を経由します。見て/それから描く…からです。しかし透写装置での作業は、見える像(視覚像)を直接写します。装置がなくとも装置ですることをやろうとします。この発想の変化が透視法がもたらしたものであり、いわば透視法とは直接の対象が記憶から視覚に発想を転換させたものということになります。
しかしこれによって人間の機能まで転換することなどありません。装置を使わない限り、やはり絵は「見て/それから描く」あるいは「見ないで描く」ものであり、直接の対象は視覚ではなく記憶です。それが人間の機能であり、そこには概念フォーマットが必須で、それにより見、知り、描くのです。視覚像をそのまま描く(あるいは描ける)というのは透視法がもたらした思い込みであり、従ってデスケルや棒で視覚を計測する石膏デッサンなど人間の機能を逸脱した行為は即刻止め、概念フォーマットを取り込む臨画教育を復活すべきだ、というのが当ブログの一貫した主旨です。
あなたはこの主旨が読み取れないようですから、あなたの反論コメントは的を得ないのです。
真後ろにあるということは,ロペスが画と鏡の間に立つと,体が邪魔で画が見えないということです。斜めから見れば画と木の両方が鏡に入ります。理の当然ですね。
> それでは対象物とキャンバスを繋ぐ計測棒とはどんな使い方ですか。
対象物とカンヴァスを繋いだりしていません。一瞬なのでよくわかりませんが,おそらくマルメロの実と水平線との距離や角度を測っているのだと思います。
<a href="https://www.youtube.com/watch?v=Qde6C3Crt3Y#t=75m10s" rel="nofollow">https://www.youtube.com/watch?v=Qde6C3Crt3Y#t=75m10s</a>
> 透視法は透写装置や光学機器により導かれたと何度も言ってます。
何度言い張っても,実際には視覚像のコピーは透視法より前に始まっています。辻茂氏の定義に従えば,ヤン・ファン・エイクやロヒール・ファン・デル・ウェイデンの画は透視法で描かれていません。
あなたの議論はとうに詰んでいるのです。
この後のどこかでPOV(1人称撮り)を入れて、鏡の中の絵と木を映せばよかったと思います。
この場面は12月9日で、翌10日には絵を片づけています。鏡を使うのは最終確認なのでしょうか。
それはいいですけど,カメラが映り込んでしまうのではないですか?
計測棒は同映画の1:34-08の箇所にもあります。これは友人が棒を持ち、実と糸とキャンバスを繋げ、ロペスがキャンバスに接した所に見当を付けています。
私の議論は視覚像のコピーが正確に何時始まったのか、というものではありません。それは新たな証拠が発見され、いずれ特定されるでしょう。要旨は、それが実質的には不可能であるのにも拘わらす、視覚像をコピーするという意識がある時、西洋に生まれ、海を渡りそれが今でも一般的に信じられていることへの問題指摘です。
尚、私の反面教科書である美術手帳1975年6月号の「特集遠近法」には表紙がパルミジャニーノ、中表紙がヤン・ファン・エイクのいずれも凸面鏡の絵が載っています。いわゆる象徴です。
それは編集で消せます。ただ、ロペスが見たのと全く同じ映像ではなくなります。
垂直方向の要素の比率がおかしくないか,確認できると思います。
確かに,画だけを鏡に映してデッサンの狂いを見つけることもあります。左右対称のものを描くときによくやりますが,木ではどうでしょうか。
> これは友人が棒を持ち、実と糸とキャンバスを繋げ、ロペスがキャンバスに接した所に見当を付けています。
全然違います。葉が茂りすぎて実を隠しているので,葉を棒で持ち上げてもらっているのです。ロペスはただ対象を見て描いています。
> 要旨は、それが実質的には不可能であるのにも拘わらす、視覚像をコピーするという意識がある時、西洋に生まれ、海を渡りそれが今でも一般的に信じられていることへの問題指摘です。
不可能であることは皆わかっています。それでも視覚像をコピーしようと試みたものを美しいと思うな,そんなのは西洋かぶれだ,政治的な関係がないのに西洋画の影響を受けた江戸時代の絵師たちはけしからん,ということですね(笑)
いずれにしても、彼の友人が言うように、彼の方法は特殊であり、特殊に対する原論としての議論は不毛です。
視覚像のコピーが不可能であると皆が解っていれば、誰もそれを試みようとはしないはずで、もしそうならブログで取り上げたりしません。例えばレオナルドは両眼で見たものは絵にはできない、と言いました。これは単眼ではそれが出来るという意味であり、彼はそれを信じていました。又、あなたは距離を充分に取れば両眼でも出来る、と言いましたし、前のコメントで「視覚像を写し取る行為は人間本来のものであり…」と言ったのです。これらは「不可能であることは皆わかっています。」と全く矛盾しています。
又、江戸時代の絵師の描いた絵が視覚像をコピーするという動機をもとに描いたというのは大間違いです。
それほど大きな角度でもありませんが,同じ対象を少し違う角度から見たものが同時に見える状態にはなりますね。石膏像を,描いているのとは違う角度から眺めてみたりするのと同じではないでしょうか。
鏡の中のロペスは映った木の方に視線を送っており,何かをチェックしていることは間違いありません。もし画だけを見たいのであれば,イーゼルの後ろに立ってカンヴァスの脇からのぞくのが最適です。
> 彼の友人が言うように、彼の方法は特殊であり
採録シナリオにそんな台詞はありません。「徹底してるな」とは言っていますが。
> 視覚像のコピーが不可能であると皆が解っていれば、誰もそれを試みようとはしないはずで、もしそうならブログで取り上げたりしません。
不可能だからこそどこまでも向上できるのですし,もとより完璧がありえない以上,完璧でなければならないといったものでもありません。例えば,美大受験生のデッサンは,プロから見ればたいてい未熟でしょう。しかし,全員不合格なんてことにはなりません。
> 例えばレオナルドは両眼で見たものは絵にはできない、と言いました。これは単眼ではそれが出来るという意味であり、彼はそれを信じていました。
で,実際にできたのですか?
