随分以前だが、知り合いの美術家M氏を街で見かけた時のことだ。 声をかけようとしたのだが、その時、体が反射的にその行為を停止した。M氏は物凄い形相だったのだ。
M氏は前方のどこか一点を凝視し、物凄い形相で私と4m程の間隔を開け、通り過ぎて行った。彼は周りの何も見ていないようだった。余程深刻で機嫌が悪いらしい。こんな時に彼に声をかければ大変だ。
そんなことがあった後、今度はM氏と画廊で会った。そして街で見かけた時の事を何気なく告げてみた。
あの時、あんまり深刻そうだったから声がかけられなかったと言うと、彼はそんなことはない、と否定した。
彼はその時のことはよく覚えているらしく、何処そこへ行った帰りにあの道を通ったのであり、あの時は決して機嫌は悪くはなく、むしろ楽しい気分だったと言った。そして私の見間違いだろうということで話しは終わったのだが、何か腑に落ちないものが残った。
考えれば、その時の可能性は三つである。一つは「物凄い形相」自体が私の見間違いだった。二つ目は「物凄い形相」は確かだが、それに反して彼の内心は楽しかった。三つ目は、「物凄い形相」の通り、本当は機嫌が悪かったが彼はそれをあえて否定したかった、あるいはその時の気分を彼は記憶違いをしていた。…の三つだろう。 そしてこの三つは可能性としてどれも同等である。…同等であると思うのだが、しかし見たものへの優位性がそこに在り、一つ目と二つ目の可能性を消去しがちなのは何故だろうか。
又、これとは逆の場合で言えば、これも随分以前だが、美術館へ学生の卒業作品の採点に行った時、同僚の講師から「そんな怖い顔をしてどうしたのですか。」と、声をかけられた。その時私は花粉症がひどく、くしゃみと鼻水の長時間続いた発作がやっと治まった直後だった。そして私自身、自分の形相は当然見られないのだが、その発作によって随分人相が悪く人には見えるのだろうと納得した。彼女の観察と感想を信じた訳だ。
そこには確かに視覚の優位性がある。それは視覚の共有感からの信頼だろう。つまり、私が目の前にいる彼女を在りのまま見ているように、彼女も又、同じように私を在りのままに見ているという共有感から来る信頼だ。
視覚はあくまで個人的なものであり、又、見間違いや幻覚、錯視があると解っていても、私が見ている世界は誰もが同じように見ていると無条件に信じている。その根拠は何もないし、証明することも出来ないのに何故信じているのだろうか。あるいは、何故信じるに至ったのだろうか。
奇異に聞こえるかも知れないが、恐らく、それは写真が原因しているのではないかと思う。
写真は物質であり、その表面は視覚がコピーされたものという共有がある。言い換えれば、ファインダーから見える風景=「(単眼)視覚」がシャッターを押すことにより物質化(コピー)される。プリントされた写真は先ほどファインダーを覗いた風景=視覚とほぼ一致している。そしてそのファインダーから見る風景=視覚は誰の視覚であっても共通であり、自分の視覚と比べ、それが視覚のコピーと認知すれば自分の視覚は個人を超え、共通のものとなる。
上の写真は母方の祖父、陶芸家小野清々(左端)が東京美術学校の彫刻科卒業の折、学友と共に写真館で撮った写真と思われる。
この写真を撮ったのはもちろん私ではない。写真館の技師が撮ったのであろうが、もし、私が生まれてもいないこの時代にタイムスリップして、この前に据えられた写真機のファインダーを覗けば、やはりこの写真と同じ風景が見えるという確信を抱かせる。それが写真であり、それにおいて今私が見ているこの世界は、たとえ100年前の人であろうと、地球の裏側の人であろうと私と同じように世界を見ているという確信に繋がる。世界は誰が見ようと同じように実在する。かくして私の見る世界=視覚は個を超え客観となり、それを担保するのが写真だということになる。
前述の美術家M氏の場合においても、もし、「物凄い形相」を連写写真かビデオカメラで撮り、後日画廊でM氏に提示すれば、彼の主張も変わったかも知れない。これが客観的証拠である。
しかし写真は視点を持つ。その視点とは、写真技師個人の視点であり、カメラマン、フォトグラファーなど個人の視点である。そしてその写真を見るにおいて、私や個々人の視点が喚起され、写真の視点と同化され、あるいは差異化され、世界を見るあらゆる個人の視点が意識される。これが主観であり、すなわち、写真とは主観と客観を同時に持つものといえるのではないか。…というより、主観と客観を喚起する主客分離装置だったのではないかということだ。
主客分離装置が19世紀以降の写真術を限定して言っているのではもちろんない。見据えているのは写真と同じ原理が見出された15世紀ルネッサンスのいわゆる手描きの写真である遠近法=透視法である。
