衝立の裏面を創る。11月14日完成。サインと落款を押印する。
正にその瞬間、ハガキが郵便受けに入った。差出人は郵貯銀行。宛名は信じられないことに「妙子」だった。「長期間ご利用がない通常貯金のご確認のお願い」と記載されていた。そして通帳番号下4けたと少額だが現在高が記載されていた。
こんな通知は妙子が逝って以来、14年間、全くなかった。シンクロが起こったのだ。
…シンクロニシティ。C・ユングが主張した関係性が強い事象が同時に偶然起こる現象のことだ。
そしてこの場合、一つの物語が脳裏に浮かぶ。14年ぶりに完成させた息子への母からの贈りものだと…。
シンクロはライブ俳画においてよく起こる。特に2016年9月に行なった俳人早瀬氏のライブに顕著だった。
俳画を作る(2)
http://o-takeshi.blog.jp/archives/361085.html
早瀬氏が虚子から展開させた句と、そこから私が引用した若冲の糸瓜群虫図から、子規の命日である糸瓜忌が重なったのだ。正に丁度その日が糸瓜忌だったことが観客の指摘で判明した。
…シンクロニシティ。C・ユングが主張した関係性が強い事象が同時に偶然起こる現象のことだ。
そしてこの場合、一つの物語が脳裏に浮かぶ。14年ぶりに完成させた息子への母からの贈りものだと…。
シンクロはライブ俳画においてよく起こる。特に2016年9月に行なった俳人早瀬氏のライブに顕著だった。
俳画を作る(2)
http://o-takeshi.blog.jp/archives/361085.html
早瀬氏が虚子から展開させた句と、そこから私が引用した若冲の糸瓜群虫図から、子規の命日である糸瓜忌が重なったのだ。正に丁度その日が糸瓜忌だったことが観客の指摘で判明した。
2017年11月19日、つまり明後日の午後1時から「俳句×美術IN篠山2017」展の催しとして猪名川町静思館で4度目のライブ俳画を行う予定だ。
今度は俳人二人と絵描き二人の計四人でテーブルを囲み、数枚の俳画を仕上げようと考えている。
絵は言葉とは違うが、言葉同様概念であり、絵と俳句が交感、関係付けられることにより、その意味することは個人、つまり四人を超越し、あるいは現在を超越し、過去、未来の何かとシンクロするかも知れない。
下書きを写す。
バックに金箔をのせる。
図を墨でおこす。
色をのせる。
動線を引く。
.
.
.
下書きを写す。
バックに金箔をのせる。
図を墨でおこす。
色をのせる。
動線を引く。
.
.
.
にほんブログ村
コメント
コメント一覧 (66)
http://www.dailymotion.com/video/x2ltax2 (開始後10分54秒)
信貴山縁起「縁起加持の巻」で剣の護法の背後に動線(流線)が描かれています。共に平安時代でその頃もちろん写真機はありません。
「疾風の妙」は「剣の護法」をイメージしています。
ホノルル美術館にあるもののようですが,いつ描かれた線か不明ですし,技法が継承された形跡も認められません。猿の顔の朱も新しいと思います。
> 信貴山縁起「縁起加持の巻」で剣の護法の背後に動線(流線)が描かれています。
背後にそのような線はありません。護法童子が乗っている長く伸びた雲は,おそらく鉤状雲を描いたものでしょう。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/73/Cirrus_clouds2.jpg
そして鳥獣戯画乙巻第十六紙に石を投げ合う男たちのシーンがありますが、描かれた石に動線が描かれています。これは高山寺の印が押されていますからオリジナルとされています。
護法童子のあなたが言う鉤状雲の背後の大部分は、定規状のもので引かれた直線の集合です。ここには雲の形状は何もありません。この直線は雲の動きの方向、スピードを現した動線と言えます。
・鳥獣戯画の長尾家旧蔵・現ホノルル美術館蔵模本 (ホノルル本) は,伝土佐光信筆,16 世紀前半の作。
・ホノルル本をさらに模写した京都国立博物館蔵本 (京博本) は,狩野探幽筆,17 世紀の作。
・ホノルル本の猿の顔に施された朱は,他本に全く見えない表現で,塗り方も粗雑。後世の描き込みと見てまず間違いない。
・ホノルル本の猿の動線は京博本にも見られる。したがって,この表現はホノルル本の時点で存在したと考えられる。ただし,ホノルル本の着地した兎の動線は京博本では省略されている。
http://syuweb.kyohaku.go.jp/ibmuseum_public/media_files/xlarge/138013.jpg (京博本部分。ディレクトリによればこの画像がアップロードされたのは一昨日 11/24 の午前 4 時台)
手塚が現代の漫画に通じる表現を鳥獣戯画に発見して喜んだのは理解できますが,手塚自身が写真の長時間露光に由来する米国コミックスの表現 (動線,流線は motion lines または speed lines と呼ばれ,1950 年代から広まった模様) を日本に持ち込んだパイオニアでした。
> 鳥獣戯画乙巻第十六紙に石を投げ合う男たちのシーンがありますが、描かれた石に動線が描かれています。
丁巻ですね。確かに描かれています。ただ,このような表現が現代の漫画に受け継がれたわけではありません。
> この直線は雲の動きの方向、スピードを現した動線と言えます。
疾走感を演出していることは疑いありませんが,やはり雲です。護法童子が目的地に到着すると,雲の尻尾は止まってたなびきます。現代人の感覚で解釈するより,平安絵師の想像力を味わうほうがよいのではないかと,私は思います。
http://www.mizu.gr.jp/kikanshi/no56/05.html
ホノルル本(16世紀)の猿の動線は京博本(17世紀)にも見られる。したがって,この表現はホノルル本の時点で存在したと考えられる…とのことですから、サルの動線はいずれも写真機発生の前となり、動線の起源は写真ではないことになります。手塚の見解で重要なのは、マンガの動線が遥か昔の絵巻で使われていたという事実であり、これをもって動線の起源としていることです。
明治以降の日本のマンガの系譜は西洋のカリカチュアから新しくスタートしており、小山正太郎や坂本繁二郎、山本鼎など西洋帰りのエリート達が先駆であり、これが西洋美術教育を通過しなかった手塚が終生持ったコンプレックスとされています。つまり絵画同様、マンガも明治期に過去からの絵の表現原理として、その継承が断たれたと言えます。江戸期までの日本の絵において、動線の表現は、恐らく、一人称視点の廊下の「ハ」の字を見つけ出すよりも容易いと思います。
手塚は晩年に、丁度NHKのビデオの頃だと思いますが、マンガ記号説を唱えます。マンガの図像は見たものを描いたのではなく、それは一種の記号だというものです。そして目には見えない動線や発声の線が描かれた鳥獣戯画において、これをマンガの原点としたのです。
雲の形状においては見解の相違です。目的地に到着した童子が乗った雲の尻尾と疾走を表す直線は、「疾風の妙」のたなびく髪の毛と疾走を表す直線が違うように別物です。たなびく髪の毛だけだとしたら、「妙」が疾走しているのか、静止した「妙」の髪の毛が風でたなびいているのか解りません。そうした意味合いをこの直線が持っているのであり、これが「動線」所以です。
> マンガの図像は見たものを描いたのではなく、それは一種の記号だというものです。
この両者の間には隔たりがあると思います。マンガは近代になって大量に流布し,その表現が約束事として記号化しています。背景には写真の普及や出版事業の拡大がありました。他方,絵巻の場合は見る人に意図が伝わるかどうかわからない,一つの賭けだったのではないでしょうか。動きの表現としては動線 (流線) よりブレ線 (motion blur) の方が古く,洞窟絵画に既に見られます。動体視力の優れた人は写真機なしでこのような描き方をしました。
https://cityworksinc.files.wordpress.com/2014/03/08rhinosdesc-1.jpg (ショーヴェ洞窟)
ブレ線が抽象化すると動線になるわけで,最古の動線も洞窟絵画に見られるとされています。
http://spi1uk.itvnet.lv/upload/articles/49/492883/images/NLO-Cilveces-vesture-2.jpg (ペシュメルル洞窟)
浮上・飛行する UFO だというのですが,私は疑わしいと思います。デューラーは明確な動線を使っています。
https://www.wga.hu/frames-e.html?/html/d/durer/2/12/2apocaly/04apocal.html
背景の水平線が騎手らの疾走感を表しています。見えないものの概念的な視覚化は,多くの作品で散発的に行われています。
https://www.wga.hu/frames-e.html?/html/a/angelico/04/1annunc4.html (フラ・アンジェリコ)
https://www.wga.hu/frames-e.html?/html/b/botticel/5allegor/31birth.html (ボッティチェッリ)
