、1 この表情は何処から来たのか?

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「少女」佐竹龍蔵展「あのひと」2016年10月18日〜30日 アートスペース虹より

 画廊にならべられた佐竹龍蔵が描く少女像は、どれも言い得ぬ表情をたたえている。それはまるでドラマの一場面のように、我々はそれぞれの少女たちが浮かべる一瞬の可憐で微妙な、そこはかとない表情を読み取ることが出来る。

 しかし「この表情は何処から来たのか?」

 …という質問に対して、常識的には、描く対象、つまり現実の少女(=モデル)が浮かべる一瞬の表情を佐竹が捉え、それを抽出し、あるいは強調、取捨選択し、絵にするということであり、従って、この表情は佐竹の感受性が捉えた現実の少女から来たものであるということになる。
 しかし、この常識的解答は西洋近代美術(特に印象派以降)に傾倒した大いなる思い込みであり、それを反省し、少なくとも日本においては、…もうそろそろ、かつての方法論に立ち返る、あるいはかつての方法論を再考すべきだというのが私の主張だ。
 つまり、上記の方法論が現実世界に対し、個人の視覚を介してそれを再現するという関係性に依拠するならば、そうしたことなどかつての日本の絵画制作にはどこにも無かったし、又、現代に生きる佐竹龍蔵の方法論にもそれは適合しないということだ。そうしたことで、この絵は描かれていないのだ。

 佐竹は自身のコメントで、これらの少女像にはモデルはいないと書いている。そしてこれらの少女像は彼の記憶から抽出したものだとも言っている。つまり、これらの少女像の直接の対象は、現実の少女、あるいは目の前にある現実(=モデル)ではなく、少なくとも彼の記憶、記憶のアーカイブからの抽出だということになる。
 そしてこれは、かつての粉本(…というアーカイブ)を基盤にした日本の絵画制作原理に多くの部分で重なるのだ。

 …ならば、彼の記憶のアーカイブと現実世界の関係は如何なるものか。

 もし、ここにこの少女像の表情が、現実の少女の表情に由来していると信じて疑わない人がいるとすれば、その人はこう言うだろう。
 佐竹は生まれてこのかた、何百人もの少女に出会ったに違いない。そして何千通りの少女たちの表情を見たに違いない。そしてそれをスケッチしたり、記憶したりして、その視覚像、つまり少女たちの表情を記憶し、記録し、それが佐竹の記憶のアーカイブを形成し、そこから作品として抽出される像は、現実の対象を見て描かずとも、やはり彼の視覚像、言い換えれば現実の少女の表情が由来しているのではないか…というものである。

 しかし、この主張は不可である。このブログで何度も言及しているように、人間はその機能として視覚は記憶できないのだ。認知心理学の知見にあるように、視覚は一秒間も保持できないのだ。視覚データーは次の瞬間、概念に変換され記憶される。
 又、百歩譲って、個人の視覚がアーカイブとして保存されるとしても、そのアウトプットとしての作品、例えば上の少女像が、佐竹個人の視覚の抽出であるのにも拘わらず、そしてそれは概念が付与される前の生の像であるにも関わらず、何故、記述された言葉のように、我々が一つの意味性として、つまりその表情を共有し、読めるのかという説明が付かない。あるいは説明するのが難しい。
 つまり、この記憶のアーカイブから抽出された図像は概念の代表である言葉と共通の在り方、作用を持つのではないかということである。言葉はある文化圏で共有され、他文化圏において翻訳が可能である。この図像、エルンスト・ゴンブリッチに言わせれば図式(スキーマ)はそうした概念そのものなのだ。


2 「モノと言葉」という二元論

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 上の少女像に言葉で翻訳を試みると、「その時、彼女は予期せぬものを図らずも見てしまった。」…といったところだろうか。しかし「彼女はディナーを満喫し、後は寝床を探した。」…では決してない、これが誤訳なのは確かだろう。つまり、この図像は言葉同様、それ自体に、ある範囲内の繊細な意味性を内包しているのである。音声を伴わない図像だけの意味性だ。

 一方、現実の世界(モノの世界)は言葉の意味性において隅々までカバーされている。例えば空、山、緑、道路、などなど。そうしたシンプルな対応から、言葉の組み合わせである、過去から集積された詩や歌、俳句などの、単なる語の組み合わせ以上の複雑で深遠な意味性が現実世界に付与される。そして音声を伴わない図像もその付与に加わる。