> あなたは距離を充分に取れば両眼でも出来る、と言いましたし
アントニオ・ロペスもやってるでしょ。時間切れで未完成に終わりましたが,あれはあれでいいのです。
彼はあのマルメロの木を描くのは映画で 3 回目だと言っています。不可能とわかっていることにいろいろな方法で挑戦し,完璧に近づくことに意義があるのだと思います。
> 前のコメントで「視覚像を写し取る行為は人間本来のものであり…」と言ったのです。これらは「不可能であることは皆わかっています。」と全く矛盾しています。
不可能とわかっていても試みずにはいられないのですから,少しも矛盾していません。完璧を実現することではなく,向上することに喜びがあるのです。
> 江戸時代の絵師の描いた絵が視覚像をコピーするという動機をもとに描いたというのは大間違いです。
では,彼らは西洋画の何に魅力を感じたのでしょうか。
北斎の線遠近法の研究は非常にレベルが高いです。
「私ならもっと(対象物から)距離を取るよ」というセリフがあります。私もそれに全く同感です。
>不可能だからこそどこまでも向上できるので…
それを「不可能」という言葉を当てはめるのは間違っています。画家、あるいは鑑賞者はレオナルドの絵に「(より)見えた通りに描かれた絵」を見出したのです。レオナルド自身も、それを確信したのでしょう。つまりそれが透視法であり視覚像のコピーです。そして彼は生涯に渡りそれを追及します。又、画家たちはその後400年に渡りそれを追及します。
中世までは、あるいは明治期まではそうした発想は全くありませんでした。レオナルドやその周辺の人が「視覚像のコピー」という発想を初めて発掘し、皆はそれに夢中になり追従したのです。
そしてレオナルドの理論の進化継承が現代の写真やデジタル画像です。カメラで撮った画像は、それが有りのまま、見えたまま写っていると誰もが信じて疑いません。
「視覚像を写し取る行為は人間本来のものであり…」ではないど考えています。それはレオナルドやその周辺の人が発掘したものです。
「不可能とわかっていても試みずにはいられない」とする「試み」の指針とは、レオナルドやその周辺の人が発掘した「視覚像のコピー」なるものに他なりません。
それだと凡庸な画しか描けません。ロペスの画は単一視点ではなく,水平に動くパノラマ視点 (しかも両眼視像の合成) をとっており,自然光下で時間をかけて描いていますから,単一光源でもありません。彼は視覚像のコピーに挑んでいますが,透視法とは程遠いことがわかります。そして,実はすべての写実絵画が,ロペスほど極端ではないとしても,透視法から離れているのです。
> そして彼は生涯に渡りそれを追及します。又、画家たちはその後400年に渡りそれを追及します。
永久にたどり着けないので追求し続ける,ただ近づいていくのみだということは,もちろん西洋人にもわかっていたはずです。彼らは不可能だから非人間的だとは考えませんでした。近づくことが楽しい,あなたの言う「オカルティックな精神状態」に入ることが楽しいからです。
> レオナルドやその周辺の人が「視覚像のコピー」という発想を初めて発掘し、皆はそれに夢中になり追従したのです。
レオナルドは透視法の完成者であって,視覚像のコピーの創始者ではありません。視覚像のコピーへの挑戦はジョット以前から少しずつ始まっていました。チマブーエ,ドゥッチョ・ディ・ブォニンセーニャらがそうですが,ジョットに最も大きな影響を与えたのはピェートロ・カヴァッリーニだといわれています。また,フランドルでは別個の流れがありました。
> 「視覚像を写し取る行為は人間本来のものであり…」ではないど考えています。
私のような者でさえ 8 歳になれば試みるのですから,人間本来のものであることは疑いえません。
日本語が間違っています。それを言うなら「視覚像のコピーは完璧にするのは『不可能』だが、少しでも完璧に近づけようとするのは『可能』だ。」ということです。そしてこうした道をレオナルドやその周辺の人が付けたのです。私は不満だが、その周辺にジオットやチマブーエなどを加えても結構です。これは子細なことです。
しかし、私が言うのはそんなことではありません。その道自体がもともと『不可能』であるから、(『幻想』と言替えてもいいです)少なくとも現代の日本人はそんな徒労はやめて、本来の描き方をすべき(教えるべき)だと言ってるのです。
レオナルドやその周辺の人は、あるいはそれに続く画家は、少なくとも完璧に近づけることは『可能』だとしたから努力をし続けたのです。私はこれを『不可能』『幻想』『徒労』だと言っているのです。ゴンブリッチに言わせれば印象派以降、その『幻想』は純度を増し、その結果、多くの画家は本道をはずれ、多くの枝道を作ってしまいました。従って元からの道にしがみ付く者は『幻想』の純度が高く、寄りにもよってそれを絵の基礎と称し、それが美術教育に取り入れられています。例えば入学試験の石膏デッサンは即刻やめるべきだと言っているのです。
>私のような者でさえ 8 歳になれば試みるのですから…
あなたは『幻想』の純度が至って高いのです。
相変わらずつまらない言葉遊びが好きですね。そういう意味なら確実に「可能」です。さまざまなレベルにおいて。
> その道自体がもともと『不可能』であるから、(『幻想』と言替えてもいいです)少なくとも現代の日本人はそんな徒労はやめて、本来の描き方をすべき(教えるべき)だと言ってるのです。
いろいろな「可能」を楽しんでいるのですから,大きなお世話です。明治以降は確かに盲目的な西洋崇拝もありましたが,江戸時代には関係ありません。歌川国芳が「西洋画は真の画なり」と言ったのは,「視覚像のコピーこそが真の画だ」という意味です。
> 例えば入学試験の石膏デッサンは即刻やめるべきだと言っているのです。
では代りに何を課しますか。聞くところによると,今は洋画科より日本画科の方が厳しいらしいですよ。