遠近法こそが主観と客観を分離させたのではないかと思うのだ。
遠近法は15世紀、ダヴィンチが完成し、西洋においてそれ以降400年も君臨する。そして19世紀、後期印象派の人たちはその頸城から逃れるため、デフォルメという概念を導入する。
デフォルメの定義は保育社「百科大事典」によると、「変形。自然が目に見える通りに写されず、主観の強調、個性の発揮により、取捨選択、強調、変形される技法。」とある。そして主観の強調のため取捨選択、強調、変形される対象とは、目に見える通りに写された自然であり、それは取りも直さず透視法絵画そのものであり、現代に繋がる写真である。
つまり、透視法絵画〜写真には主に19世紀以降激しく対立することになる主観と客観があらかじめ内包されていたのだ。
件の美術家M氏に例えると、街ですれ違いざま、彼の写真を撮ったとする。そしてそのプリントされた写真が「目に見える通りに写された」ものであり客観だ。そしてそこから読み取れる「物凄い形相」が主観である。そしてデフォルメとは主観である「物凄い形相」と読み取れる要素を「目に見える通りに写された」客観から抽出し、それを強調し変形することである。つまりこの主観客観の対立は一つのものにあらかじめ含まれている要素であり、これを持って遠近法は主客分離装置という所以である。
ならば遠近法発生以前はどうであったのか。西洋古代、中世、それに少なくとも18世紀頃までの日本には遠近法〜写真は存在しなかった。故に私がある地点からある方向を見るという視覚の共有、あるいは、私が見ている視覚世界は、誰もが同じように視覚として見ているという共有感はずっと少なかっただろう。視覚の共有を担保する遠近法〜写真などなかったからだ。
それでは何が共有されていたのか。…それは概念だろう。
例えば縦20m、横10mというの長方形の土地があったとする。その寸法は計測により抽出できるし、四方の角が直角ならばそれは長方形で面積は200平米である。これらの説明によってその土地がどんな土地か人に伝わる。
そしてこれらは全て概念であり、視覚世界には存在しない。例えば三角形は点や線がこの世に存在しないように存在しない。しかし概念として我々の脳には存在し、それを持って現実世界を構築し共有する。
古代プラトンのイデア論、見える世界はイデアの影のようなものだ、という比喩はこうしたものではなかったか。
そして絵とはそうした概念の絵としての翻訳であり、これも概念だ。例えば、縦6尺3寸、横3尺1寸5分の長方形の京畳は、絵巻にある縦が傾いた平行四辺形によって翻訳される。そして畳のイメージ、あるいは上記の土地のイメージを思い描く時、人は長方形か、縦が傾いた平行四辺形を思い描くはずだ。奥行が消失点に向かう「ハ」の字には思い描かない。もし、そう思い描いたなら、絵に残っているはずだからである。
そして重要なことは、これらの絵には遠近法の要素が無かったことにおいて、主客分離、主観と客観の対立など無縁だったはずだ。
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コメント
コメント一覧 (7)
それは空中を移動する視点 (視座) からの視覚像です。
概念としての斜投影図と同じものとはいえません。
> 奥行が消失点に向かう「ハ」の字には思い描かない。
絵巻の切り貼りでなく最初から冊子見開として描かれた画は,場面の内部に視点を固定しますから,当然「ハ」の字が現れて来ます:
<a href="http://dl.ndl.go.jp/view/jpegOutput?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F1183081&contentNo=5&outputScale=2" rel="nofollow">http://dl.ndl.go.jp/view/jpegOutput?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F1183081&contentNo=5&outputScale=2</a>
(恋川春町『金々先生栄花夢』1775 年)
> もし、そう思い描いたなら、絵に残っているはずだからである。
それは成り立ちません。
(1) 思い描いた内容はすべて画に表されるという保証がない。
(2) 仮に思い描いた内容がすべて画に表されるとしても,残っている画は制作された画のなかのごく一部にすぎない。
