自慢話になるかも知れないが、私は幼い頃より絵ばかり描いていたせいもあり、絵が上手い子で通っていた。小学校に上る前は町内で一番だったし、小学校に入って2年生の春、パリの国際児童画展で金賞を取ったこともあり、その噂は学区に広まった。中学では先生たちは「絵が上手い子」という予備知識を持って私に接し、美術の先生は会うなり美術部の入部を勧め、そして絵の道に進むことを期待した。
その先生の勧めで美術科のある高校へ進むのだが、そこで初めて、全く異なった二種類の絵があることを知った。石膏デッサンだ。
その学校は明治に創設された東京のフォンタネージ率いる工部画学校を模したような所で、西洋美術の技術を徹底的に教え込む学校だった。これが美術の基礎だと、口をすっぱくして先生が言うのが石膏デッサンであり、それは今まで描いてきた絵とは全く異なっていた。多かれ少なかれ、私と同じような「絵の上手い子」が全国から集まったのであろうが、クラスの誰一人、それを上手く描けず、まるで過去を帳消しにし、白紙の状態でスタートラインにならばされた気分だった。
その先生の勧めで美術科のある高校へ進むのだが、そこで初めて、全く異なった二種類の絵があることを知った。石膏デッサンだ。
その学校は明治に創設された東京のフォンタネージ率いる工部画学校を模したような所で、西洋美術の技術を徹底的に教え込む学校だった。これが美術の基礎だと、口をすっぱくして先生が言うのが石膏デッサンであり、それは今まで描いてきた絵とは全く異なっていた。多かれ少なかれ、私と同じような「絵の上手い子」が全国から集まったのであろうが、クラスの誰一人、それを上手く描けず、まるで過去を帳消しにし、白紙の状態でスタートラインにならばされた気分だった。
ここで問題にしたいのは、自慢話でも何でもなく、美術の基礎だと先生が言う石膏デッサンと、今まで親しんできた絵と何がどう違うのかということだ。
一口で言うと、石膏デッサンとは視覚像の転写だ。石膏像に向かうと、当たり前だが石膏像が見える。今見えているそれが私の視覚像で、片目をつむりデッサンスケールで四角く切り取った私の視覚像を計測棒などで計測しながら、それを木炭紙に正確に転写する。ここで計測するのは石膏像という実体ではなく、あくまで石膏像が見える私の視覚像を計測するのだ。つまり描こうとする対象は石膏像という実体ではなく、私の視覚像なのだ。これがフォンタネージが持ち込んだ石膏デッサンでありリアリズムの技術だ。
こうした経験は今までに無く、全く初めてだった。小中学校を通じて写生はしたが、それは例えば、目の前にあるリンゴや神社を描こうとする場合、対象はリンゴや神社の実体であり、視覚像などでは決して無かった。そしてそれは計測などしなくとも容易く描けたし、時間がなければ家に持ち帰り続きを描くことができた。
小中学校まで描く絵の殆どは記憶や想像で描くのであり、写生は授業や写生大会などに限られていたが、今にして思えば、写生であろうと記憶であろうと描き方としては同じだった。例えばモデルとしての同級生のB子さんが目の前にいようと、運動場にいようと、B子さんは私の頭の中におり、それを描くだけだった。ただ目の前にいる場合、今日着ているセーターの柄や新しい擦り傷の跡があるといった細かいところが描けるという、それだけの違いだけだった。
一口で言うと、石膏デッサンとは視覚像の転写だ。石膏像に向かうと、当たり前だが石膏像が見える。今見えているそれが私の視覚像で、片目をつむりデッサンスケールで四角く切り取った私の視覚像を計測棒などで計測しながら、それを木炭紙に正確に転写する。ここで計測するのは石膏像という実体ではなく、あくまで石膏像が見える私の視覚像を計測するのだ。つまり描こうとする対象は石膏像という実体ではなく、私の視覚像なのだ。これがフォンタネージが持ち込んだ石膏デッサンでありリアリズムの技術だ。
こうした経験は今までに無く、全く初めてだった。小中学校を通じて写生はしたが、それは例えば、目の前にあるリンゴや神社を描こうとする場合、対象はリンゴや神社の実体であり、視覚像などでは決して無かった。そしてそれは計測などしなくとも容易く描けたし、時間がなければ家に持ち帰り続きを描くことができた。
小中学校まで描く絵の殆どは記憶や想像で描くのであり、写生は授業や写生大会などに限られていたが、今にして思えば、写生であろうと記憶であろうと描き方としては同じだった。例えばモデルとしての同級生のB子さんが目の前にいようと、運動場にいようと、B子さんは私の頭の中におり、それを描くだけだった。ただ目の前にいる場合、今日着ているセーターの柄や新しい擦り傷の跡があるといった細かいところが描けるという、それだけの違いだけだった。