合格点が取れればいいんであって,その後も超絶技巧を目指す人,デッサン力とは別の特長で勝負する人,いろいろでしょう。もちろん絵画は写実ばかりではありません。ただ,一定以上の画力のない人はヴィジョンを形にできないでしょうから,期待が持てません。
> あなたは『幻想』の純度が至って高いのです。
偉大な画家はみな「幻想」に憑り付かれた人です。「画狂人」北斎も,「画鬼」暁斎もそうです。美術ファンは描く腕はありませんが,「オカルチックな」気分はわかります。「幻想」を追体験させてくれるような画にしか魅力は感じられません。
これは言葉遊びではありません。重要な部分です。あなたは「不可能であることは皆わかっています。」と書かれました。もしそれが皆であれば、「視覚像のコピーは不可能である」ことを記述した文章なりを示してください。これを言っているのは私の他はゴンブリッチくらいしか思い当りません。
ゴンブリッチが「見たものなど描くことはできない」と敢えて言ったのは、見たものを描くことができる、つまり視覚像のコピーが一般的に可能だと考えられているからです。
>いろいろな「可能」を楽しんでいるのですから,大きなお世話です。
だからそれは「不可能」であり「幻想」に過ぎないと言っているのです。国芳は実質的に視覚像のコピーなどしていませんし、そんな考えなど微塵もなかったと思います。
しかしこれはあなた個人に言うのではありません。私の主張に対する反論コメントに真摯に答えているだけです。あなたが個別に何を信じ、何をしようと自由です。勝手にしてください。邪魔はしません。
画家はそんなネガティヴな言い方はしません。「デッサンやクロッキーはスポーツ選手の筋力トレーニングと同じである。一生勉強しなさい。お前たちの勉強にゴールはないよ」 (長沢節) のように言います。
> だからそれは「不可能」であり「幻想」に過ぎないと言っているのです。
あなたが「不可能」「幻想」「徒労」「オカルティック」と否定することのすべてが,まさに画家たちの喜びであり,観る者の楽しみなわけです。あなたの主張は「夢中になるな」「魅力を感じるな」という人間否定です。
> 国芳は実質的に視覚像のコピーなどしていませんし、そんな考えなど微塵もなかったと思います。
浮世絵版画という制約の多い画材で,果敢に試みています:
<a href="https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/kuniyoshi001/kuniyoshi001_main.jpg" rel="nofollow">https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/kuniyoshi001/kuniyoshi001_main.jpg</a>
<a href="https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/kuniyoshi003/kuniyoshi003_main.jpg" rel="nofollow">https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/kuniyoshi003/kuniyoshi003_main.jpg</a>
<a href="https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/kuniyoshi022/kuniyoshi022_main.jpg" rel="nofollow">https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/kuniyoshi022/kuniyoshi022_main.jpg</a>
国芳の技法は小林清親,川瀬巴水らに継承されました。巴水なんて巧すぎて,もう「イイ!」としか言葉が出ません。
あなたは教育関係や研究者、学芸員、美術ライターなどでは無いようですから、そう信じたからといって実害は無いように思います。あなたには何を言っても無駄のようですから御自由に信じて夢中になってください。
しかし、上記に携わる者や、これからそうした職業に就こうとする若い人がそう思うことは物凄く問題があります。
以下はそうした人に向けて書きます。
日本の絵師や浮世絵はレオナルドや新古典主義、写実主義、印象派がしたような方法では描いていないのです。いわゆる見たままを描く、視覚像のコピーである『写実』では無いのです。技法的にも全く異なっています。それを同じだとすることは日本の歴史文化を西洋を基準で読み替えることになり、西洋とは異なる価値ある日本の長い歴史文化を破棄することになります。
日本の歴史文化は西洋に勝るとも劣らない洗練されたものです。西洋にも多大な影響を与えました。
西洋が19世紀から20世紀にかけて以降、美術が視覚を対象から外すのは、開国前後輸出された浮世絵などの日本美術の影響が大きかったと西洋人であるゴンブリッチは著書で書いています。そしてこうした世界に類のないソフトパワーは誠に貴重なのですが、それを西洋を基準として読み替えるということはそれをみすみす放棄することになります。
この読み替え放棄は美術だけではなく、多くの分野で、それも日本人の手によってなされました。いわゆる反日日本人です。この事実としての歴史を、心情や外圧に惑わされることなく精緻に検証すること、そしてそれを現代に接続し、発信することが重要なのだと考えています。
すべて誤りです。18 世紀半ば以降の主要な浮世絵師は,みな西洋画の影響を受けています。技法の相違と,視覚像の再現という共通点とを併せもっていたことが,西洋人にとっての日本美術の大きな魅力だったといえます。
