Kioku03

 以前「記憶というもの2」において、人におけるイメージの記憶は「ビデオ映像を再生するようにではなく、もっと空ろで印象的で抽象的です。」と書きました。そして抽象とは辞書によると「事物または表象からある要素・側面・性質をぬきだして把握すること。」とあります。…とも書きました。
 これを絵を描くという行為に関係づけると、E・H・ゴンブリッチは「芸術と幻影ー絵画的表現の心理学的研究」で以下のように書いています。

「中性的自然主義(ニュートラル・ナチュラリズム)などというものは存在しない。文筆家同様美術家は、現実(世界)の「模写」に乗り出す前に、まず語彙を必要とするのである。」P133

 ニュートラル・ナチュラリズムとは、画家、あるいは人は、ただ見る(観察)ことによって現実世界の様相の全てを把握する、又は、把握出来るとするもので、彼はそんなものは存在しないと言うのです。そうではなく、把握するには文筆家同様、語彙が必要だという訳です。
 彼はその語彙を「美術の言語」と呼び、「見える世界をイメージで記述するために、一段と開発された図式システムが必要だ…」p134 …とします。「美術の言語」は言語システムならぬ時代と共に変化する(開発される)「図式システム」に則っているということです。

 この「図式システム」を彼は役所などに提出する書式用紙(フォーマット)に例えています。記入する箇所は個別の情報であり、「(記入する)欠かせない重要な情報と思われる項目の無いもの(以外のもの)は情報用にはあまり役立たないことになるわけだ。p115…と言います。
 つまり「図式システム」の「美術の言語」とは現実世界をフォーマットに則して切り取り構成する、いわば現実をフォーマットに合すシステムだということです。そして現実世界の様相を捉えるのには、まずそうした「美術の言語」、フォーマットが必要だということです。

 ここで問題にしたいのは、以上のことが人における一般的なイメージの記憶にすっぽり重なるのではないかということです。

 画家が風景を写生するとします。ゴンブリッチによれば、この時、画家は複雑な現実の風景を「抽象化」「単純化」し、山なり海なりを明確に区別して描くのではなく、画家があらかじめ持っている「美術の言語」「フォーマット」が「おおよその漠然とした部類を表すものであって」…まず、現実世界をそれに当てはめ、そこから個別の視覚から得られる情報に則し、フォーマットを修正し、現実に近づけ、合わせるのだと言います。p116
 このことは辞書に書いてある抽象化~「事物または表象からある要素・側面・性質をぬきだして把握すること。」…とは真逆の進路を辿ることになります。

 「表象」とはブリタニカ百科事典では、 「 外界に刺激が存在せずに引起された事物,事象に対応する心的活動ないし意識内容のことで,以前の経験を想起することにより生じる記憶表象,想像の働きにより生じる想像表象などが区別される。 」  …とあります。
 又、デジタル大辞泉では、 「1 象徴。シンボル。また、象徴的に表すこと。『解放された精神を―する造形』
  2 哲学・心理学で、直観的に心に思い浮かべられる外的対象像をいう。知覚的、具象的であり、抽象的な事象を表す概念や理念とは異なる。心像。 」

 ブリタニカ、デジタル大辞泉の2において、「表象」とはおおよそ記憶にある事物のイメージと言っていいかと思います。そして「抽象」の「事物または”表象”からある要素・側面・性質をぬきだして把握すること。」という部分においてゴンブリッチの意見と食い違うことになります。