しかし高校の授業は一転する。何せ、今まではリンゴや神社、B子さんという実体に対する私の認識を描けばよかったが、対象が視覚像に変わったからである。視覚像はその場限りのもので、家に持って帰って続きを描くなど言うに及ばず、3cm視点を移動するだけで今までの計測は無駄になるし、目をそらせば一瞬で消えてなくなる。石膏デッサンが難儀なのは視覚像は維持できないというところにある。
それでも高校を卒業して2年くらいは視覚像と本格的に格闘したが、結局、それを続けてもらちはあかぬと以前のもう一つの絵に戻るのだが、その頃の、絵の上手い子だったはずの仲間たちの多くは、先生の言った「これが美術の基礎だ」を信じフォンタネージを実践し、やがて沈没した。
今にして思えば、石膏デッサンと言う訓練法は、西洋の画家の建前を示すポーズだったのではないかと思ったりもする。それはどういうことかというと、石膏デッサンという訓練法を考えたのは新古典主義のダヴィッドであり弟子のアングルだが、彼らの精緻なリアリズムは、こうしたたゆまぬ努力の結果、体一つで成し得るということを喧伝するデモではなかったのかと。実際はホックニ―が「秘密の技法」で暴露するように光学機器を使っていたが、それはホックニ―が言うように、あくまで秘密の技法であり、表向きにはアカデミーなどで画学生が石膏デッサンに励むのを一般人に見せつけ、ダヴィットやアングルら、そして歴史に残るリアリズムの大家の値打ちを上げる工作ではなかったかと思う。
もし、そうであるなら、サンタクロースを信じるように、一般人がそれを信じても然したる弊害はないが、それを信じ沈没していった若き画学生は気の毒である。そしてそれを本心から信じていたのか、あるいは薄々は気付いていたのか解らないが、それを若者に教授するフォンタネージを始めとする多くの教師たちはやっぱり弊害だ。視覚像の転写など本当は不可能だし、絵の対象が視覚像だなんて、やっぱり不自然だ。
今にして思えば、石膏デッサンと言う訓練法は、西洋の画家の建前を示すポーズだったのではないかと思ったりもする。それはどういうことかというと、石膏デッサンという訓練法を考えたのは新古典主義のダヴィッドであり弟子のアングルだが、彼らの精緻なリアリズムは、こうしたたゆまぬ努力の結果、体一つで成し得るということを喧伝するデモではなかったのかと。実際はホックニ―が「秘密の技法」で暴露するように光学機器を使っていたが、それはホックニ―が言うように、あくまで秘密の技法であり、表向きにはアカデミーなどで画学生が石膏デッサンに励むのを一般人に見せつけ、ダヴィットやアングルら、そして歴史に残るリアリズムの大家の値打ちを上げる工作ではなかったかと思う。
もし、そうであるなら、サンタクロースを信じるように、一般人がそれを信じても然したる弊害はないが、それを信じ沈没していった若き画学生は気の毒である。そしてそれを本心から信じていたのか、あるいは薄々は気付いていたのか解らないが、それを若者に教授するフォンタネージを始めとする多くの教師たちはやっぱり弊害だ。視覚像の転写など本当は不可能だし、絵の対象が視覚像だなんて、やっぱり不自然だ。
幼児の描く絵のスタンダードは、家を描き、その中に父親と母親、それに自分を描く絵だが、この時、幼児は自分の家の外観を確かめに外になど行かないし、増してや自分の視覚像を計測したりはしない。彼女はリビングか自分の部屋で描くのであって、頭の中にある図像を抽出し、それを現実のシチュエーションに見立てるのだ。そして彼女の頭に在る図像とは絵本やマンガ、アニメから学んだ図像である。これをゴンブリッチは「図式」と呼ぶのだが、彼女の絵に関して在るのは、彼女の周りの現実と、それを表現する未だ貧弱かも知れないが、頭の中にある図像、もしくは図式であり、そこには視覚像など何処にも無い。
人間は言語を覚え、それにより現実を把握し表現するように、絵を描くのだと思う。絵とはそういうもので、これは私が親しんできた一方の絵と全くフィットする。
人間は言語を覚え、それにより現実を把握し表現するように、絵を描くのだと思う。絵とはそういうもので、これは私が親しんできた一方の絵と全くフィットする。
私が絵を描き始めたのは5歳くらいとすると、60を過ぎ、今、取り組んでいる俳画までの絵を俯瞰すれば、その創作原理は完璧に一致していると思う。ただ、視覚像と取り組んだ3〜4年を除いての話だが、その時期は反面教師になったとはいえ、限りなく無駄な時間だったと思う。