<a href="http://www.mfa.org/collections/object/first-gathering-of-actors-for-the-kaomise-performances-at-the-great-theaters-of-edo-edo-%C3%B4shibai-kaomise-ky%C3%B4gen-s%C3%B4za-ch%C3%BB-yorizome-no-zu-176276" rel="nofollow">http://www.mfa.org/collections/object/first-gathering-of-actors-for-the-kaomise-performances-at-the-great-theaters-of-edo-edo-%C3%B4shibai-kaomise-ky%C3%B4gen-s%C3%B4za-ch%C3%BB-yorizome-no-zu-176276</a>
国芳は西洋の銅版画を所持しており,模写や構図の借用を行なったことがわかっています。清親も巴水も西洋画を学んだことがあります。巴水は日本各地をスケッチして回り (頻繁に測り棒を使う様子が映画フィルムに残っている),おそらく写真も参照したと思います。
秀吉や家康の理想化されない肖像も,西洋画の写実精神の影響ではないかといわれています。外来のものを柔軟に採り入れ,結果として普遍に近づくのが日本文化の特徴であり,あなたのような西洋憎しの狭量な主張とは対極にあります。
<a href="http://manji.blog.eonet.jp/photos/uncategorized/2013/06/09/photo_2.jpg" rel="nofollow">http://manji.blog.eonet.jp/photos/uncategorized/2013/06/09/photo_2.jpg</a>
<a href="http://manji.blog.eonet.jp/photos/uncategorized/2011/10/19/photo.jpg" rel="nofollow">http://manji.blog.eonet.jp/photos/uncategorized/2011/10/19/photo.jpg</a>
上は眼筋麻痺の記事で下は安積さんと遠近法に関して議論したものです。いずれも「ハ」の字が描かれていますが、この「ハ」の字は視覚像のコピーによって描いたのでは全くありません。何も見ず、記憶だけで描いたのです。マンガ家にも記憶だけで描かれた「ハ」の字は幾らでも見出せます。
日本においてこの「ハ」の字は18世紀以前には在りませんでした。これは少なくとも透視法から導かれた「ハ」の字の影響と言えるでしょう。つまり西洋の影響です。しかしこれは視覚像のコピーとは結び付きません。当時の絵師やマンガ家、あるいは私が廊下の「ハ」の字を描くのにいちいち視覚像のコピーなどしません。記憶だけで描けるのです。西洋人もそうです。この「ハ」の字が透写装置などの視覚像のコピーによって抽出されたという特殊な事情が重要なのであり、後は多くの場合視覚像のコピーなどではありません。そうではなく、記憶に蓄積された「ハ」の字のフォーマットにより廊下をそう認識し、記憶し、事後においてそれを思い出し描くのです。これを視覚像のコピーによって描かれたとするのは思い込みだといっているのです。これは「写し」の原理だと言っているのです。
私は西洋が憎いと思っていません。そういう人種だと思っています。リアリズムを信じるのは彼らの勝手です。しかし「写し」の原理を持ち、それを精緻に洗練させた日本人がそれを自ら無効にし、西洋に靡くのが問題で、これは人類の損失だと言っているのです。
川瀬巴水をリアリズムと言ってしまえば、北斎や広重、鏑木清方もリアリズムになってしまいます。リアリズムの範疇が広がったのだ…と言うのでしょうが、しかしそう言ってしまうと、リアリズムの本質、又、そうでない絵の本質を無効にしてしまうことになり、日本文化自体を無効にしてしまいます。明治維新、あるいは先の大戦以降、日本は歴史、政治経済において西洋視点による読み替えを随分してきましたが、文化だけはそうであってはならないと思うのです。
いやはや,恐れ入りました(笑)
以前から思っていますがあなたは読解力にかなり難があります。要点はこうです。
あなたが十字路の真ん中に立って、真っ直ぐ伸びる道路の遠方を眺めたとします。そして家に帰り、その道路の様子を思い出して絵を描いたとします。
恐らくその絵は正確ではないにしてもリンクの絵のような道路の「ハ」の字を描くはずです。その絵があなたが見たものであり認識したものです。
そしてその絵は視覚像のコピーという手間のかかる方法によって描いたものではなく、記憶を描いたものです。多くの人がそう描くでしょう。それは西洋画の修練とは関係ありません。そう認識するかしないかです。
そして平安絵師が同じことをしたとします。彼は「ハ」の字には絶対描きません。それは何故かと言うと、そう認識せず、その記憶も無かったからです。それを認識するのには我々が持っている道路の「ハ」の字という概念フォーマットが必要であるというのが要旨です。
西洋において道路の「ハ」の字は透視法で抽出されて以来、長い時間をかけ、人々の頭に「ハ」の字が概念フォーマットとして入ります。
しかし日本においては18,9世紀の短時間でそれが行われます。それがマキノヨシオのお父さんの逸話です。
>> あなたは「西洋画の影響」や廊下の「ハ」の字を描くことが「視覚像の再現」「視覚像のコピー」と結び付けていますが、それは何の根拠もありません。
清長の線遠近法と,視覚像の再現とは無関係と主張されています。
> 要点はこうです。
言い逃れは見苦しい。
> そしてその絵は視覚像のコピーという手間のかかる方法によって描いたものではなく、記憶を描いたものです。多くの人がそう描くでしょう。