これらは特にマンガの原点とはいえません。
> 江戸期までの日本の絵において、動線の表現は、恐らく、一人称視点の廊下の「ハ」の字を見つけ出すよりも容易いと思います。
これが意外に難しい。鳥獣戯画はやはり例外的であり,探幽の模写も動線の意味がわかって描いているのか,やや心許ない感じです。
> たなびく髪の毛だけだとしたら、「妙」が疾走しているのか、静止した「妙」の髪の毛が風でたなびいているのか解りません。
「妙」 の体の方に何か手掛かりが必要でしょう。剣は重いので風ではたなびきません。護法童子が身に着けている剣は,童子が疾走すれば慣性法則によって水平に近くなり,童子が目的地に着いて止まると重力によってぶら下がります。雲はあくまで演出,補助であって,動きの表現の主力は童子の視覚像です。私は,信貴山縁起の絵師はモデルを使って観察したと (真剣をぶら下げたかどうかは別として) 確信しています。
「見たものを描いたものではない。記号。」というのは言語記号を考えれば解ります。言語記号は現実世界を表現します。例えば「空」は目に映る「空」を表現しますが、目に映る視覚像とは別ものであり、記号でありそれは概念です。そして言語記号がそうであるように、時代により、持つ意味が往々にして変化します。あるいはズレ込みます。
同様に記号であり概念である絵の図像は、時代により持つ意味が変わりズレ込みます。従って「現代人の目からはあまり成功していません。」「絵巻の場合は見る人に意図が伝わるかどうかわからない,一つの賭けだったのではないでしょうか。」は全く当たらないと思います。それは言語記号がそうであるように、意味することがずれ込むからです。これはパノフスキーも指摘していますが、現代人の知覚認識が全てではないということです。
そもそも,信貴山縁起の絵師は賭けに積極的だったわけではなく,長い直線が雲だとわかるように,尻尾を揺らして描いています。転がる法輪の描き方に苦労したのもよく伝わります。現代の漫画家ならもっと器用に表現するでしょう。この絵巻の魅力はそんな記号的表現にはなく,デッサン力の高さにあります。「妙」 は記号なので,目は正面像とほぼ同じ,口は正面像の半分で,エジプト風です。一方,剣の護法の横顔は,モデルの視覚像を正確に写し取っています。
http://livedoor.blogimg.jp/masatukamoto/imgs/2/b/2b1afab1.jpg
> 同様に記号であり概念である絵の図像は、時代により持つ意味が変わりズレ込みます。
まず日本語がわからなければ,「空 (sora)」 という音の意味はわかりません。日本語の中で意味が変化しても,もともと日本語を知らない人には無関係です。漫符は言語と同様に記号と考えられるもので,「マンガ語話者」 すなわちマンガを読み慣れた人にしか意味がわかりません。
巨大掲示板 「2 ちゃんねる」 の中では独特の言語記号が創出され,「2 ちゃんねらー」 の間では面白がられていたようですが,掲示板を見慣れない人には意味がわからず,大半は外への拡がりを欠きました。絵巻に見られる動線のような記号的表現は,結局そのレベルでした。手塚治虫がいくら頑張っても,残念でしたとしか言えません。
20 世紀に入って写真が普及してきた 1912 年に,2 つの重要な絵画が描かれました。ジャコモ・バッラの 「繫がれた犬の運動」 と,マルセル・デュシャンの 「階段を下りる裸婦 2」 です。
https://www.albrightknox.org/artworks/196416-dinamismo-di-un-cane-al-guinzaglio-dynamism-dog-leash
http://www.philamuseum.org/collections/permanent/51449.html
これらが近代マンガの記号的表現の原点ではないかと,私は考えます。
http://www.psych.or.jp/meeting/proceedings/75/contens/poster/pdf/1EV101.pdf
この実験が有意義なものだとすれば,漫符でさえ全くの記号ではなく,視覚像と関わりをもっていることになります。われわれは写真に写るような被写体ブレなど見えないと思い込んでいますが,実は無意識のうちに知覚しているのです。その証拠に,CG 映像にブレ線を付けないとカクカクと感じるのに対し,ブレ線を施すと自然に見えます。これはチンパンジーも同様でしょう。
光学機器を使おうと使うまいと,視覚像から完全に自由な 「画」 は存在しないのだと,私は思います。
あなたが視覚像を写したと主張するのは勝手ですが、それは幻想だと思います。
おサルの実験は興味深いですがデータ不足かと思います。それにおサルに概念的介入があるのか無いのかによって、その結論は大きく変わります。
視覚像から完全に自由な 「画」 は存在しないのは確かだと思います。我々は感覚器官からの情報に応じて知覚認識、つまり概念化するからです。ここには相互作用があると考えます。視覚像という言葉を用いるなら、知覚認識される人類共通の普遍的な視覚像など無いということです。
描き方が全然違うのが見てわかりませんか?
> 手塚が言うところの記号です。
手塚はマンガにおける見えないものの視覚的表現のみを 「記号」 と呼んでいます。彼の考えに反して,近代マンガの 「記号」 は絵巻に由来しません。
> あなたが視覚像を写したと主張するのは勝手ですが、それは幻想だと思います。
そうかもしれませんが,人間の美意識を先導してきたのは 「幻想」 です。それにあてはまらない 「裏の美術史」 があったこと,むしろ同時代人にとっては 「裏」 の方が身近であったことを,ゴンブリッチは指摘しました。文化史論的には重要な発見だと思います。
> 視覚像から完全に自由な 「画」 は存在しないのは確かだと思います。
つまり,「画」 は記号ではないということです。例えば言語記号の場合,記号表現 (signifiant) は指示対象 (référent) の様相から完全に自由です。
> 視覚像という言葉を用いるなら、知覚認識される人類共通の普遍的な視覚像など無いということです。
「無い」 という前提では,王様が裸であることを確信できません。
マンガを読み慣れず,流線の意味がわからない人は,老年層にはときどきいます。一方で,チンパンジーが流線の意味を理解している可能性がある。これはどうしたことでしょう。私は,チンパンジーには流線が 「見えている」 のではないかと思います。洞窟画家には被写体ブレが見えていました。チンパンジーの動体視力は人間よりはるかに優れているでしょう。
20代後半の「赤いRAFU」以来、最新の「疾走」まで全て記憶だけで描きました。それにより絵は記憶で描かれるものと確信しています。又、少なくとも、これを持ってして、記憶だけで描ける絵があるというのは紛れもない事実だといえます。
視覚像から完全に自由な 「画」 は存在しないというのは、例えば言語記号が指し示す物…これは多くの場合、視覚を通して得られます…と言語記号が密接に関係付けられ、そのそれぞれに相互作用があるからという意味においてです。言語記号「空」あるいは画中の空は指示対象の空の様相と密接に繋がっています。網膜に映った空から言語記号「空」や画中の空を知覚認識し、言語記号「空」から記憶にある空の様相を思い浮かべます。
あなたもミカンの方が旨いなどと延々と不毛を繰り返す前に、鳥獣戯画や信貴山縁起が視覚像を写したという客観的証拠を探してください。
そうでない画があることを私は否定していません。視覚像を写した画があることを頑固に否定しているのはあなたです。
> 私の絵描きとして長年の経験からすれば、カメラオブスキューラや透写装置で描かれた絵を例外とするならば、絵は100%記憶で描かれます。
ほとんどの光学機器が視覚を記憶することを補助するだけですから,結局一瞬前に見た記憶を描いていることになります。「視覚像を写す」 ことと 「記憶で描く」 こととは問題なく両立します。
> 記憶にある図像、それは概念ですし言語記号の一種といえます。
概念にはなっていない図像もあるし,概念化 (コード化) した図像もあります。しかし言語記号の一種になってしまった図像とは,ピクトグラム (絵文字。絵単語と言う方が適切か) の類です。地図記号や配線図やトイレの男子/女子マークがその例です。
私もそれは事実だと思います。しかし,視覚像を写した画があることと何ら矛盾しません。
> 言語記号「空」あるいは画中の空は指示対象の空の様相と密接に繋がっています。
日本語の 「空 (sora)」 という音は指示対象である空の様相と全くつながっていません。英語では sky,フランス語では ciel です。これを言語記号の恣意性と言います。画中の空は (ピクトグラムでないかぎり) 実際の空の様相とつながっているでしょう。つまり,言語は記号だが (普通の) 画は記号ではないということです。「あるいは」 で並べることは許されません。
> 言語記号「空」から記憶にある空の様相を思い浮かべます。