絵師は空中を飛行でき、屋根を透視する能力があったのですか。それとも屋根を葺く前に、恐ろしく高い木に登ってスケッチしたのですか。それが無い限り、その絵は実質的に想像図であり、概念図です。絵師が飛行するより木に登ったとする方がまだましですから、絵師が木に登って絵を描いたとする証拠を見つけてください。それによって上空からの視点が証明されます。ただし、普通は屋根は床が張られる前に葺かれます。
>場面の内部に視点を固定しますから,当然「ハ」の字が現れて来ます。
リンク絵のは18世紀以降のものです。何度も言ってますが、それ以降の我々は「ハ」の字を概念化でき、廊下や道路の「ハ」の字を思い描くことができると言ってます。マキノの父です。本当にあなたは読解力と文脈に沿って考えるという能力がないですね。
>それは成り立ちません。
もう脱臼ですね。このブログの主旨は18世紀以降、我々が普通に思い描いたり、実際に描いたりできる廊下の「ハ」の字が、それ以前には何故描かれなかったのか、ということに対する推論であり、その推論が成り立つかどうかが問題なのです。それに沿って反論できないのなら、18世紀以前の視覚像のコピーがなされた確たる証拠をあなたのバカ力で見つけ出してください。そうしたら前提が崩れますから私の推論は一瞬で消え失せます。
想像図と概念図は違います。
想像図には視座が必要です。屋根が葺かれた後でも樹上から屋敷の中はよく見えたはずで,一度見ておけば済むことです。誰もが簡単に確認できるわけではないでしょうから,それほど正確でなくても構いません。
> 何度も言ってますが、それ以降の我々は「ハ」の字を概念化でき、廊下や道路の「ハ」の字を思い描くことができると言ってます。
恋川春町はどこかで透視法絵画を見たのでしょう。しかし彼は絵師としては二流であり,透視法を熱心に研究したとは思われません。透視法が容易に受け入れられたのは,世界の見え方が一瞬に変わったからではなく,前からそう見えていたからでしょう。
> 本当にあなたは読解力と文脈に沿って考えるという能力がないですね。
あなたの問の立て方が間違っていると言っているのです。
> このブログの主旨は18世紀以降、我々が普通に思い描いたり、実際に描いたりできる廊下の「ハ」の字が、それ以前には何故描かれなかったのか、ということに対する推論であり、その推論が成り立つかどうかが問題なのです。
そう認識されなかったからだとする推論には根拠がありません。
> それに沿って反論できないのなら
誤った前提に沿う意味はありません。
> そうしたら前提が崩れますから私の推論は一瞬で消え失せます。
あなたの前提は,
(1) 思い描いた内容はすべて画に表される。
(2) 思い描いた内容が表された画のうちのどれかは,必ず現在残っている。
ということです。到底受け入れられません。
違うと言うのなら想像図と概念図をそれぞれ定義してください。
あなたは絵巻の制作に、「絵師が(雲より高い)木に登って屋敷をスケッチした」と本気で考えておられるようです。そんな事例、今まで聞いたことがありませんし一般的に見て突飛な意見です。
これを絵巻制作の方法として主張されるのなら、納得できる根拠なり証拠なりをまず提出してください。それが出来ないのなら、突飛な意見であることを認めた上、私はこう考えます、…と言うべきです。それにしても「屋根が葺かれた後でも樹上から屋敷の中はよく見えたはず」というのは絵師は透視能力を持っていたということですか。あるいはあなたは透視能力があるということですか。もしそうであるなら、一般的に見てこの意見は突飛中の突飛であるとまず認識してください。
>彼は絵師としては二流であり,透視法を熱心に研究したとは思われません。透視法が容易に受け入れられたのは,世界の見え方が一瞬に変わったからではなく,前からそう見えていたからでしょう
このコメントは当ブログの反論にも提言にも何もなっていないことを認識してください。そもそも当ブログは日本の絵師は廊下を「ハ」の字に描かなかったのは何故か…から出発し、その理由は…そう見えなかったから、と、見えたが色んな事情で描かなかった、の二つです。私は絵描きの心情として前者に立ち、過去の文献や美術史、心理学、認知学などをあたり前者の根拠を収集しているのです。反論するならそのデータの解釈がおかしいとか、後者を支持する証拠や根拠を提出して初めて意義があるのです。好き嫌いの統計を取っているのではありません。あなたの好みはよく解りましたから、その根拠、証拠を出してください。
>あなたの問の立て方が間違っていると言っているのです。
そう思われるのなら、如何間違っているのか順序立て説明してください。それが議論というものです。それがなければ単なる輩のがなりです。