フラッシュ刺激は記憶できないが,道路の様子は見て記憶できるということです。しかし,同じ場所に立った人の視覚像と一致するように描くことは,写生しないと私には不可能です。清長もたぶん写生したと思います。
> それは西洋画の修練とは関係ありません。そう認識するかしないかです。
> そして平安絵師が同じことをしたとします。彼は「ハ」の字には絶対描きません。
平安絵師が十字路の真ん中と思しき視点から道路を描いた例はありません。そのような視点は西洋画からもたらされたものです。ですから,平安絵師に実際にどう見えたかはわかりません。したがって,同じ人間としてわれわれと同じように見えただろうと推測するほかないのです。
この「同じ人間として」という感覚の欠如,人間否定があなたの特徴です。
> 西洋において道路の「ハ」の字は透視法で抽出されて以来、長い時間をかけ、人々の頭に「ハ」の字が概念フォーマットとして入ります。
そのように見えなかったものが見えるようになったのではありません。そのように見える視点から描かなかったのが,描くようになったのです。
> しかし日本においては18,9世紀の短時間でそれが行われます。
西洋でもジョットからマザッチョまで 100 年余りです。
> それがマキノヨシオのお父さんの逸話です。
陰影を伴わないものは,厳密には透視法といえません。下の右端の図が歪んだ箱でない保証は実はないのです。ゴンブリッチもそのように述べています:
<a href="http://www.nmri.go.jp/eng/khirata/mechdesign/ch04/board4-3.jpg" rel="nofollow">http://www.nmri.go.jp/eng/khirata/mechdesign/ch04/board4-3.jpg</a>
浮世絵ではふつう陰影を使わなかったので,建物には線遠近法を適用しましたが (大小法と併用できる),箱には適用しませんでした。
あなたには前述の「要点」が理解されなかったようです。清長の「ハ」の字の抽出は作業として透写装置でやるような視覚像のコピーではなく、それは彼の記憶から抽出されたと言ったのです。彼の記憶には「ハ」の字はフォーマットとしてあったのです。それは私やあなたや多くの絵描きやマンガ家が持っているようにです。だからさっき見た道路を家に帰ってから道路の「ハ」の字を記憶から描けるのです。その抽出の仕方と透写装置でやるような視覚像のコピー、つまり透視法とは全く無関係だといったのです。理解出来ましたか。
>清長もたぶん写生したと思います。
恐らく写生したと思います。しかしそれと視覚像の一致は別物です。詳しくは「石膏デッサンの憂鬱(1)」をどうぞ。4年前に書いたものですが、全くブレてません。
>同じ人間としてわれわれと同じように見えただろうと推測するほかないのです。
十字路の舗装道路はありませんが、寝殿造りの回廊はありました。
我々が廊下を「ハ」の字に見えるのに、なぜ18世紀までの絵師はそう描かなかったのか、というのがこのブログの最大のテーマです。可能性としては様式の違いにおいて描かなかった…か、そう認識できなかった、…の二つに一つです。このブログは後者の立場を採り、書いてきましたが、あなたとの議論のお蔭でますます後者への比重が高まってきました。がなったり、人格攻撃などせず、考慮に値する信憑性のある意見、データなりを書いてください。
>そのように見えなかったものが見えるようになったのではありません。そのように見える視点から描かなかったのが,描くようになったのです。
その信憑性のある根拠をお書きください。
>陰影を伴わないものは,厳密には透視法といえません。
その通りです。従って浮世絵は透視法ではないのです。やっと意見が一致しました。
> 十字路の舗装道路はありませんが、寝殿造りの回廊はありました。
寝殿造りの廊下と思しき視点から回廊を描いた例もありません (絵師は屋敷に上がれなかったのかもしれません)。ほんとにあなたは何も見てませんね。
> 我々が廊下を「ハ」の字に見えるのに、なぜ18世紀までの絵師はそう描かなかったのか、というのがこのブログの最大のテーマです。
私も絵巻と同じ視点からであれば,廊下を「ハ」の字になんか描きません,というかうまく描けないでしょう。そして,絵巻はやはりあのような視点から描くのが最適だと思います。
> その信憑性のある根拠をお書きください。
ビザンティンの画とジョットとを見比べてわかりませんか。
> 従って浮世絵は透視法ではないのです。
リアリズムは透視法だけではありません。
別にそれに従う必要はありません。例えば、雷が神の仕業と信じても一向に構いません。信仰の自由です。しかし、私の立場から雷は電気であるというのに対し、いわば、あなたの方からそれは神の仕業だと反論をしているのです。その反論に対し、データや根拠を示し、私の意見を真摯に述べているだけです。あるいは、それを述べる以外にはないということです。
もし、私の意見を根本的に覆したかったら、論旨にそった整合性のある論拠を出して覆しを試みてください。私もそれを望んでいます。
>寝殿造りの廊下と思しき視点から回廊を描いた例もありません。
これは何を言っているのかよく解りません。寝殿造りの廊下が描かれた絵巻は実際沢山残っており、そこから当時の建築物の構造や貴族や庶民の暮らしが解ります。
「絵師は屋敷に上がれなかったのかもしれません」とは面白い意見ですが、その可能性はあります。研究によると権力者が肖像画を絵師に依頼する時、絵師は権力者を直接見ずに、特長の合った粉本から描いたとされています。今で言う写生は無かったというのは確かだと思います。しかしその場合でも絵師は権力者や建築物の特徴や構造の情報(直接見る以外の)を知る必要があります。そうでなければ何も描けません。
>寝殿造りの廊下と思しき視点から回廊を描いた例もありません。
>絵師は屋敷に上がれなかったのかもしれません。