にほんブログ村
コメント
コメント一覧 (90)
これをどこかでやめないと視覚像は描けません。視覚像は対象を自然に見た時の脳内にしかないからです。私 (受験者) の視覚像と他者 (採点者) の視覚像とが一致する保証はどこにもなく,ただ同じ人類だから一致するだろうと信じるだけです。結局,視覚像は主観的なもので,見た人に共感してもらわなければならないのでしょう。
https://www.youtube.com/watch?v=F2kQibZLHmY
https://www.youtube.com/watch?v=Qv8cuvW1d5g
https://www.youtube.com/watch?v=E1P9js7LCp4
見える通り世界は実在するとは、言い換えれば、誰でも同じように実在する世界を見ているということであり、それが根拠となり石膏デッサンが今でも成立しているのです。しかしこれは何の裏付けもなく、あなたの言うように、私の視覚像と他者の視覚像とが一致する保証はどこにもないのです。その保証がないという大きな痕跡、証拠となり得るのが、かつての絵師の平行な廊下や空の表現なのです。あなたはそれを、廊下の「ハ」の字は絵師も知覚認識していたが様式のため描かなかった、と言うのでしょ。これは紛れもなく、私の視覚像と他者の視覚像とが一致する、あるいは強引にもさせたいとするフォンタネージ石膏デッサン信奉者の何物でもないでしょう。ここであなたと絵師の視覚像、あるいは知覚認識が証拠もないのに一致すると言い張るのなら、私の視覚像と他者の視覚像とが一致する保証はどこにもない、というのは変でしょう。言うことにまったく整合性がありません。
リアリズムを否定したら裁判など成り立ちません。私は実在しない,犯人も実在しない,だから私と犯人とを同一人と見なすことはできないと,被告人が主張したらどうしますか。
> そうした考え、設定、制度が視覚像をなぞるという透視法を発端に西洋で15世紀から17世紀に起こったのです。
これが嘘です。ルネサンスは 14 世紀の初頭にはもう始まっていましたし,狭義のリアリズムを主張したのは 19 世紀のクールべです。透視法は発端ではなく一技法であり,クールべですら透視法に従わないことがあるのです。
> その保証がないという大きな痕跡、証拠となり得るのが、かつての絵師の平行な廊下や空の表現なのです。
他者の知覚を直接知ることはできませんから,もとより保証はありません。しかし,人類の知覚は基本的にみな同じだとわれわれは直観しています。自分に見えるものは他者にも同じように見えるはずだと思うから,2 歳の幼児でも「これ見てー」と言って寄って来るのです。その結果,世界は見える通りに存在すると考える実在論が生まれます。そう考えた方が「都合がよい」のです。
確かにこれが通用しない場合もあります。そこで,われわれは知覚に個人差があること,あるいは知覚 (観測) 能力に限界があることを知るわけですが,だからといって「世界は実在しない」「昔の絵師は視力が無限大だった (遠くのものが小さく見えなかった)」「愚か者には見えない衣服というものがありうる」などと考える人はものすごく変な人です。
特に一致させたいとは思いません。始めから一致するものと信じているからです。
> ここであなたと絵師の視覚像、あるいは知覚認識が証拠もないのに一致すると言い張るのなら、私の視覚像と他者の視覚像とが一致する保証はどこにもない、というのは変でしょう。言うことにまったく整合性がありません。
そのようにとらえること自体が間違っています。キーワードは「人類」と「直観」です。「保証」や「証拠」は要りません。
私は違います。「これは本当にそうなのか」という風に絶えず疑っています。それは創作者だからであり、既成を疑うことは創作の必須の一要素です。そしてブッタやガリレオやセザンヌの例を出すまでも無く、その創作の足を引っ張る人が必ずいます。それは、その創作により自分の信じることが覆されるという理由だけで、真実の探求などは一切関係がないのです。ガリレオは星の運行というデータを証拠とし、地動説を発表しましたが、ただ信じる人々はそんな「証拠は要りません」と無視し、彼を異端審問にかけ投獄しました。そうした歴史的葛藤を繰り返し、データと実証が、つまり科学が「ただ信じること」に勝利しました。そうした現代においても尚、「キーワードは「人類」と「直観」です。「保証」や「証拠」は要りません。」と、ただ信じる人がいるということです。こうした人は、自覚は無いでしょうが、長い歴史を通じて創作の足を引っ張ているということは確かです。