>そう認識されなかったからだとする推論には根拠がありません。
その根拠は200本近い当ブログ記事で提示しています。間違いだというのなら、それを具体的に指摘してください。あなたは単に間違っているとがなっているに過ぎないということを理解できませんか。
>…到底受け入れられません。
その理由を述べてください。あなたは「間違っている」と言うだけで、物事は「間違っている」ことになるとでも思っているのですか。その指摘には論拠ある説得が必要だと思ったことないのですか。それがあなたに対し他のコメントで指摘があった、稚拙であるということです。
あなたは同じだと思うんですね。言葉を知らない証拠です。
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全然違う画像が出て来ます。「想像図」「想像画」は,視座を仮定してそこから見た視覚像を想像し,想像された視覚像に対応する何かを描いた画です。「概念図」は (すべて) 所定の様式に従いつつ,考えを描き表した図です。視座や視点はありません。
「○○図」の「-図」と単独の「図」とでは意味が違います。例えば「『釈迦涅槃図』という図」はおかしくて,「『釈迦涅槃図』という画」が適格です。ちなみに「概念画」は日本語ではなく,中国語では日本語の「想像図」「想像画」とほぼ同じ意味になるようです。
> 「絵師が(雲より高い)木に登って屋敷をスケッチした」
そんな高い木は要りません。家の高さと同じくらいで十分であることは,源氏物語絵巻の復元模写の過程でわかっています。
> それにしても「屋根が葺かれた後でも樹上から屋敷の中はよく見えたはず」というのは絵師は透視能力を持っていたということですか。
建具を開け放てば中はまる見えです。それを基に,もし屋根がなかったらと想像して描けばよいわけです。
> このコメントは当ブログの反論にも提言にも何もなっていないことを認識してください。
つまり,世界の見え方が一瞬に変わることがあってもおかしくないと考えるわけですね?
> あなたの好みはよく解りましたから、その根拠、証拠を出してください。
廊下が「ハ」の字に見えなかったとする推論が,どんな重大な帰結をもたらすか考えてみてください。廊下の側面の壁や障子は全く見えず,廊下に立っている人は近くにいても遠くにいても同じ大きさに見えたということです。なかなか面白いかもしれませんが,すごい世界です。
> その理由を述べてください。
要するに,「(1)思い描いた内容はすべて画に表される。(2)思い描いた内容が表された画のうちのどれかは,必ず現在残っている」というあなたの前提は,反証されないかぎり受け入れられるべきであり,その前提に立って議論されるべきである,という主張ですね?
同じだといつ言いました?完璧に話がズレでいます。文脈が理解されていません。実際の視座(視点)とそれに対する想像図と概念図の共通項をいったのです。
「『想像図』『想像画』は,視座を仮定してそこから見た視覚像を想像し,想像された視覚像に対応する何かを描いた画です。」…というのが想像図のあなたの定義であり、
「『概念図』は (すべて) 所定の様式に従いつつ,考えを描き表した図です。視座や視点はありません。」…が概念図のあなたの定義でいいのですね。これには不備がありますが一先ずこれを良とします。
…であるならば、源氏物語絵巻などはあなたが言う想像図に入るか否かということを問うたのです。視覚像のコピーはないと認められたのですから、木に登ろうが登るまいが、絵巻は想像で描かれたと了承する訳ですね。木に登った場合は、絵師は視覚像を記憶し、それを思い描く訳ですから、あなたの言う想像画の部類に入ります。
「主客分離装置としての遠近法(2)」の図6は私の工房の大屋根から道路を描いたものですが、決して大屋根には上がっていません。これはあなたが定義する完璧な想像図です。
>そんな高い木は要りません。家の高さと同じくらいで十分であることは,源氏物語絵巻の復元模写の過程でわかっています。
源氏物語絵巻の復元模写班は、家と同じくらい高さの木に絵師が登り、絵巻が描かれたという結論でも出したのですか。それならあなたが言う、視座(視点)がもっと高い洛中洛外図などは如何なのかということになってしまいます。
あなたは視覚像のコピーはないと認められたのですから、木登りを頑張る必要などないのではありませんか。「視座を仮定してそこから見た視覚像を想像し,想像された視覚像に対応する何かを描いた画」…という定義の「想像画」で充分だと思います。
>つまり,世界の見え方が一瞬に変わることがあってもおかしくないと考えるわけですね?