もし、このことが当時は写生や視覚像のコピーが行われていなかった、ということを言われているならば下の答えは簡単です。
>絵巻はやはりあのような視点から描くのが最適だと思います。
>ビザンティンの画とジョットとを見比べてわかりませんか。
絵巻には視点などありません。視点は透視法によって初めて現れるのです。視点とは、ある地点から見たとき、見える物体のそれぞれがが法則に従って角度を持ち収縮するということから意識に登ります。ビザンティンも透視法以前で、従って視点などありません。
ジオットは視点の成立においては過渡期であり、この対比は解りにくいのですが、ビザンティンとレオナルドを対比すればよく解ります。レオナルドの絵は視点を持ち、ビザンティンは絵巻同様、視点はないのです。
これを絵画には皆、視点があると考えるのは、透視法以降の近代絵画に慣れ親しんだ、我々の思い込みから来るものです。
>リアリズムは透視法だけではありません。
今となってはリアリズムという語は使用範疇が広がっています。リアリティという語もそうです。「鳥獣戯画はリアリティがある」などと言ったりします。しかしこうした汎用はかつての日本の絵と西洋画の大きな違いを見出し難くするものであり、その違いを仔細に抽出するため、当ブログではその語源を重要視しています。そうしたことから現代に通じるリアリズムという語意は透視法にその源があると考えています。
あなたはあくまで辻茂氏の説に従って,「透視法=ルネサンス遠近法」と考え,「透視法=視覚像をコピーする試み」と考えていますが,視覚像をコピーする試みは明らかにルネサンス遠近法より前から存在しました。疾うの昔に覆っています。
目も頭も悪いですね。
> 寝殿造りの廊下が描かれた絵巻は実際沢山残っており
廊下に立たなければ「ハ」の字には見えません。
> そこから当時の建築物の構造や貴族や庶民の暮らしが解ります。
透視法を知らなくても視覚像は写せるということの証左です。
> 研究によると権力者が肖像画を絵師に依頼する時、絵師は権力者を直接見ずに、特長の合った粉本から描いたとされています。
はいソース。
> そうでなければ何も描けません。
絵師は大工ではありません。屋敷を外から直接見れば済むことです。
> ジオットは視点の成立においては過渡期であり
透写装置がなくてもここまで描けるのです:
<a href="http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/g/giotto/padova/decorati/trompe.html" rel="nofollow">http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/g/giotto/padova/decorati/trompe.html</a>
<a href="http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/g/giotto/padova/decorati/trompe1.html" rel="nofollow">http://www.wga.hu/frames-e.html?/html/g/giotto/padova/decorati/trompe1.html</a>
> これを絵画には皆、視点があると考えるのは、透視法以降の近代絵画に慣れ親しんだ、我々の思い込みから来るものです。
視点がなければ何も見えません。固定しているかいないかの違いだけです。
コメントを読んでると、至るところに自分は絶対に正しいのだというような幼稚な文章があらわれてウンザリする
多分、頭でっかちな上に他人との交流も少なく、ネットで人の言葉尻をとらえるテクニックばかり上達させてしまった人間の成れの果てなのでしょう
自分と違う意見は間違いではないということに気づけない限り、永遠に孤独な牢獄からは出られないよ
もっとも、生まれ変わってやり直さなきゃ無理かもしれんが。
岡田さん、わかってるとは思うけど、次からはこういうタイプは完全無視したほうが良い。関わっても意味がないから。
芸術は,言葉も通じず文化も異なる他者とでも一瞬に共感し合える,人間の貴重な回路です。それを閉じてしまうような,事実でない根拠に基づく考えを,そのまま拡散させるわけにはいきません。あなたは間違いではないと思うのですか。
西洋がどうの,日本がどうの,美術教育のやり方がどうのと言い出した時点で,もう回路を閉じようとしているのです。閉じた覚えはないとは言わせません。
>視覚像をコピーする試みは明らかにルネサンス遠近法より前から存在しました。
これに関しては説得力ある論拠を示してください。
>廊下に立たなければ「ハ」の字には見えません。
あなたは当時の絵師は廊下に対して全く無知だったと言うのですか。絵師は自分の屋敷や師匠の屋敷の廊下、寺社の廊下に立った経験があると考えるのが自然です。
>はいソース。
太田孝彦著「文人画の変容」ミネルヴァ書房。
>視点がなければ何も見えません。固定しているかいないかの違いだけです。
視点が意識に登るかどうかの話です。あなたはいつも自分の視点を意識しているのですか。
>芸術は,言葉も通じず文化も異なる他者とでも一瞬に共感し合える,人間の貴重な回路です。
それを信じているなら次の質問に答えてください。フランクステラの「ブラックペインティング」、ジャスパージョーンズの「ターゲット」、デュシャンの「便器」。これらは私が若い頃、感動し、影響を受けた作品ですが、この感動と影響と同じものをお隣の雑貨屋さんや裏向かいの魚屋の老夫婦が受けるとは到底思えません。その感動と影響を得るには西洋美術の特殊でややこしい文脈を知ると言う無駄に高価な切符が必要なのです。
既に論拠はいくつも示しています。説得力があるか否かを判断するには一定の知能が必要であり,あなたにはそれが欠けているのです。あなたのような「説得される能力」のないゾンビはどの分野にもいるようです。