 言葉は発話や文字、あるいは文学を読むことによって、つまり学習することによって集積される。その集積が無ければ、例えば、青空をいくら眺めていようが、「青空」という認識やそれに伴う感慨は生じない。…それと同様に、図像は描かれた形や絵、あるいは過去の作品を見ることによって集積される。あるいは粉本として集積される。青空の青い色は、青い絵具で描かれたことによって認識されたのではないか。(「空はどうして青いのか?」参照
 つまり、それら言葉や図像によってカバーされ、現れた現実世界こそが我々の現実世界の知覚認識なのだろう。
 そしてこのことは、知覚認識される現実世界の様相は、集積された言葉や図像のアーカイブそのものであり、それは、その集積の限りのある範囲内で為され、そこに無いものは知覚認識されない、つまり、現実世界の様相として現れない…。
 しかしながら、そのアーカイブは絶えず無限に変動するのである。あるものは破棄され、又、新しく追加される。…というように。…従って、その都度、現実世界の様相はダイナミックに変化する…ここに、諸行無常という言葉が思い起こされる。

 例えば、ルネッサンスにおいて光学機器により抽出された図像である遠近法、つまり廊下の「ハ」の字…という図像は、我々の現実世界の知覚認識、…つまり現実世界の様相にかつてない大きな変化をもたらした。
 …かつての日本の絵に、あるいは文学に、遠近法、…廊下の「ハ」の字が一切登場しないのは、そうした図像が記憶のアーカイブに無かったからだろう。つまり現実世界の様相として現れなかった、知覚認識されなかったのだろう。
 そして佐竹が描く少女の表情は、記憶に蓄積された過去からの図像のアーカイブの抽出、組み合わせであり、そして意味を内包するその表情は、他ならぬ現実の少女の表情に付与される。あるいは現実の少女の表情に読まれる。(「点目の記号論」参照

 しかしながら、西洋からもたらされたのは、これとは全く逆の方向を向いている。

 日曜画家が公園などでカンバスを立て、今から描こうとする風景に向かい、両腕を伸ばし、指で四角いフレームを作り、片目ごしでその風景を見る。…これは何を意味しているのか。
 これは、今から彼が描こうとするのは、指のフレームによって切り取られたそこに在る風景であり、つまりそれは彼個人の単眼視覚像であり、その抽出の試みだ。これはデスケルの代用であり、デスケルはルネッサンスの光学機器、透写装置に由来する。つまりこれが遠近法の元々の原理なのだ。

 このシチュエーションにおいては、形として抽出される世界の様相は、彼一人で完結してしまっているということだ。つまり、彼の目にした風景を、あるいは彼の網膜に映った風景を、出来るだけ正確に写し取ろうとするものであり、そこにはそれ以外の要素は何も含まれない。…それ以外の要素とは、彼個人を超える、彼個人では完結できない、概念であり、意味性であり、記憶であり、物語であり、神話であり、言葉だ。
 このシチュエーションの源は15世紀ルネッサンスの遠近法にあり、遠近法は同じ機能をを持った誰の網膜にも等しく映るであろう世界の存在、つまり不変に実在する現実世界を想定してしまった。それがリアリズムである。

 正に、この時点において、彼個人が見る実在の世界、つまり「モノ」の世界と、その想定ゆえに浮かび上がる、彼に常に付随する、彼個人を超える意味の世界、つまり「言葉」の世界との分離、分割、分類が生じる。これが「モノと言葉」という二元論である。そしてそれは主客二元論とも言えるかも知れない。

 その後、登場した後期印象派、あるいはそれ以降、西洋の画家たちは、差し迫った状況の打開策として、彼らは見えた世界をそのまま描くことを拒否し、それを変形する。これがデフォルメだ。
 …この場合、何を変形するのかは明白で、変形の対象は、正に見えたままの世界、つまり網膜に映った実在の世界だ。…となれば、これはおかしな話、ということになる。言葉を探せば、「自家撞着に陥る」ということになるだろう。(「印象派が犯した大きな過ち」参照
 つまり、網膜像を変形しなければならないという彼らの思いや指針は、実在世界を映した網膜像に既に内蔵され、それを読んだ結果だということになり、それは人間の意識や生死に関係なく実在するという実在世界に、既に意味が内蔵されているということになる。そうでなければ、何を指針に、如何いう根拠で実在世界を変形するというのか。
 翻って、網膜に映ったこの世界、あるいは知覚認識するこの世界において、同時に、主観、客観(あるい「モノと言葉」)という二つの相反する要素を分類することなど、そもそもおかしな話だろう。こうしたことは全て、近代西洋人の言い繕い、あるいは幻想、一種の信仰であり、それを何故、我々が従順に、常識として踏襲しなければならないのか、…ということである。

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