それはあなたが日本語話者だからです。日本語を解しない人は sora と聞いても空の様相を思い浮かべることはありません。他方,空を描いた画を見れば,世界中の誰でも空を描いたのだとわかります。
フラッシュ刺激はほとんど記憶できませんが,それに注意を向け続けると短期記憶に移行します。短期記憶は数秒はもつので,その間に描き取るわけです。視覚像を写し取る作業はこれの繰り返しであるため,長い時間がかかります。
https://kotobank.jp/word/%E6%84%9F%E8%A6%9A%E8%A8%98%E6%86%B6
https://kotobank.jp/word/%E7%9F%AD%E6%9C%9F%E8%A8%98%E6%86%B6
> あるいは透視法絵画が入ってくるまで日本の絵には一人称視点(透視法)が一切無かったという事実。一人称視点はルネッサンスのカメラオブスキューラや透写装置に密接に関係しています。
透視法は構図の作り方ですから,透視法がないと視覚像を写し取れないということにはなりません。
> あるいは日本の絵の創作は粉本などのお手本の写しであり、中国由来の対看写生ですらその記録が見つからないということ。
お手本のお手本の……お手本は誰かの視覚像です。最初のお手本は宇宙から降って来ません。銅鐸の線画でさえ元は誰かの視覚像です。
顔料の価格の問題だと思います。信貴山縁起絵巻の空には青の痕跡が広く残っています。贅沢な品だったことが分かります。
> あなたもミカンの方が旨いなどと延々と不毛を繰り返す前に、鳥獣戯画や信貴山縁起が視覚像を写したという客観的証拠を探してください。
芸術に客観を持ち込むことこそ不毛です。モデルがいないとこうは描けないなと感じられたら,それは視覚像を写した画です。
リンゴもミカンも多くの人に食べられていますから,どちらも旨いということです。しかし実際は品種改良がどんどん進んでいます。売れなくなった品種は不味いと判断されて捨てられます。つまり,リンゴとミカンでは勝負がつかないが,旨い品種と不味い品種との区別に,客観的な根拠だの証拠だのは要らないのです。
http://livedoor.blogimg.jp/g_artisan/imgs/1/0/10042dbf.jpg (←不味い)
http://auctions.c.yimg.jp/images.auctions.yahoo.co.jp/image/ra477/users/0/3/1/3/psychopsycho1960-img600x434-13954870266w8mjn30551.jpg (←旨い)
我が妻も絵に描き取らむ暇 (いつま) もが旅行く我 (あれ) は見つつ偲はむ
(おまえを絵に描き写すほどの暇でもあればよい。そしたら旅行くおれは見て偲ぼうに)
これは遠江国長下郡 (ながたのしものこおり。今の静岡県) に住んでいた物部古麻呂 (もののべのこまろ) という人の歌で,彼は防人として徴用され,九州へ送られるのです。当時の 「画」 は視覚像を描き取るものであり,それにはかなり時間がかかると認識されていたことが知られます (イツマはイトマの訛り)。同時に,時間があれば描き取れるという自信の表れでもあります。古麻呂は貴族ではありえず,田舎で高級な画材が手に入ったとも考えにくいですが,周りの人々の求めに応じていろいろなものを描いてやっていたのではないでしょうか。彼は自分の妻の肖像を描く時間は持てないまま,慌ただしく出発したのだと思います。
あて,御絵あそばしたりし,興あり。さは,走り車の輪には,薄墨に塗らせたまひて,大きさのほど,輻 (や) などのしるしには墨をにほはさせたまへりし,げにかくこそ描くべかりけれ。あまりに走る車は,いつかは黒さのほどやは見えはべる。
(さて,花山院は,御絵をよくお描きになりましたが,これがまたおもしろいものです。それは,走っている車の輪には,薄墨の色をお塗になり,その大きさの程度や,車輪の輻〔スポーク〕などは,それとわかるように,墨をぼかして彩っていらっしゃいましたが,なるほど,このように描くべきだったのですね。飛ぶように速く走る車は,いつ,まあ,車輪の黒さの具合などが見えましょうか)
これは被写体ブレをとらえた画です。車輪のスポークは,止まっている時と回っている時とで,視覚像が明確に異なります。確かに近代のマンガに通じる表現ですが,このような画は残念ながら現存しません。
信貴山縁起絵巻の転がる輪宝も,こんなふうに描けばよかったのでしょう。ただ,やはり輪宝の輻は 8 本きちんと描かなければと,絵師は考えたのかもしれません。
ペシュメルル洞窟壁画のリンクが切れてました。
http://apiemistika.lt/wp-content/uploads/2012/06/ateiviai2.jpg
疾走する表現として、足が何本もある絵や渦巻状に表現する絵がマンガなどでよくみられます。又、「飛ぶように速く走る車は,いつ,まあ,車輪の黒さの具合などが見えましょうか」という文言も被写体ブレをとらえたものと言えます。これを持って「視覚像を写す」とするならば過去から現在に至る殆どの作芸術作品は視覚像を写したものになります。あなたは、どうやらそれが言いたいのでしょうが、そういうことなら、それには全く異存はありません。しかし、ここで問題にしているのは、そんなことではありません。写真の出現により如何に我々の意識が変わったかという問題です。それにより絵は二つの様式に分類されます。上の文言は見たものを言葉という概念に変換したものであるのと同様に、写真が存在しなかった信貴山縁起や大鏡に登場する絵、あるいはマンガは図像あるいは図式という概念による変換です。一方で写真やカメラオブスキューラや透写装置で描かれた絵は、それとは全く異なった原理で造られます。後者を「視覚像を写す(絵)」とし、二者を分類したのです。
何が 「同様」 なのか不明ですし,「あるいは」 で並べることもできません。信貴山縁起絵巻の剣鎧護法や,花山院の現存しない画は視覚像を写し取った図像であり,他方 (すべてではなく一部の) マンガは図式化された記号です。オバ Q やドラえもんは言語化された 「えかきうた」 で描くことができます。「妙」 も工夫すれば描けそうです。
剣鎧護法にはあなたの言う 「お手本」 があったようですが,信貴山縁起の絵師はそれに従っていません。縁起絵巻の護法童子はけっこう筋肉質です。モデルはおそらく若い侍か随身でしょう。変な格好をさせられ,剣に見立てた物を体にたくさんぶら下げられ,何度も走らされた様子が目に浮かびませんか。彼は同じ側の手足が前に出る 「ナンバ走り」 をしています。
https://www.youtube.com/watch?v=0wCVnDgrVcQ (32:44~34:14)
そのような画は実在しなかったか,実在したとしても着目に値しません。
カメラ・オブスクラを使って実際に描画することはおそらく不可能です。描き手自身の体が光を遮ってしまうからです。この問題を解決するためにカメラ・ルシーダが発明されたわけですが,カメラ・ルシーダを使ったとしても,画を完成させるためには光学機器を使わずに視覚像を写し取る技量が必要です。つまり,機器は補助にしかなりません。
透写装置も実際には使われなかったと思います。
https://www.wga.hu/frames-e.html?/html/d/durer/2/12/9_1528/5draught.html
デューラーが示す装置を使って丁寧に描画すれば,次のような構図になるはずです。
https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-9c-81/pagan_again/folder/566659/62/14224962/img_3
しかしながら,上のような構図の画は,デューラーの時代には全く見られません。
写真の出現以降も,写真と主観的な視覚像とが異なることは明らかでした。画家が写し取ろうとするのは後者です。
http://wada-yoshiro.jp/giho/giho_02.html
図像と言語という二者を「同様」で「あるいは」で並べることが出来ると思っています。そしてそのことが当ブログの主旨でありキモとなります。
「ライブ俳画の試み(3)」で記録誌を抜粋しましたが、縁側で老人が微笑む写真にお爺ちゃんは今日も元気です、というコメントが添えられていたとします。この場合、写真とコメントという二者は関係付けられていますが、全く別物です。コメントは概念であり写真は光学現象、あるいはモノであり、元々意味などありません。その光学現象、あるいはモノに概念の付与により意味が読み込まれたものを現実世界とするなら、概念は現実世界を生成するためのツールといえます。そしてあなたも言うようにマンガの図像は図式化された記号、つまり概念であり現実世界を生成するためのツールとして図像と言語は並べることができます。図像と言語は違うものですが、どちらも概念だという点で共通しており、それが二者を並べられる所以です。