> あなたは当時の絵師は廊下に対して全く無知だったと言うのですか。
私は廊下について知っていますが,廊下の上方に視点を固定して遠くに延びる廊下を眺め (たと想定し) ないと,「ハ」の字には描けません。そして,そのような構図は絵巻に存在しません。
> 太田孝彦著「文人画の変容」ミネルヴァ書房。
所在頁。
> あなたはいつも自分の視点を意識しているのですか。
もちろん,画を描く時はいつも意識しています。
> フランクステラの「ブラックペインティング」、ジャスパージョーンズの「ターゲット」、デュシャンの「便器」。これらは私が若い頃、感動し、影響を受けた作品ですが、この感動と影響と同じものをお隣の雑貨屋さんや裏向かいの魚屋の老夫婦が受けるとは到底思えません。
つまり,それらの作品には普遍的価値がないということです。
私は,「ブラック・ペインティング」や「ターゲット」はあれでもまだヴィジョンだと思います。あんな柄のハンカチやネクタイを作ってプレゼントすれば,喜ばれる見込みはあるのではないでしょうか。
小便器はどうにもなりませんね。
アントニオ・ロペスはデュシャンから影響を受けたのか,便器の画を描いています:
<a href="http://s.libertaddigital.com/2011/06/23/lopez-18.jpg" rel="nofollow">http://s.libertaddigital.com/2011/06/23/lopez-18.jpg</a>
写真よりリアルで,笑うほかありません。これの複製をトイレの中に掛けるとお洒落だと思います。
それに該当する記憶はありません。そう仰るならもう一度それを列挙してください。…その折、他の読者にあなたの稚拙度を披露せぬことをくれぐれも祈ってます。
>そして,そのような構図は絵巻に存在しません。
あたりまえです。それは視点などない概念図だからです。思い描かれた絵です。そしてその時、我々が思い描けるのに、又は18世紀以降の絵師は思い描けるのに平安絵師は如何して「ハ」の字には描かなかったのかを問題にしているのです。構図は思い描ける図像により自ずと決まります。
>所在頁。
今、この本は手元にはありません。
>もちろん,画を描く時はいつも意識しています。
あなたは想像画やマンガ、落書きの類の絵は描いたことはないのですか。もし、あればその時も視点を意識するのですか。あるいは日常生活でも絶えず視点を意識されているのですか。
>つまり,それらの作品には普遍的価値がないということです。
ステラやジョーンズは経済価値はかなりありますが、それはポップアートやミニマリズムは認めないということですか。もしそうなら美術の動向としても認めないということですか。歴史から消えてなくなればいいと思っているのですか。
ところでカンディンスキーはどうですか。彼の抽象画宣言というのをご存じだと思いますが、彼が言うには、既成の絵画は民族性、宗教、言語、文化に束縛されているから、それを読み取るにはそれらの知識が必要であり、それを文化の違う世界の人が一様に享受するのは不可能である。だから民族性、宗教性などから脱した、絵の純粋な形態だけで世界の人が享受できる全世界共通の抽象絵画が必要であるという社会主義思想に根差した考えが抽象画宣言です。
この考えに私は与しませんが、しかし絵はカンディンスキーが言うように「民族性、宗教、言語、文化に束縛されている」というのはその通りだと思っています。従って「言葉も通じず文化も異なる他者とでも一瞬に共感し合える,人間の貴重な回路」というのは誤りで、「共感し合える」は勝手な思い込みだと思います。又、その可能性が大いにあるということです。
もし、カンディンスキー以降、ポップアートやミニマリズムに正当性を求めるのなら、フランス革命以降、社会主義にいたる、個人革命に呼応するからでしょう。これらは芸術を「言葉も通じず文化も異なる他者とでも一瞬に共感し合える,人間の貴重な回路」であることを本気で標榜し、そして失敗したのだと思います。
ゾンビはまたすぐ忘れるので無駄なことです。
> 構図は思い描ける図像により自ずと決まります。
私は廊下の「ハ」の字を思い描けますが,縦 50 cm 以下,横数 m の絵巻の画面に,「ハ」の字を描く構図は使えそうにありません。他の人も同様でしょう。つまり,絵巻に廊下の「ハ」の字が現れないことは,平安絵師の世界認識がどのようであったかという推論に対して,発言力がないのです。
> 今、この本は手元にはありません。
当方で確認済みです。あなたの言うような記述は存在しません。
> もし、あればその時も視点を意識するのですか。あるいは日常生活でも絶えず視点を意識されているのですか。
「何ものかに見える」画を描こうとするかぎり,視点を意識せざるを得ません (うまく描けるかどうかは別です)
画を描くことは日常ではありません。「あるいは」でつなぐのは無意味です。
> 歴史から消えてなくなればいいと思っているのですか。
歴史的価値だけは残ると思いますが,数百年後も観る人を感動させられるとは思えません。
> 絵はカンディンスキーが言うように「民族性、宗教、言語、文化に束縛されている」というのはその通りだと思っています。
芸術作品の「内的必然性」の 3 要素のうち,「個性の要素」と,「時代の言語」と「民族の言語」から成る「様式の要素」とは,「純粋にして永遠なる芸術性の要素」に対して「ときには抑止する力でもある」と,『抽象芸術論』において述べています (西田秀穂 訳 1958: pp.87-89,美術出版社)。私は「純粋にして永遠なる芸術性の要素」をそれだけ抽出することは不可能だと思いますが,そのような要素が存在しないとは思いません。あなたはそんな要素は存在しないと考えるのでしょうから,単なるニヒリズムです。
この答えがあなたの全てを語っています。a氏がいらだつのはよく解ります。