 つまり、件の画家が絵を描くため、まず風景を眺めます。そしてパレットに目をやり、カンバスに目をやります。あるいはカンバスが先でパレットが後かも知れませんが、いずれにしてもカンバスに描こうとするのは彼が直前見た記憶の中の風景のイメージです。これが現実世界の表象です。
 これは視覚記憶(アイコニックメモリー)の保持時間は一秒以内であることは認知心理学のスパーリングの実験(1960)で明らかにされていることに因ります。そして 視覚記憶は長期記憶のアーカイブから参照され、一秒以内に符号化され短期記憶に移されるといいます。符号化とは概念化と言っていいかと思います。又、「長期記憶のアーカイブから参照され、符号化され…」という箇所において、ゴンブリッチの「フォーマットに現実を合わせる」に通じるかと思います。いずれにしても人間の視覚記憶は一秒以内であり、無いのも同じなのです。
 従ってカンバスに目をやり描こうとするイメージは直前見た風景の記憶であり、それが風景の表象であり、それは修正する前の大まかなフォーマットなのです。

Inu

 つまり、絵を描くか描かないかを別にすると、そして画家が取得したフォーマットの量を別にすれば、この経緯は万人に通じるということです。
 「記憶というもの2」でも書きましたが、たまたま道ですれ違った人や、たまたま行った銀行のカウンターで会話を交わした行員のイメージをその後、思い浮かべることは、何かとんでもないインパクトがあったり、始めから記憶しようと思わない限り、出来ないということは誰もが同意されることと思います。もし、そうしたインパクト等があったにしても、あくる日にはそのイメージは殆ど再生できません。

 しかし、その人が東洋人であったとか、白人であったとか、あるいは黒人であったとか、老婆であったとか、子供であったとか、という「おおよその漠然とした部類を表すもの」p116 は記憶に残っています。これがゴンブリッチのいうフォーマットであり最初の表象です。

 その後、その人に何度も会うことにより、フォーマットは現実に合うよう修正され、時によってはそれが長期記憶になります。両親や家内、娘、あるいは会ったことのないジョンレノンやハンフリーボガードはイメージ出来、空で似顔絵も描けるのに、たまたま道ですれ違った人やカウンターの行員は、その直後でもイメージ出来ないのはそういうことだと思います。

 そのことにおいて最初の表象、あるいは大部分の表象は大枠を設定するフォーマットであり、その表象から「ある要素・側面・性質をぬきだして把握すること」という「抽象」はあり得ないということです。
 この概念は「ただ見ることによって現実世界の様相の全てを把握できる」とするニュートラル・ナチュラリズムを想定した限りにおいての概念です。いわば表象は元々抽象的なのです。
 そうしたことで、私が抽象画が好きになれないのはそうした原因があるのかも知れません。抽象画には、いかにもその考えを正当化したいという作為性が見えます。

 又、フォーマットとしての色彩は形や質感より、ずっと弱いのではないかと思います。直視した時の生き生きとした色の感覚は目を離せばすぐ失せてしまいます。従って、記憶としての色彩は「赤」「青」又は「血の色」「コバルトの色」「サップグリーン」など、言語に変換しなければ留めることがなかなか出来ません。

 少し前、集会があり、駐車場に車を止めた時、目の前をメンバーの女性が乗った車が通り過ぎて行きました。100m程通り過ぎた後、私が呼び止め、狭い道だったのでバックで駐車場まで誘導しました。その間約10分。
 彼女の車はマツダの小型RV車で新車らしくピカピカでした。女性の美術家がどんな車を乗るのか興味あったからです。しかし、家に帰って、その状況を思い返しても、車種や大まかな形は覚えているものの、彼女の車の色が何だったか全く思い出せません。色について全くイメージ出来ないのです。10分間も見ていたにも関わらずです。そして無理やり赤の場合が70%で青が30%としました。
 一か月後、同じ集会でその車を再び見ると、コバルトブルーでした。ひょっとすると「美術の言語」、フォーマットに色は含まれないのかも知れません。