信じるだけのあなたに歴史的データを示しても無駄だと思いますが、「世界は見える通りに存在するという実在論」が発生したのは西洋15世紀前後で、確立するのは17世紀のことです。もちろん18世紀まで日本には全くありませんでした。「見える通りに存在するという実在論」は人類の歴史を通して普遍ではなく文化の産物です。このことは当ブログで何度も取り上げています。
キーワードは「人類」と「直観」です。人類の直観に従って,客観世界の実在を前提としているのです。その前提に根拠は要りません。
事実は実在する世界の中にしかありませんから,実在する世界においてはじめて,「根拠」「証拠」が意味をもち,事実に合致する (「正しい」「本当」) か合致しない (「間違い」「嘘」) かが問題になるのです。
「根拠」「証拠」のない事物は実在しないと見なすというのは (数学を除く) 科学の態度ですが,その態度は実在する世界の中で有効なのです。実在する世界において有効なルールを,世界の実在自体を問うときに使うことはできません。あなたが「根拠」「証拠」と言うとき,それは世界が実在するという人類の直観の「根拠」「証拠」であり,もともと示しようのない不要なものです。
あなたにとっては,客観世界が実在しない以上,事実も存在しないし,「本当」も「嘘」もないということになるのでしょう。道理で,世界の実在を信じる立場からは,あなたは嘘の吐き放題にしか見えません。
> 私は違います。「これは本当にそうなのか」という風に絶えず疑っています。
それは奇妙です。あなたにとって「本当」に意味はないはずです。
> それは創作者だからであり、既成を疑うことは創作の必須の一要素です。
とにかく表現したいものがある,というのとは違うみたいですね。
釈尊の教えの「正しさ」は証明できません。実験して確かめることはできないし,例外がないともいえないからです。しかし,釈尊の言っていることは一面の真理だと,多くの人が直観しています。このような人類の直観に関わるのが宗教であり,芸術であり,文学です。精神分析やマルクス主義もその仲間だと思います。どれも科学とは相容れません。科学の対象にはなりえますが。
> ガリレオは星の運行というデータを証拠とし、地動説を発表しましたが、ただ信じる人々はそんな「証拠は要りません」と無視し、彼を異端審問にかけ投獄しました。
ガリレオは客観世界の実在を少しも疑っていませんでした。全然関係のない話です。
> データと実証が、つまり科学が「ただ信じること」に勝利しました。
プトレマイオスの権威を信じることに勝利したのであって,世界の実在を信じることに勝利したのではありません。「データと実証」は実在する世界の中で有効なものです。
> そうした現代においても尚、「キーワードは「人類」と「直観」です。「保証」や「証拠」は要りません。」と、ただ信じる人がいるということです。こうした人は、自覚は無いでしょうが、長い歴史を通じて創作の足を引っ張ているということは確かです。
世界は実在しない,自分が見ている世界と他者が見ている世界とは違うと思っている人の創作が,共感を得られた例はありますか。
> 「見える通りに存在するという実在論」は人類の歴史を通して普遍ではなく文化の産物です。このことは当ブログで何度も取り上げています。
それは書き残された言説という意味でしょう。「見て見て攻撃」で大人を困らせる 2~3 歳の頃から,人はみな実在論者です
やはりあなたは話の骨子を読み取る能力が著しく欠損しています。これはあなたみたいな、ただ信じるだけの人が、多くの創作の足を引っ張っているという例です。ガリレオの場合、足を引っ張られるどころか投獄されたのです。もし、あなたにそうした権力があれば恐ろしい世界です。無くて幸いです。そしてガリレオは客観世界の実在を疑っていなかったどころか、彼や直ぐ下の後輩のデカルトらは「見える通りに存在するという実在論」や「主客二元論」を創作した張本人と言えます。この場合、彼らのデータや論理が「見える通りに存在するという実在論」を生んだのです。そして皮肉なことに教会が「人類の直感」あるいは「神の意志」という「信じるだけ」に基づき、それを否定したのです。そのスタンスはダーウィンのデータや論理も無視し「人類の直感」あるいは「神の意志」に基づき、彼の創作も否定します。