>縦 50 cm 以下,横数 m の絵巻の画面に,「ハ」の字を描く構図は使えそうにありません。他の人も同様でしょう。
これはあなたの極個人的な趣向性です。あなたの趣向性が一般化できると思っていること自体が思い上がりというものです。確たる客観的データを示してください。
>あなたの言うような記述は存在しません
かつてこの本を引用した雑誌への投稿論文を2本書きました。投稿論文の原稿は手元にありますが、ページは記載されていません。その内調べておきます。
>画を描くことは日常ではありません。「あるいは」でつなぐのは無意味です。
日常では視点は意識されていない、…という理解でいいのですね。それでは壁紙のような装飾的な絵はどうですか。つまり視点は、特定の絵に関してのみ意識されるということですね。
>歴史的価値だけは残ると思いますが,数百年後も観る人を感動させられるとは思えません。
あなた自身はステラのブラックペインティングを見て感動しましたか。そして描かれた当時から現代に至って、多くの一般の人があの絵を見て感動すると思いますか。又、ブラックペインティングに「純粋にして永遠なる芸術性の要素」が含まれていると思いますか。私はそうした要素は存在しないとは断言しませんが、実感できないのは確かです。又、それを個々人が確認することも不可能です。それは民族性、宗教、言語、文化よりもっと狭い、特殊で人工的な西洋美術業界の文脈の理解があってこその感動だと今は思っています。
低能友達ですね。
> あなたの趣向性が一般化できると思っていること自体が思い上がりというものです。確たる客観的データを示してください。
芸術に客観的データなど要りません。あなたはそんな構図を使えますか? 源氏物語絵巻の画面は縦 20 cm 余りです。透視法を使えば遠方は当然小さくなります。廊下を含むような屋内の場面を描くのにメリットがありますか? 描けそうな構想がないなら,「ハ」の字が現れないという事実に証拠能力がないことを認めなければなりません。
ちなみに,風景を描いた「関屋」の場面では,近くのものが大きく,遠くのものが小さくなっています。
<a href="http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h19/06/obj02.html" rel="nofollow">http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h19/06/obj02.html</a>
> その内調べておきます。
それには及びません。もう嘘は明らかです。
> それでは壁紙のような装飾的な絵はどうですか。
壁紙のパタンは図案であり,図です。
> あなた自身はステラのブラックペインティングを見て感動しましたか。
しません。ステラ自身が画と画でないもの,芸術と非芸術との境界付近を狙ったというのですから,それが普遍的価値をもっていないからといって,芸術が人間の貴重な回路であることを否定するものでは全くありません。もっとまともな議論はできないのですか。
鑑賞する分には客観的データを活用する人は少ないと思います。しかし知っていて損にはならないでしょう。キュビズム以降、ポップ、ミニマル、コンセプチャルに至る動向はある意味必然で、それを理解するしないでは大きな差があります。
又、あなたは地域にある素材、形態によって絵の内容が悉く決まるとお考えのようですが、内容において素材が変化することもあるのです。むしろそちらの方が大きいかも知れません。日本には超横長の絵巻サイズだけではなく、縦長の水墨サイズや障壁、襖絵、浮世絵、扇面など色んなサイズ、形態が存在しました。もし「ハ」の字に見え、思い浮かべることが出来るなら、その内のどれかに描かれていても不思議ではない思います。
>「関屋」の場面では,近くのものが大きく,遠くのものが小さくなっています。
原本では解りにくいですが、若干大小の違いががあるようです。
>それには及びません。もう嘘は明らかです。
引用の著作は2010年に雑誌に掲載された私の文章の引用欄からのものだったのですが、著作を取り寄せて見ると確かにそうした記述はありません。当時の時点で引用先を間違えたようです。今調べていますが、嘘ではありません。これは名誉棄損ですよ。
>ステラ自身が画と画でないもの,芸術と非芸術との境界付近を狙ったというのですから…,
ステラが芸術と非芸術との境界付近を狙ったというのは初めて聞きました。何か原典でもあるのですか。
私は痛く感動しました。しかしその感動は西洋美術の文脈を知った上でのことであると今は結論付けています。確かに芸術はそういう側面があると思います。又、普遍的価値の存在には懐疑的です。
あなたが思うまともな議論とはがなり、名誉棄損することですか。
ただちょっと面白いかな,というだけの作品群ですね。
> もし「ハ」の字に見え、思い浮かべることが出来るなら、その内のどれかに描かれていても不思議ではない思います。
描かれてますよ。信貴山縁起絵巻の東大寺大仏殿の階段と供物台を見てください。
> これは名誉棄損ですよ。
出典が示せなければ捏造と見られても仕方がありません。今は非常に厳しくなっています。あなたには大八車の件で前科があります。
というか,こんな所でゴタゴタ言い合うより,もう出版されていることの方がはるかに重大だと私は思います。
> 何か原典でもあるのですか。
イギリスの哲学者ウォルハイム (「ミニマル・アート」の命名者) の批評だったようです。ステラの言葉ではないので,これは撤回します。
> 普遍的価値の存在には懐疑的です。
人間はそれぞれの言語や文化の中に閉じこもっているほかないということになりますね。
そうではなくて,カンディンスキーの言う「純粋にして永遠なる芸術性の要素」は,それだけ抽出するまでもなく,様々な言語や文化に育まれた具体的な芸術作品の中に見て取れると私は思います。