俳画の画と句は共に並べられる概念であり、ライブ俳画はリアルタイムの概念の応酬であり、つまり対話です。しかし写真とコメントは別物であり並べられません。光学現象、あるいはモノに対して、一方はそれらに意味を読む込む概念だからです。
>そのような画は実在しなかったか,実在したとしても着目に値しません。
存在しなかったかもしれません。しかしその方向性は15世紀ルネッサンスにおいて生まれ、確定したのです。そして彼らの夢は19世紀ダゲレオタイプの完成により実現されます。そしてその後、その方向性は技術革新の進化において揺るぎないものとなっていますが、創成期の頃、その夢が既に成し遂げられていたか否かはゴンブリッチの主張に拠ります。彼は、鑑賞者において画家達は、その卓抜した技術において客観世界を余すことなくそのまま再現したと信じ込ませるに足る要素を獲得したが、しかし本当は、そうではなく、実は、模写により獲得された「図式」という概念を駆使したと言うのです。これは内実に関する一種の暴露と読めます。しかし問題はそうした努力、ゴンブリッチに言わせると「ごまかし」がその方向性を確定し、現実世界の客観性という我々の認識を追加し大きく変えたのです。それがリアリズムであり、そのパラダイムを踏襲するか否かということだと思います。
それはストレート・フォトグラフィのみを念頭に置いているからです。「お爺ちゃんは今日も元気です」 という 「お題」 で写真を撮ることもできます。これは一種のピクトリアリズムで,ポスター等ではよく行われています。だからといって 「写真=概念」 ではありません。
> そしてあなたも言うようにマンガの図像は図式化された記号、つまり概念であり現実世界を生成するためのツールとして図像と言語は並べることができます。図像と言語は違うものですが、どちらも概念だという点で共通しており、それが二者を並べられる所以です。
図像の大半は記号ではありませんから,並べることは許されません。言語に比せられる図像はピクトグラムの類だけです。マンガもすべてが記号というわけではないと思います。
> 俳画の画と句は共に並べられる概念であり、ライブ俳画はリアルタイムの概念の応酬であり、つまり対話です。
画は基本的に概念ではないので,一般に画で対話はできません。
宗教画,歴史画,寓意画などは一定の概念の下に描かれていますが,「画=概念」 ではありません。好まれる主題はある程度決まっていました。私は俳句のことはよくわかりませんが,率直に言って,俳画が描かれるという前提なのに,映像も物語も喚起しそうにない句を差し出してくる俳人の気が知れません。
視覚像を写し取りたいという夢は,おそらく現生人類の誕生とともに始まったものでしょう。光学機器の使用は夢の本質に関わるような出来事ではありません。画は元来前者であり,そうでなく後者のような概念の画もあるのだと主張するときにこそ根拠が必要なはずです。
> 存在しなかったかもしれません。
存在しないものは,人間の意識を変えるほどの力を持ち得ません。
> しかしその方向性は15世紀ルネッサンスにおいて生まれ、確定したのです。
洞窟壁画の時代からずっとその 「方向性」 です。
> そして彼らの夢は19世紀ダゲレオタイプの完成により実現されます。
「実現」 したとたんに,主観的な視覚像を写し取るという夢とは異なることが露わになります。あなたの主張は,フォトリアリズムが 15 世紀に突然始まったと言っているようなもので,史実に反し,受け入れられません。
> これは内実に関する一種の暴露と読めます。
そのような図式による画は,数量的には膨大だったにもかかわらず,ゴンブリッチが発掘するまでほとんど知られていませんでした。文化史的には重要でも美術史上は取るに足りません。要するに二流,三流ということです。
カメラ・オブスクラにレンズを仕込み,鏡で反射させた像を擦りガラスに映し出して,薄紙にトレースするという道具が 17 世紀に発明されました。フェルメールが使ったと思われるのはこの道具です。日本では 「写真鏡」 と呼ばれ,渡辺崋山が使いました。光学機器が作り出す像を定着させることは,ここで一応実現しました。ところが,レンズのせいで一定の距離の対象にしか焦点が合わなくなってしまいました。それで,写真鏡より数段熟練を要するカメラ・ルシダが発明されることになったわけです。結局,人間の眼に勝るものはありません。
>宗教画,歴史画,寓意画などは一定の概念の下に描かれていますが,「画=概念」 ではありません。
ゴンブリッチも言うように、絵あるいは図式は全て概念です。「言葉=意味」であるように「図像=意味」なのです。しかし写真は違います。ある現象に「縁側で微笑むお爺ちゃん」という意味が与えられることによって初めて我々は世界を知覚認識します。…という意味でこの二つは全くの別物です。つまり写真は意味を与えられる前の素材であり、言葉は知覚認識するための意味そのもので、それが概念です。そして絵、あるいは図像、あるいは図式は概念に属します。人間が描く絵それ自体は、意味を与えられる前の素材では決してないということです。
「絵あるいは図式」 が誤りです。「あるいは」 で並べることはできません。ゴンブリッチはすべての絵が図式だなどと言っていません。
> 「言葉=意味」であるように「図像=意味」なのです。
言葉で表せない 「意味 (概念)」 を人間は知っていますし,一定の 「意味 (概念)」 と 1 対 1 で結び付いている図像は図像の一部だけです。どちらの等号 (=) も成り立ちません。
> しかし写真は違います。ある現象に「縁側で微笑むお爺ちゃん」という意味が与えられることによって初めて我々は世界を知覚認識します。…という意味でこの二つは全くの別物です。つまり写真は意味を与えられる前の素材であり
写真も人間が撮るのですから,基本的に違いません。「縁側でお爺ちゃんが微笑んでるな」 と認識して写真を撮る場合の方がはるかに多いでしょう。ポスターやカタログの写真はすべて演出されたもので,意味を与えられています (だからといって 「写真=意味」 ではない)。ただ,写真は 「偶然に写り込む」 ということがある点で,画と異なります。
> 言葉は知覚認識するための意味そのもので、それが概念です。
言葉はもちろん概念に含まれますが,両者はイコールではありません。
> そして絵、あるいは図像、あるいは図式は概念に属します。
「図像,あるいは図式」 と 「あるいは」 で並べることは許されません。図式は図像の一部にすぎません。
> 人間が描く絵それ自体は、意味を与えられる前の素材では決してないということです。
それはその通りだと思いますが,すべての絵が 「意味」 と同一,すなわち記号であるということにはなりません。
http://livedoor.blogimg.jp/g_artisan/imgs/b/f/bf04ab45.jpg (← 「裸婦」 という記号に近い)
http://search-art.aac.pref.aichi.jp/dat/pic/1997/obj199703990l.jpg (← 愛の対象の主観的な視覚像であって,「意味」 はその付属物)
彼は中世以前は絵=図式であり、ルネッサンス以降の絵は「図式と修正」の結果だと言っています。「美術家は誰でも、描写しなければならないものに適応する前に、まずその図式を知り構成しなければならないのである。」p172 …全ての絵は図式、あるいは構成された図式だということです。
>言葉で表せない 「意味 (概念)」 を人間は知っていますし,一定の 「意味 (概念)」 と 1 対 1 で結び付いている図像は図像の一部だけです。どちらの等号 (=) も成り立ちません。
言葉で表せない意味(概念)とは、既に言葉の範疇を外れています。言葉に限定すれば、それは意味(概念)の何物でもありません。従って「言葉=意味」です。又、図像は言葉では無いので、言葉では表せない意味(概念)の範疇にあります。従って「図像=意味」であり、二つの「=」は成り立ちます。意味を持たない図像があるというのなら示してください。
「縁側でお爺ちゃんが微笑んでるな」 とは言葉(概念)、そして意味です。それ以上でも以下でもありません。その「意味」は写真の方ではなく言葉にあるのです。その意味を写真という現象に当てはめ認識します。これが分節です。ヘレンケラーは最初に水の触覚に「水」と「水ではないもの」に世界を二つに分節します。手に感じる水の触覚に「水」という意味があるのではなく、あるのは言葉、言語体系にあるのです。つまり水という現象と「水」を規定する言語体系は別物という意味で、写真という現象と言葉(概念)は別物です。しかし絵、図像、図式は言語同様、それ自体に意味を宿しています。ゴンブリッチはこれを「美術の言語」と呼び、その意味を規定する体系を図式システムと呼びます。「あらゆる点からみて「美術の言語」なる言い方は漠然とした比喩以上のものであり、さらに、見える世界をイメージで記述するために、一段と開発された図式システムが必要だという結論になりそうだ。p134」
>(← 愛の対象の主観的な視覚像であって,「意味」 はその付属物)
この文言、全く意味を成していません。