Photo

 ニュートラル・ナチュラリズムを信じる人はかなりいます。それは自分の視覚と認識が直結していると率直に信じるということであり、それはある意味当然なのかも知れませんが、しかしその観点に立てば、歴史、美術史を端的に説明できません。この表象、フォーマットは概念であるから、絶えず変化しているのです。
  そしてルネッサンスにおいてこのフォーマットに大きい変更がありました。視覚という要素が現実世界の表現形式に加えられたのです。それが18世紀西洋に論理面においても結実します。
 ゴンブリッチの言うように「中世美術では…3世紀以降、13世紀までのほぼ千年にわたり、美術と視覚世界のつながりは極端に希薄だった。」p218 のであり、それはかつての日本美術に通じています。そしてこの変更がニュートラル・ナチュラリズムを 発生させる訳ですが、その発生したニュートラル・ナチュラリズムはゴンブリッチの図式システムと大きく食い違い、そのことは非西洋である洗練され、2千年以上の伝統のある日本美術の研究が大きく彼に及ぼしたのではないかと推測されます。彼は以下のように書いています。

  「あらゆる点からみて『美術の言語』なる言い方は漠然とした比喩以上のものであり、さらに見える世界をイメージで記述するために、一段と開発された図式システムが必要だという結論になりそうだ。ところで、この結論は、18世紀に盛んに論じられた説と衝突しそうである。従来の考え方は、慣習的な記号である話し言葉と、『自然的』な記号を使って現実を『模倣』する絵画との間に区別を設ける。一見これはもっともらしい区分であるが、幾つかの難問にぶつかった。伝統的な区分説によって、自然的な記号が自然からたやすく模倣できるものと仮定すると、美術史は誠に厄介な判じ物になってしまう。未開人の美術や児童美術は『自然的記号』よりむしろ象徴的言語を使用するということが、19世紀以来、次第に明らかになって来た。この事実を説明するため、見ることにではなく知識に基づいた特殊な美術、つまり、『概念的なイメージ』で操作される美術があるはずだと仮定された。」p134

 未開人の美術としてくくられてはいますが、それが日本美術が大きく考慮されている、というのは、彼が引用する日本人マキノヨシオの逸話です。「『自然的記号』よりむしろ象徴的言語を使用するということが、19世紀以来、次第に明らかになって来た。」というのは西洋人の観点であり、西洋より1000年も長い日本の文化において、そんな観点に組みする必要など全くないと思うのですが。

Photo_2

 彼の言う18世紀に盛んに論じられた説として、慣習的な記号である話し言葉と、『自然的』な記号を使って現実を『模倣』する絵画との間に区別を設ける…とは解り難いですが、前者はソシュールの言う、観念を伴う言語記号として作用する記号であり、後者は観念を伴わない一般記号とに区分できるということなのでしょう。

 上図右はゴンブリッチが引用した、マキノヨシオの逸話にある図をナトールが彼の著書「新しい模倣」において木と左図を付け加え再引用したものです。

 ゴンブリッチによれば、20世紀初頭、マキノヨシオが中学生の頃、教科書にあった透視法で描かれた箱を父に見せると、父はこの箱は歪んでいる、と言ったということです。つまりマキノの父にすれば、箱はあくまで右図であり、左図では歪んだ箱だったのです。
 しかし9年後、「不思議なことがあるものだ。…今見るとこの図は全く正しいものに思えるのだよ。」とマキノの父が言ったという逸話です。

 ニュートラル・ナチュラリズムを信奉する人にすれば、左図のように見えるのが当然であり、右のように描く日本人は後ろの木が隠れてしまうではないか、…となります。又、18世紀まで日本に左図のように描いた絵が無かったことについて、それは様式の問題であり、日本人でも左図のように見えたに違いない。描かなかっただけだ、とか、あるいは、見えなかったとすればそれは未開人だからだ。…と単純に言い張るしかありません。

 しかしゴンブリッチに言わせれば、「ニュートラル・ナチュラリズムなどというものは存在しない。文筆家同様美術家は、現実(世界)の「模写」に乗り出す前に、まず語彙を必要とするのである。」P133 …のであり、左図は「さらに見える世界をイメージで記述するために、一段と開発された図式システムが必要だ」p134 というように、右図も左図も「美術の言語」フォーマット、図式システムであり、左図は…新しく立ち上がった画家の個人的な視覚経験を反映するものになるまで描き直された…「美術の言語」フォーマット、図式システムなのです。