教会の教理の原点は聖書と古代より引き継がれたプラトン実在論です。このことはプラトンやキリストが当時の信じるだけの人と戦い、創作するのですが、その創作が定着すると又、その創作の内容を信じるだけの人が現れ、次の創作の足を引っ張ります。つまり、技術の進歩などにより、内容を修正しようとする創作者と、その修正を阻む信じるだけの人が時代を通して必ずいるということです。当然あなたは後者です。
書き残された言説だけで充分だと思いますが、その他に絵画や詩などの多くの芸術がそれを示しています。そうした残された多くの遺物を無視や強引な曲解ができる神経が理解できませんが、それが何も考えない「ただ信じるだけ」の人の為せる技でしょう。
「「見て見て攻撃」で大人を困らせる 2〜3 歳の頃から,人はみな実在論者です。」には不備があります。この場合、「「見て見て攻撃」で大人を困らせる 2〜3 歳の頃から,人はみな見える通りに世界は存在するという実在論者です。」ということかと思いますが、幼児が描いた家族の絵が、本文でも言いましたが、なぜそれが見える通りに世界は存在することになるのか全く解りません。又、実在論にはプラトン以来の長い歴史があります。上で言ったプラトン実在論です。そしてその歴史に纏わる「普遍論争」という古代からルネッサンス初期にかけての長い神学論争が言説として残っています。「普遍論争」をググってください。その論争の一方は実在論者であり、その実在するものとはプラトンのイデアであり、つまり観念です。その実在の在りかが15世紀から17世紀にかけてダヴィンチや先のガリレオ、デカルトらの論理、データによって観念から見える世界に修正されたのです。同じ用語「実在」の意味するところが変ったのです。そして現代の言語学や物理学、認知心理学や脳科学の知見から、実在の在りかを再び見える世界から観念、あるいは概念に修正するということです。そしてそこには必ず時代を通して、内容はどうあれ、足を引っ張る「ただ信じるだけの人」がいるということです
ガリレオ: 客観的事実を示し,事実に反する迷信をうち破った。
ブログ主: 「客観的事実」が存在する「証拠」はなく,したがってそれは存在しない,存在するという人類の直観こそ「迷信」である,と主張。
全く無関係です。「骨子」って何ですか?
> これはあなたみたいな、ただ信じるだけの人が、多くの創作の足を引っ張っているという例です。
私は客観世界の実在を信じているのに,どうしてガリレオを「投獄」する必要があるのですか。いつもながら訳が分かりませんね。
> そして皮肉なことに教会が「人類の直感」あるいは「神の意志」という「信じるだけ」に基づき、それを否定したのです。
キリスト教は俗世の価値を否定しますが,俗世の実在を疑うことはありません (無いものの価値は否定しようがない)。ガリレオが対立した相手は教会権威と結びついていた古代ギリシャ~ローマの学説です。
ちなみに,ガリレオは軟禁状態に置かれましたが,投獄はされていません。どこからか資金が出ていて,天体観測やいろいろな研究を終生続けました。異端判決後も,著作が生前既にオランダで出版されています。
> そのスタンスはダーウィンのデータや論理も無視し「人類の直感」あるいは「神の意志」に基づき、彼の創作も否定します。
「データ」や「論理」は世界の実在を前提としていますから,世界の実在を否定するあなたとは無関係です。ダーウィニズムは (現生) 人類が世界の始めから人類だったのではない (らしい) ことを示しましたが,世界が実在するという人類の直観 (「直感」ではない) には何ら影響を与えません。
「修正」はすべて実在すると信じられている世界の中で行われてきました。世界の実在を否定するあなたは「あっち側の人」なので,何を言っても無関係です。
> 書き残された言説だけで充分だと思いますが
何も書き残さない無文字言語の話者は,何も認識していないのですか。
> その他に絵画や詩などの多くの芸術がそれを示しています。
世界は誰の目にも同じように見えるという,人類の直観を示しています。まれに同じように見えない場合は,何か異常なことが起こっているという直観をも示しています。
> 幼児が描いた家族の絵が、本文でも言いましたが、なぜそれが見える通りに世界は存在することになるのか全く解りません。
幼児の描く画はそもそも「見えた通り」を志向していません。3 歳ぐらいになれば,彼 (女) が見ている世界は大人が見ている世界とほぼ同じであり,もし「そうじゃないかも」と感じられる場合,その子供は心配です。これも人類の直観なのでまず外れません。医師が診察で最後に頼るのも直観です。
要するに,「子供の描く画から子供の認識が分かる」といった,いかがわしい学説を投げ棄てればよいのです。画は画,認識は認識です。どのみち認識したことの一部しか画に描かれませんし,環境によっては画を描いたことのない子供もいます。