図式がなくなるまで修正するということです。ごく大雑把に言えば,ルネサンス絵画は,ジョットが古代ローマの遺跡に見られる写実的な画を模倣したことから始まったのです。ルネサンスとはル・ネサンスすなわち 「再生」 であり,絵画について言えば,図式の時代から視覚像の時代に回帰したわけです。
> 「美術家は誰でも、描写しなければならないものに適応する前に、まずその図式を知り構成しなければならないのである。」p172 …全ての絵は図式、あるいは構成された図式だということです。
正しくは 「どの美術家も,図式を知り構成して初めて,その図式を描画の必要に合わせることができるのだ」 です。図式を要しない画が存在することを否定するものではありません。
> 言葉で表せない意味(概念)とは、既に言葉の範疇を外れています。
「意味 (概念)」 の範疇からは外れていません。職人の技術の多くは言葉で表せない概念から成っているはずです。たいてい図解もできないでしょう。
> 意味を持たない図像があるというのなら示してください。
的外れな要求です。私は,すべての図像が 「意味」 以外のものを担っていない (「図像=意味」) という,あなたの主張はおかしいと言っているのです。
ちなみに,ロールシャッハ・テストで使うインクの染みは意味をもたない図像の例です。
概念をもつ人間が撮影する前に写真という現象が存在するとは奇怪至極です。
> この文言、全く意味を成していません。
では,中村彝の 「少女裸像」 は,「ここに裸婦がいる」 という 「意味」 を表す単なる記号なんですね。
奇怪ではありません。当たり前のことです。宇宙が誕生して以来、人類が生まれるまで、その出来事を認識する概念は存在しませんでした。概念は出来事に対して常に後発です。そしてルネッサンス、人間は写真という現象を発見しました。そしてそれ以来、写真が捉えることの出来る唯一の世界が実在するとしたのです。現象と認識の二元論であり、それがリアリズムです。写真あるいは網膜像という光学現象に対置した概念による認識という二元論です。
以前、脳溢血で入院した病室に設置された時計に私は目を向けました。よく見るものだとは理解できましたが、それが何を意味するのか解りませんでした。言語機能の低下に依るものです。又、それが意味すること 「縁側でお爺ちゃんが微笑む」も「現在午後三時で夕食まで約三時間」も言語機能による概念であり、それはそこにあるるモノ(現象)と区別されるものです。中村彝の 「少女裸像」 は網膜像でも写真でもなく、彼の大脳を通過した、つまり概念図像であり、 「この当時、誰もが皆、およそ芸術とは『概念的』なものだと信じて疑わなかった。」p226「「美術はみな、見える世界そのものに起源があるのではなく、人間の精神、世界に対する反応に始まるのであり、再現されたものがその様式によって認識されるということこそ、まさに美術が『概念的』なるものにほかならぬ。」p134…というゴンブリッチの真意がここにあります。
ピンホールカメラの原理は紀元前からギリシャや中国で知られていました。
> そしてそれ以来、写真が捉えることの出来る唯一の世界が実在するとしたのです。
そんな話は聞いたことがありません。
> 写真あるいは網膜像という光学現象
この 「あるいは」 も間違いです。まず,人間が装置を操作しないかぎり広義の写真は生じません。つまり,人間の概念に先立って写真という現象は起こりえません。次に,網膜像という現象は概念に先立ちますが,人間は網膜像を主観的な視覚像としてしか認識できません。視覚像を描き取ることは,洞窟壁画の時代からずっと人類の夢でした。視覚像と写真とは別のものです。
> 中村彝の 「少女裸像」 は網膜像でも写真でもなく、彼の大脳を通過した、つまり概念図像であり
だから記号だということですか。答えてください。視覚像を描き取ろうとしたのでないなら,背中や左の乳房の描き方にとても苦労したように見えるのはなぜだと思いますか。
> 再現されたものがその様式によって認識されるということこそ、まさに美術が『概念的』なるものにほかならぬ。」
正しくは 「すべての表現がその様式によって識別できるのは,すべての美術が『概念的』であるからにほかならない」 です。ゴンブリッチは 「美術作品=概念」 とは主張していないと思いますし,仮にそう考えていたのだとすれば,それは誤りです。
https://www.hung-art.hu/kep/a/aba_nova/muvek/8/abano814.jpg
https://www.hung-art.hu/kep/a/aba_nova/muvek/8/abano819.jpg
ハンガリーの画家アバ=ノヴァーク・ヴィルモシュ (1894-1941) の 1920 年頃のデッサンです。木炭や鉛筆が修正できるのに対して,リアリズムが始まる大きな契機となった銀筆は,修正の効かない一発勝負です。描き直した線はすべて残ってしまいます。
https://www.wga.hu/frames-e.html?/html/d/durer/2/11/1/01self13.html
デューラーの 13 歳の自画像です。もともと図式の影はありません。「図式と修正」 が説明できる範囲は限られていると思います。
写真に写る世界が現実の世界を担保するという私の主張であり、このブログの重要テーマです。
>つまり,人間の概念に先立って写真という現象は起こりえません。
写真を写すという行為において、ひいてはカメラオブスキューラのレンズで結像した像を丹念に写し取ることにおいて、あるいは目の構造がカメラオブスキューラの構造に喩えられたことにおいて、認識の対象となる無垢な外部世界(つまり光学現象)が設定されたのです。ここで無垢な世界を映し出す光学現象とそれを認識する概念という二元論が現れます。そしてそれは論理的にいって現象は概念に先立つのです。
>人間は網膜像を主観的な視覚像としてしか認識できません。
人類はカメラオブスキューラの洗礼を受けるまで、網膜像や主観的な視覚像などという認識などありませんでした。唯々、概念が創り出す現実世界があるのみです。
今、岡崎公園周辺は桜が満開です。多くの観光客がスマホで桜を撮ります。その時、各々が見る桜とスマホの桜はかなりの部分同じものとして認識されます。あるいは各々の視覚像のコピーとして認識されます。例えば、通称赤橋から東北東に向けて岡崎疎水の桜を撮ったとします。その場合、映った桜はこの桜だと特定可能です。しかしその桜を見る人によって、あるいは撮る人によって感慨は千差万別です。これがあなたが言う主観という概念です。従って写真は概念に先立ちます。
言語記号の一種と言えるだろうと思います。 中村彝はモダニズム、リアリズムの洗礼を受けていますから、見たままを描こうと思っていたことを彼の著作「芸術の無限観」にも見て取れます。かつて私もそうでした。しかし「美術家は『自分が見ているものを描くこと』はできないし、習慣を完全に払拭することもできない。」序 「美術家は自分が見ていることを描くというよりも、むしろ自分が描いているものを見る傾向があるのだと思う。」p132…というゴンブリッチを今では支持します。
> 「すべての表現がその様式によって識別できるのは,すべての美術が『概念的』であるからにほかならない」 です。
この訳にしても 「美術作品=概念」 は変わらないと思います。これも間違いだというのなら「ああそうですか」と言う他ありません。もしあなたがゴンブリッチは間違っているという緻密な論文でも発表するなら必ず読みますし、その時コメントします。がなるだけでは何も進展しません。
>「図式と修正」 とはこんな描き方ではないでしょうか。
「図式と修正」にダイレクトに繋がるのはマンガだと思っています。「臨画、罫画のススメ」を読んでください。特に4のガードナーが示したマージョリー・ウィルソン夫妻の報告が「図式と修正」を最も適切に表していると考えます。
ある事件について 1 枚の写真も撮られることがなかった場合,その事件は現実ではないということになりかねません。きわめて倒錯的です。
> 写真を写すという行為において、ひいてはカメラオブスキューラのレンズで結像した像を丹念に写し取ることにおいて、あるいは目の構造がカメラオブスキューラの構造に喩えられたことにおいて、認識の対象となる無垢な外部世界(つまり光学現象)が設定されたのです。
人間が機器を製作する前には,光学現象自体が存在しません。論理的に言って概念が現象に先行しています。
> 人類はカメラオブスキューラの洗礼を受けるまで、網膜像や主観的な視覚像などという認識などありませんでした。唯々、概念が創り出す現実世界があるのみです。
それは明確な嘘です。同一物と認識される対象が,見る角度や光の条件によって異なって見えることを知らなかったとは到底考えられません。
> しかしその桜を見る人によって、あるいは撮る人によって感慨は千差万別です。これがあなたが言う主観という概念です。
それも主観の一つではありますが,そもそも写真など撮らなくても感慨は千差万別でしょう。
> 従って写真は概念に先立ちます。
少なくとも何を撮るか決めなければなりませんから,どう頑張っても概念が写真に先立ちます。
一体,どんな意味を表しているというのですか?