 我々は左図、つまり私が廊下の「ハ」の字と呼んでいるものですが、現在では殆どの人がフォーマットとしてこれを持っていると思います。そして視覚と認識は直結しないと考えています。視覚で捉えた現実世界を認識するためには、視覚とは全く別物の、言語やゴンブリッチの言う図式システムが必要なのです。いわゆるこれは概念、観念です。ゴンブリッチは言います。

「美術はみな、見える世界そのものに起源があるのではなく、人間の精神、世界に対する反応に始まるのであり、再現されたものがその様式によって認識されるということこそ、まさに美術が『概念的』なるものにほかならぬ。」p134  
   私も全くそう思います。この本「芸術と幻影」を知ったのは昨年ですが、正に我が意を得たり、という感があります。

 廊下の「ハ」の字は透視法により抽出されたものであり、この改変は非常に大きなものです。つまり上の右図から左図への改変です。マキノヨシオを信じるならば、父という完成された精神の持ち主で、その新しい概念を取得するまで9年を要したということです。当の西洋においても、それを新たに抽出し、洗練し、概念として成立させ、いき渡らせるまで、ゴンブリッチが言うには15世紀から18世紀に渡る300年要したことになります。

 それには画家たちの弛まぬ努力があったと彼は言います。それは当時出版された透視図で描かれた膨大なデッサン集の類です。p226〜p244
 これらを当時の画家たちはボロボロになるまで模写し図式を取得したのだと言います。

「 この当時、誰もが皆、およそ芸術とは『概念的』なものだと信じて疑わなかった。つまり、たとえ人体デッサンの教室で腕を磨けるようになろうと、まず第一に学ぶべきは『人というもの』の描き方だったのである。アカデミーでは版画の模写から古典古代の名作のデッサンまで、注意深く段階づけられた課程が設けられていて、何年もかけてこれらの課程を習得したのち、はじめて美術家は現実のモチーフと取り組むことを許された。中世から18世紀に至る間の美術が連綿として連続することができた因は、実にこのような伝統習得についての強要があるからであって、その間ずっと図柄はなんら挑戦を受けることなく支配しつづけたのである。」p226

 彼の言う「伝統習得」とは日本でいう粉本や画帳の「写し」と共通します。このことはやはり、ただ現実世界を見るだけではダメなのです。「ニュートラル・ナチュラリズムなどというものは存在しない。」のです。幻想です。認識し、表現するにはフォーマットの取得が必要なのです。これが私の実感でもあり、そしてそれこそが概念、観念であり、記憶というものの本体です。

 ただ、恨むべくは、ゴンブリッチが言う「伝統習得」は透視法の改変もなく、安定し、極めて洗練され、それに西洋より一貫した長い歴史を持ち、残された資料も西洋を凌ぎ、あるいは、その進化形である世界に類を見ないマンガの文化を持つ日本が何としても上だということです。
 それが15世紀に始まり18世紀に結実する歴史の浅い、あるいは西洋人であるゴンブリッチもが否定する、西洋発のニュートラル・ナチュラリズムが輸入された途端、盲目的にそれを信奉し、過去の文化さえもあっさり塗り替えてしまう日本人が何と多いかということです。

.

.

.

<関連記事>
記憶というもの
http://manji.blog.eonet.jp/art/2011/05/post-a50a.html
記憶というもの(2)
http://manji.blog.eonet.jp/art/2011/05/post-7076.html

.

.

.

美術ブログランキングに
参加しています
他メンバーのブログはここからどうぞ
どうぞよろしく…

にほんブログ村 美術ブログ 美術鑑賞・評論へ
にほんブログ村