見えたが事情により描かなかった、と、そう見えなかったから描かなかった、という二つの可能性があると何度も言っています。そして後者の立場に立ち推論を進めているとも言っています。それなのに単に「前からそう見えていたからでしょう」…ではまるで意味がないと気付かれませんか。私の推論のここがおかしいとか、推論に反する確たる具体的な証拠を出してこそ意味があると言っているのです。
又、一瞬とは言いませんが、世界の見え方が変わる可能性はあると思っています。
>なかなか面白いかもしれませんが,すごい世界です。
その可能性はあると思っています。そしてそれが如何いう重大な帰結をもたらすのか具体的に言ってください。心理学では遠くのものが近くにあるよう知覚するという恒常知覚はあるとされています。又、認知科学では人間の視覚は写真のように一瞬で全体を把握するのではなく、狭い範囲の視点を移動することにより全体が組み立てられるとされています。それと脳による補正です。
>その前提に立って議論されるべきである,という主張ですね?
全くその通りです。付け加えるなら、人類が思い描か無かった内容など100%存在しないということです。そして推論は現在残っている証拠を基にしない限り、如何とでも言えることになります。
屁理屈を言ってはいけません。X は Y と異なる,X は Z とも異なる,だから Y と Z には共通項がある,というのは壊れた論理です。
> 源氏物語絵巻などはあなたが言う想像図に入るか否かということを問うたのです。
言うまでもなく「想像図」「想像画」です。
> 「主客分離装置としての遠近法(2)」の図6は私の工房の大屋根から道路を描いたものですが、決して大屋根には上がっていません。これはあなたが定義する完璧な想像図です。
このような想像上の視点を持てるのは,あなたが現代人で,手塚治虫がマンガに普及させたこのような視点を知っているからであり,手塚治虫は映画のクレーン・ショットからこの視点を得たのです。もちろんそれだけではなく,あなたは映画自体も見ているはずです。
> 源氏物語絵巻の復元模写班は、家と同じくらい高さの木に絵師が登り、絵巻が描かれたという結論でも出したのですか。
木に登ったとは言っていませんが,家の縮小模型を使い,カメラをクレーンアップして視点の位置を確認しています。絵師は何らかの方法でその視点から見たことがあるという前提がないなら,不要な作業でしょう。
> それならあなたが言う、視座(視点)がもっと高い洛中洛外図などは如何なのかということになってしまいます。
「周囲を一望にできるような超高層建築物があちこちにあり,航空写真も簡単に手に入る現代と違い,この当時に俯瞰視点で京都全体を描くとなると,寺院の塔や丘などの高所を複数確保し,観察しなければなりません。
この町田本は幅広い範囲がかなり正確に描かれているようですが,それに十分なだけの観察場所があったかというと疑問です。おそらくはある程度の高い場所からの観察と平地での一般的な風景を組み合わせて描いたのではないかと思いますが,描いた絵師の並々ならぬ構成力が窺われます」
<a href="http://www.informe.co.jp/useful/culture/great/great14.html" rel="nofollow">http://www.informe.co.jp/useful/culture/great/great14.html</a>
> 「視座を仮定してそこから見た視覚像を想像し,想像された視覚像に対応する何かを描いた画」…という定義の「想像画」で充分だと思います。
何の手がかりもない視座を仮定することはできないと思います。それに,実際に見られるものなら見たい,できればスケッチもしたい,欲を言えばイーゼルを立てて描き込みたい,と願うのが画家ではないでしょうか。「決して大屋根には上がっていません」と威張るのが滑稽でなりません。
> 一瞬とは言いませんが、世界の見え方が変わる可能性はあると思っています。
> その可能性はあると思っています。
> 全くその通りです。付け加えるなら、人類が思い描か無かった内容など100%存在しないということです。
「反証されない仮説は暫定的に正しい」という原理は,反証可能な仮説,すなわち,同じ条件の下では或る現象が何度でも観察できるという仮説 (物理学や化学,より典型的には数学の仮説) に対してしかあてはまりません。この原理はひどく誤解されています。もともと反証不可能な仮説が真実の一面を衝いているか,それとも誤っているかは,良識によって判断されます。
前者: 精神分析,マルクス主義,釈尊の教え ← 賛同者・信奉者が多い
後者: 「天皇や吉永小百合はウンコをしない」
「平安絵師は廊下に立った時『ハ』の字に見えなかった」
「世界の見え方が比較的容易に,大きく変わることがある」
「人が思い描いた内容はすべて画に表わされる」
← 誰からも相手にされない
> そして推論は現在残っている証拠を基にしない限り、如何とでも言えることになります。
現在残っている証拠を説明できるからといって,正しいことにはなりません。