中村彝は自分の画が掛かっている展覧会で,観客の反応を見ていたそうです。ある女性の観客が 「憎らしいおなか」 と言うのを聞いて,中村はひどくがっかりしたと述べています。「モデルがデブ」 といった記号的な解釈は,多くの場合アーティストを打ちのめします。
> というゴンブリッチを今では支持します。
つまり視覚像を描き取ろうなどというのはムダな努力であって,そんなものが評価されるのはおかしいということですね。
> この訳にしても 「美術作品=概念」 は変わらないと思います。
それこそあなたの勝手な解釈です。ゴンブリッチは引用符を付けて "conceptual" と言っているのであり,concept そのものであるとは当然言っていません。概念そのものを伝えたいなら言葉で述べればよく,美術作品は要りません。
> 「図式と修正」にダイレクトに繋がるのはマンガだと思っています。
マンガは視覚像に合わせて画を修正しようとはしませんから,ゴンブリッチの趣旨とは無関係です。
写真が出現する以前は事象の伝達、共有は言葉と図像、つまり絵が全てでした。これらは概念と言い換えられます。いわば現実世界は言葉と図像、つまり概念で出来上がっていました。例えば京都タワーを見た人がその様子を手紙で伝達しようとします。その人はタワーの外観をあれこれと文章にして、図を書き添えます。その手紙を見た人は京都タワーを思い描きます。彼らのイメージはその手紙の内容(再現)が全てです。そして言葉も図像も様式であり、その様式によって認識されます。例えば図なら「洛中洛外図」や「絵巻」です。これがゴンブリッチの言う「再現されたものがその様式によって認識されるということこそ、まさに美術が『概念的』なるものにほかならぬ。」p134…ということです。しかし写真の出現に因って変わります。京都タワーを見た人はその伝達に文章や図を使わずにスマホで撮った画像を送り「今、京都に着きました」とかのコメントで充分です。このスマホで撮った画像と先の文章と図はどう違うのかということです。写真は光学現象であり、世界中の誰もがその時、その場でファインダーを覗けは同じように見え、同じような京都タワーが撮れるという共有です。そしてそれは個々が今見ている風景(視覚像)は誰が見てもそう見えるだろうという唯一の担保となります。それが「見えるように世界は実在する」という素朴実在論(リアリズム)です。従って個々の視覚像と全ての写真は結び付いており、概念化される前の素材ということです。
何を撮るか、何を伝達するかはそれを伝えようとする概念以前の問題です。京都タワーを手紙で伝達しようとした彼はそれが京都駅でも向かいの本願寺でもよかったはずですがタワーを選んだのです。その伝達の形式が問題なのです。例えば失恋した女性が枯葉が舞うのを見て彼氏にその思いを告げようとします。その時、切々とした手紙を送るのか、その時拾い集めた枯葉を送るのかの違いです。後者自体は概念では無くただの枯葉だということです。
>一体,どんな意味を表しているというのですか?
少女裸像を観た人が思い描く全ての意味を表しています。当然、「モデルがデブ」も含まれます。
>つまり視覚像を描き取ろうなどというのはムダな努力であって,そんなものが評価されるのはおかしいということですね。
「美術家は『自分が見ているものを描くこと』はできないし、習慣を完全に払拭することもできない。」序…ということです。
>それこそあなたの勝手な解釈です。ゴンブリッチは引用符を付けて "conceptual" と言っているのであり,concept そのものであるとは当然言っていません。
彼は図像と言葉の定義を分けているのです。図像と言葉は違うものですし、それを言葉に対し図像を「概念的」あるいは「言葉的」と言っても意味としては同じです。
>マンガは視覚像に合わせて画を修正しようとはしませんから,ゴンブリッチの趣旨とは無関係です。
彼は「視覚像」などという言葉は使っていないと理解しています。あるなら引用してください。
写真が出現した後も,事件について 1 枚も写真が撮られないことはあります。そのような事件は現実ではないのでしょうか。倒錯した長文は無用です。
> 何を撮るか、何を伝達するかはそれを伝えようとする概念以前の問題です。
それこそが概念です。ただし,言葉になっているとは限りません。言葉になっている場合もあります。ポスターやカタログの写真は通常,言葉で綿密に打ち合わせをしたうえで撮られます。
> 少女裸像を観た人が思い描く全ての意味を表しています。
意味はまず発信者の側にあり,記号で表され,記号を理解する受信者に伝わります。この関係にないものを 「意味」 とは呼びません。
> 「美術家は『自分が見ているものを描くこと』はできないし、習慣を完全に払拭することもできない。」序…ということです。
できなくてもやろうとした画は末永く鑑賞され,やろうとしなかった画は美術的価値をもたないということです。
> 彼は図像と言葉の定義を分けているのです。図像と言葉は違うものですし、それを言葉に対し図像を「概念的」あるいは「言葉的」と言っても意味としては同じです。
全く意味不明です。ゴンブリッチは 「美術作品=概念」 とも 「美術作品=言葉」 とも言っていません。
Never before has there been an age like ours when the visual image was so cheap in every sense of the word. (Introduction II)
Just as the study of poetry remains incomplete without an awareness of the language of prose, so, I believe, the study of art will be increasingly supplemented by inquiry into the linguistics of the visual image. (Introduction II)
Rudolf Arnheim's book <i>Art and Visual Perception</i> deals with the visual image from the point of view of Gestalt psychology. (Introduction VI)
To the student of the visual image, these experiences are of relevance because they show how the context of action creates conditions of illusion. (VII. Conditions of Illusion II)
But if we hold fast to the railing of our subject -- the beholder's share in the reading and interpretation of visual images -- we may perhaps peer down for a moment. (VIII. Ambiguities of the Third Dimension VI)
It has been traditional in this context to bring out the arbitrary and conventional nature of language by contrasting the accidental name 'horse' or '<i>cheval</i>' with the artist's visual image of a horse. (XI. From Representation to Expression I)
Yet I believe the student of visual images should consider these so-called onomatopoeic imitations of sound in language for the light they throw on his own problems. (XI. From Representation to Expression I)
そんなこと言ってません。「写真が現実を担保する」というのは、人々の現実観のことです。例えば「見えるように世界は実在する」とか「誰が見ても世界は同じように見える」とか「自分が寝ていても死んでいても関係なくこの世界は同じように実在する」とかです。写真が無かった頃、言葉と絵、つまり概念で歴史は刻まれ、事象は伝達されたと言いました。その言葉と絵は写真とは本質的に違うと言っているのです。
>意味はまず発信者の側にあり,記号で表され,記号を理解する受信者に伝わります。
それは違います。意味は言葉や絵の方にあります。ソシュールの言う体系、ラングです。発信者はそれをチョイスし組み合わせるのです。子供は就学期にその体系を学習します。それが概念です。
>ゴンブリッチは 「美術作品=概念」 とも 「美術作品=言葉」 とも言っていません。
「概念的」と言っています。「的」とは「㋐そのような性質をもったものの意を表す。」とあります。「全ての美術作品は概念的」とは「全ての美術作品は概念のような性質を持つ」です。私はストレートに美術作品=概念としたのです。これは私の見解です。又 「美術作品=言葉」 などとは言っていません。「言葉的」といったのです。「全ての美術作品は言葉のような性質を持つ」という意味です。人間=哺乳類、犬=哺乳類でも人間=犬でないように言葉=概念で美術作品=概念でも言葉=美術作品ではないのです。
ust as the study of poetry remains incomplete without an awareness of the language of prose, so, I believe, the study of art will be increasingly supplemented by inquiry into the linguistics of the visual image. (Introduction II)
言っています。「現実観」 に写真の担保など要りません。写真がなかった時代でも,王様は誰が見ても裸でした。このブログは倒錯と短絡に満ちています。
> ソシュールの言う体系、ラングです。発信者はそれをチョイスし組み合わせるのです。
何に基づいて 「チョイス」 するのですか。また,「少女裸像」 はどのような記号体系の中に収まっているのですか。
> 「概念的」と言っています。
わざわざ引用符を付けて "conceptual" と言っています。一般に 「概念的」 と言うときとは違うというサインです。一般に,画は感動や情念を表現するもので,概念的だとは思われていない,しかし,19 世紀までは,あらかじめ決まった 「画の描き方」 があって,広く受け入れられていた,これを 「概念的」 と呼ぶこともできるのではないか,というのがゴンブリッチの主張です。
> 私はストレートに美術作品=概念としたのです。これは私の見解です。
誤った解釈です。ゴンブリッチは美術作品が概念以外のものを何も表さないなどと言っていません。
> 人間=哺乳類、犬=哺乳類でも人間=犬でないように
「A=B,C=B,しかるに A≠C」 ということはありえません。等号の使い方が根本的に間違っています。
ゴンブリッチは 「視覚像」 もただの 「図像」 も visual image と呼ぶので曖昧ですが,第 6 例 (It has been traditional...) の the artist's visual image は 「画家の視覚像」 と訳さなければなりません。
むしろ visual experience (視覚体験) の方が,主観的な視覚像に近いと思います。
It is not a faithful record of a visual experience but the faithful construction of a relational model. (II. From Light into Paint VI)
Artists turned against the academies and the traditional methods of teaching because they felt it was the artist's task to wrestle with the unique visual experience which can never have been prefigured and can never recur. (V. Formula and Experience VII)
The fact is familiar, but the explanation that is usually given appeals too confidently to the visual experience we 'really have' in the presence of movement. (VII. Conditions of Illusion VI)
The peep-show arrangement could therefore look right while the world of our visual experience would still be subtly different, non-Euclidian, and curved (as has been claimed), like Einstein's universe. (VIII. Ambiguities of the Third Dimension IV)
Those who want to produce such copies, therefore, cannot rely on their visual experience alone. (IX. The Analysis of Vision in Art VIII)
These problems came to the fore when complete fidelity to visual experience had become both a moral and an aesthetic imperative. (IX. The Analysis of Vision in Art IX)
Long before experimental psychology was ever thought of, the artist had devised this experiment in reduction and found that the elements of the visual experience could be taken to pieces and put together again to the point of illusion. (IX. The Analysis of Vision in Art XIII)
Musicians in their turn, were fond of representing the visible world in tones -- we need only look down the list of titles Debussy gave to his pieces to see his faith in the efficacy of such evocation: 'Bruyères', 'Clair de Lune', 'Feux d'artifice' all represent or paint visual experiences on the keys of the piano. (XI. From Representation to Expression II)
いま訳書が手元にありませんし,あの本はあてになりません。それほど難しい英語でもないので自分で訳してください。読めない人に賛同されても無意味です。またどうせ poetry = the language of prose,art = the linguistics of visual image などと短絡するんでしょうけど。
言葉にならない概念を表した画というものも存在すると思います。シュルレアリスムの画などはそうでしょう。うまい言葉が見つかれば言葉になるのだろうけれど,それができないような考えや物語が感じられ,多様に解釈されます。ただ,概念を伝えさえすればよいわけではなく,画全体はシュールなのに,人物は非常にリアルに描き込まれていたりします。
ラング(体系)に基づいてチョイスするのです。例えばもし、「お腹が痛い」「お腹が痛くない」という二つしか体系に無いとしたら、お腹の状態は、この二つからチョイスするしかないのです。以前取り上げた色の語彙などがその例です。
>「少女裸像」 はどのような記号体系の中に収まっているのですか。
図像の体系は言語の体系(ラング)とは独立してあると思っています。ソシュールは図像の体系など認めませんでいたから、アカデミズム的には記号体系には収まらないと言えるでしょう。
>一般に 「概念的」 と言うときとは違うというサインです。
「全ての美術作品は概念的」とは「全ての美術作品は概念のような性質を持つ」です。これで充分かと思います。少なくとも「全ての美術作品は概念のような性質を全く持たない」では無いことは明らかです。
>一般に,画は感動や情念を表現するもので,概念的だとは思われていない,
ゴンブリッチの著作で議論するなら「この当時、誰もが皆、およそ芸術とは『概念的』なものだと信じて疑わなかった。」(p226)と言っています。これで終了です。又、あなたの見解で議論するなら「ゴンブリッチは認めませんが、一般に,画は感動や情念を表現するもので,概念的だとは思われていない,」とすべきです。これなら議論を継続できる余地があります。
>ゴンブリッチは美術作品が概念以外のものを何も表さないなどと言っていません。
引用してください。
>「A=B,C=B,しかるに A≠C」 ということはありえません。
「人間は哺乳類である」「イヌは哺乳類である」しかるに「人間はイヌである」ハハ…。
あなたがあてになろうがなるまいが、ゴンブリッチの著作に関しては「芸術と幻影」(美術名著泉州22 瀬戸慶久訳)を参照しています。これが全てです。あなたの英文が彼の原文なのかどうかも、あなたを信用する以外、私には確認することもできません。本来的には確認できませんからあなたの英文は認めません、で済む話です。
>うまい言葉が見つかれば言葉になるのだろうけれど,それができないような考えや物語が感じられ,多様に解釈されます。
図像の概念と言葉の概念との関係は私は翻訳だと思っています。その象徴としてこのブログでは「点目の記号論」があります。点目で表現された図像は、その人物の心の動き、心理が読めます。これは惑うこと無き概念です。そして広辞苑において「点目、目が点=驚きあきれる。唖然とする」と言葉に訳さたのです。広辞苑訳が一番近いとは思いますが、それでも違和感があります。つまりこれが言語体系の限界であり、少なくとも、この図像において言葉にならない概念と言えると思います。
何に基づいて一方を選び,他方を捨てるのですか。
> 図像の体系は言語の体系(ラング)とは独立してあると思っています。
「図像の体系」 をまず明らかにしてからでないと,「少女裸像」 は記号だとは言えないし,記号的意味を表しているとも言えません。ただし,記号に乗らないタイプの 「意味」 も存在すると私は考えています。
> 少なくとも「全ての美術作品は概念のような性質を全く持たない」では無いことは明らかです。
だからといって 「美術作品=概念」 すなわち 「どの美術作品も概念以外のものを何も担わない」 とはなりません。
> あなたの見解で議論するなら「ゴンブリッチは認めませんが、一般に,画は感動や情念を表現するもので,概念的だとは思われていない,」とすべきです。
「認めませんが」 とは,何を認めないのですか。
> 引用してください。
言っていないことは引用できません。
> 「人間は哺乳類である」「イヌは哺乳類である」しかるに「人間はイヌである」ハハ…。
「は」 と 「=」 とは全く違います。あなたの等号の使い方は根本的に誤りです。
> あなたがあてになろうがなるまいが
英語がわかる人が見れば,誰にとってもあてにならないとわかります。
> これが全てです。
それは人文科学の態度ではありません。原文にあたるのは当然のことです。訳書はガイドブックであって,現地を歩くのはあなたです。
> あなたの英文が彼の原文なのかどうかも、あなたを信用する以外、私には確認することもできません。
科学は信用の上に成り立っています。しかし,人は間違うものです。間違っているのではないかと思うなら,どうやってでも自分で確認してください。信用もできず確認もできない人は,議論から退場するほかありません。
「点目」 でさえ視覚像と何らかの繋がりがあるはずだと私は思いますが,それはともかく,記号化がかなり進んでいることは確かです。同時に,言語に翻訳しきれないことも確かでしょう。
「少女裸像」 はその種の概念とは無縁です。もっと曖昧な,「意味ありげな」 要素も認められません。
言語の意味することに基づきます。「痛い」は通常でない状態を意味します。「痛くない」は通常を意味します。「お腹が痛い」の場合、他に色んな通常ではない状態を意味する言葉があります。例えば「苦しい」「重い」「チクチクする」等ですが、もし、「痛い」「痛くない」の二つしか無いとすれば、そのどちらかを選ぶしかないのと同様に、結局は選ぶ言葉には限界があるということであり、お腹の状態を言葉によって規定されているとも言えます。
>「少女裸像」 は記号だとは言えないし,記号的意味を表しているとも言えません。
ソシュールは人間が見るモノ、聞くモノ、触るモノ全てが記号としました。そして言語においては特別に言語記号とし、その他は一般記号と分類しました。従ってソシュールに倣うなら絵画全般は一般記号になります。
>だからといって 「美術作品=概念」 すなわち 「どの美術作品も概念以外のものを何も担わない」 とはなりません。
「全ての美術作品=概念的」とはゴンブリッチの主張に関しての議論です。写真を美術の範疇とするなら、私はそれは違うと最初から言っています。写真自体は絵や言葉と違って概念を担っていない別のものです。写真も概念的と言ったのはあなたの方ではなかったですか。
>何を認めないのですか。
ゴンブリッチは「誰もが皆、およそ芸術とは『概念的』なものだと信じて疑わなかった。」と言います。あなたは「一般に,画は感動や情念を表現するもので,概念的だとは思われていない,」と真反対なのですから彼はそれを認めません。
>使い方は根本的に誤りです。
あなたはイヌだったのですね。知らなかったとはいえ失礼しました。
>訳書はガイドブックであって,現地を歩くのはあなたです。
まずはあなたの英文が原文であることを証明してください。
> もし、「痛い」「痛くない」の二つしか無いとすれば、そのどちらかを選ぶしかないのと同様に
この場合,言語記号が 2 つあるので,表されうる意味も 2 つあります。何に基づいて一方を選ぶのですか。
> ソシュールは人間が見るモノ、聞くモノ、触るモノ全てが記号としました。
出典は何ですか。
> 「全ての美術作品=概念的」とはゴンブリッチの主張に関しての議論です。
「概念的」 と 「概念」 とは違います。さらに,「美術作品」 が名詞なのに対して 「概念的」 は形容詞ですから,両者が 「=」 で結ばれるはずがありません。あなたの等号の使い方は根本的に間違っています。
> 写真を美術の範疇とするなら、私はそれは違うと最初から言っています。
あなたが違うと言っても違うことにはなりません。ゴンブリッチは『美術の物語』において写真を美術の一分野と認め,特にアンリ・カルティエ=ブレッソンを評価しています。
> 写真も概念的と言ったのはあなたの方ではなかったですか。
写真も人間が撮る以上概念から出発し,もちろん概念以外のものも担っています。
> あなたは「一般に,画は感動や情念を表現するもので,概念的だとは思われていない,」と真反対なのですから彼はそれを認めません。
だから,否認の焦点はどこかと訊いているのです。「一般に……思われていない」 の中には多くの要素が含まれています。
> あなたはイヌだったのですね。
「A=B,C=B,しかるに A≠C」 の場合がありうるという,全く新しい論理学を提唱するんですね。
> まずはあなたの英文が原文であることを証明してください。
出典は最初からわかってますね。疑わしいと思うなら,違うということを証明する義務はあなたの方にあります。
ですから、言葉の意味すること(指し示すモノ)に基づきます。幼児が「ネコ」という言葉を覚えたとします。「ネコ」にはnekoという音(聴覚印象)と意味(指し示すモノ)が同時にあります。シニフィアンとシニフェです。幼児は動物に出会います。あるいは動物が映った写真を見ます。そしてそれが「ネコ」に適合するならそれを指さし「ネコ」と言います。「イヌ」とは言いません。「ネコ」か「イヌ」かの選択は言葉(シニフィアンとシニフェ)に基づきます。これが概念です。対して出会った動物や写真自体は概念とは別のものです。あるいは概念によって規定される素材です。
又、幼児は「ネコの絵」を覚えたとします。これは絵本やマンガ、アニメ、イラストレーション、昔なら臨画帳などにより学習されます。その絵においても図像(視覚印象)と意味(指し示すモノ)が同時にあります。シニフィアンとシニフェです。幼児は動物に出会います。あるいは動物が映った写真を見ます。それらを「ネコの絵」に当てはめ(ゴンブリッチの言う「ネコの絵」の様式に当てはめ)認識します。これが概念(ゴンブリッチの言う概念的)です。対して出会った動物や写真自体は概念(概念的)とは別のものです。あるいは概念(概念的)によって規定される素材です。そして私は言葉の体系と図像の体系はお互い独立しており、両者は翻訳の関係にあると思っています。又、写真が美術とするなら(西洋ではルネッサンス以来写真が美術とする長い歴史があります)ゴンブリッチの言う「全ての美術作品=概念的」には異議があるということです。写真は概念(概念的)ではなく、除外すべきということです。
最初から解りません。あなたの英文を原文だと信用するだけで確認の方法はありません。「芸術と幻影」(美術名著泉州22 瀬戸慶久訳)の何ページといえばお互い出典は確認できますが、あなたの英文を示されただけでは本当にその文が原文なのか私には確認のしようがないということです。
>「A=B,C=B,しかるに A≠C」 の場合
「A=B」を「人間は哺乳類である」と置き換えられますよね。
「C=B」を「イヌは哺乳類である」と置き換えられますよね。
「A=C」を「人間はイヌである」と置き換えられますよね。明らかに違ってますよね。
「A=B」を「人間は生き物である」と置き換えられますよね。
「C=B」を「イヌは生き物である」と置き換えられますよね。
「A=C」を「人間はイヌである」と置き換えられますよね。明らかに違ってますよね。
まず,例えば 「(お腹が) 痛い」 と 「痛くない」 の 2 つだけ言語記号がある場合,表されうる意味も 2 つあるはずですから,何に基づいて一方を選ぶのか答えてください。
> そしてそれが「ネコ」に適合するならそれを指さし「ネコ」と言います。
「適合する」 とは,どういうことですか。
> 最初から解りません。あなたの英文を原文だと信用するだけで確認の方法はありません。
出典はゴンブリッチの『芸術と幻影』,原題 "Art and Illusion" です。原文を確認する方法がなくて,引用を信用することもできない人は,議論から退場してください。
昔,高名な大学教授なのに同じような駄々をこねる人がいました。私が示したある調査の結果にはおそらく誤りも含まれているだろう,しかしながら,調査の過程が妥当かどうかを確認することはそれほど難しくない,学問は性善説の上に立つほかない,結果が信用できないというなら,まず自分で確認して誤りを指摘するのが筋であろうと言ったら,彼は席を蹴って出て行きました。
> 「A=B」を「人間は哺乳類である」と置き換えられますよね。
置き換えられません。そもそもそれが間違いであることにまだ気づきませんか。
「A=B」 が真なら,必ず 「B=A」 も真です。他方,「人間は哺乳類である」 が真であるのに対して,「哺乳類は人間である」 は真ではありません。等号 「=」 と 「は」 とは全く別のものです。
ですから、言葉の意味することに基づきます。これが最後です。母親は「お腹が痛いの?」と聞きます。幼児は母親のその言葉を繰り返し聞く内、自分の「お腹」という特定の部位の異常を指し示すと学習します。そして再び同じ部位の異常を感じた時、幼児は「お腹が痛いの」と言います。「(お腹が) 痛い」 と 「痛くない」の二つしかなった場合、もしそれが空腹感であっても何であってもその部位に異常を感じたならば、幼児は「(お腹が) 痛い」 と言います。その場合「(お腹が) 痛い」 は全てのお腹の異常を意味するからです。因って言葉の意味することにおいて選ばれます。
>「適合する」 とは,どういうことですか。
「ネコ」はネコを規定するとも言えます。もし人間以外の全ての動物が「ネコ」だけなら、大きなネコ、小さなネコ、鱗のあるネコ、羽があるネコ、鼻が長いネコ、草食のネコ、肉食のネコ等々になります。「ネコ」はネコを規定し目の前にいる動物をその規定に適合させるということです。
>原文を確認する方法がなくて,引用を信用することもできない人は,議論から退場してください。
信用できないとは言ってません。信用するだけで確認の術はないと言ったのです。駄々をこねるなら、あなたが退場してください。
>等号 「=」 と 「は」 とは全く別のものです。
これに関してはあなたの言う通りです。等号は撤回します。
「人間は哺乳類である」「イヌは哺乳類である」しかし「人間はイヌである」とはなりません。
これが意味です。意味はまず発信者の側にあるのです。
> 「ネコ」はネコを規定し目の前にいる動物をその規定に適合させるということです。
「適合する」 と判断するのは発信者 (当該の幼児) であり,その判断がすなわち意味です。猫が neko,neko,neko と音を出しているわけではないからです。
> 信用できないとは言ってません。
では 「まずはあなたの英文が原文であることを証明してください」 という要求に何の価値があるのですか。
> 信用するだけで確認の術はないと言ったのです。
同じ本を見ることができないという意味ですか。原文を探してくるのは議論への参加資格です。同じ版が入手できず頁が合わないということもあるので,今回は頁を示していないのです。そういうときはこちらで都合できるかもしれません。あなたの場合は問題外です。
概念とは,一般的には言葉で表されるものです。
ゴンブリッチは,中世までの画は人間が作った図式に基づいて描かれていたし,ルネサンス以降も美術学校等では図式に基づく描き方が広く教えられていた,これを 「概念的」 と呼ぶこともできるのではないか,と主張したわけです。ただし,図式は言葉で表せませんから,一般的な概念とは異なり,あくまで引用符付きの "conceptual" なのです。
そもそも,画も写真も人間が創り出すものである以上,広義の概念と無縁なわけはありません。しかしながら,芸術作品は 「概念的」 であると同時に,概念以外のものも担っているからこそ価値があるのです。人間をうざい概念や意味から一時解放してくれるのがアートです。ただ,解放の仕方にはいろいろあると思います。不可能なのがわかっていながら視覚像を描き取ろうとするのも一つですし,心象を描き取ろうとするのも一つでしょう。他方,マンガはどうしたって意味を伝えるためのものですから,人間を解放できそうにありません。
ゴンブリッチは 「美術作品=概念」,すなわち美術作品は概念以外のものを何も担っていないと考えたなどというのは,全くの誤解です。等号は短絡の素です。