>存在するという人類の直観こそ「迷信」である。
>私は客観世界の実在を信じているのに,どうしてガリレオを「投獄」する必要があるのですか。いつもながら訳が分かりませんね。
話の骨子を読み取る能力が著しく欠損しています。あなたとガリレオを異端とした教会は、何も考えずただ信じるだけで、創作者の足を引っ張ることで共通するということです。迷信はガリレオなどが提出した意見が受け入れられた後、未だ太陽が回っているなどを信じることです。かつて直観的に平らな地面や天動説が信じられていたのです。
>キリスト教は俗世の価値を否定しますが,俗世の実在を疑うことはありません
「普遍論争」をググってみましたか。「オッカム 唯名論」でもいいです。
>「データ」や「論理」は世界の実在を前提としていますから,世界の実在を否定するあなたとは無関係です。
逆です。「見える通りの実在」はガリレオなどの「データ」や「論理」により生まれたのです。それ以前はそんな前提はありません。そして今、「データ」や「論理」から「見える通りの実在」は無く、脳が構成したものであると多くの人が思っています。又、「データ」や「論理」から量子力学は実在そのものを否定しようとしています。興味ありますが私の領域ではないので、ここでは「見える通りの実在」=リアリズムの否定です。
違います。「普遍論争」「オッカム 唯名論」の次に「諸行無常」「色即是空」をググってください。
>世界は誰の目にも同じように見えるという,人類の直観を示しています。
これが「何も考えずただ信じるだけで、創作者の足を引っ張る」所以です。ググってください。
>「子供の描く画から子供の認識が分かる」
「見て見て攻撃」が「見える通りの実在」を示すとあなたが言ったのです。今更「幼児の描く画はそもそも「見えた通り」を志向していません。」とは骨子がありません。幼児であろうと大人であろうと絵描きであろうと、誰であろうと「見えた通り」など描けません。リアリズムを信じた人が「見えた通り」描こうとしているだけです。それが絵の対象は視覚像であるという信仰であり幻想です。そして幼児の描く絵は全ての絵の原型です。(写真原理絵画は除く)又それは概念そのもので認識されたものです。文章や「お母さん見て見て」などの発話がそうであるようにです。
今回の幼児の話などをみていたら日々感じてる事をまさに言われてると思います。
例えば写真を見ながら描いていても彼は見たまま描けないのです。
そして横でその写真を私が説明すると理解していわゆる見たままに近い絵を描けるのです。
丸いものも丸い説明をして初めて丸く描けるのです。
そういう事と今回おっしゃってる事は関係あるのかなと思ってます。
http://o-takeshi.blog.jp/archives/360928.html
「3」ではシューラという天才少女を取り上げましたが、H・ガードナーは西洋の発達心理学で彼女を読み解こうとします。しかしそれに反し、彼女はイラスト集を写していたことが解ります。サヴァンのナディア達を除くと、知的障害の方々の描く絵は、そうでない人達に比べ、より一層、視覚的では無く、概念的(文字的)です。あなたのお仕事に役に立つかどうか解りませんが、何か見つかるかも知れません。
確かに写真よりイラストや挿絵なんかの方が認識してもらいやすいです。
そしてそれ以上に言葉に反応されますね
完成した絵は凄く面白いです。
私自体が刺激を貰ってます
「客観世界は実在する」という直観を信じることと,実在する客観世界における現象をうまく説明できない学説を信じ続けることとの共通点を示してください。あなたの話には骨子など認められません。
> かつて直観的に平らな地面や天動説が信じられていたのです。
その「直観」は,それでは説明できない現象を説明することのできる客観的事実が示されたことによって否定されたわけですが,客観的事実が存在するという直観を否定するために,客観的事実を使うことはできません。また,「存在するという客観的根拠のない事物は存在しないものと見なす」というルールは,客観世界が実在することを前提としているので,客観世界の実在そのものを否定するために適用することはできません。あなたが言っていることは,仏教で言うところの「自分の体を自分の力で空中に持ち上げようとする」の類であり,完全な自己矛盾です。
なお,大地が球であることは,水平線を越えて遠ざかる船が帆柱を残して船体から消えていく,月食のとき月に掛かる影が円いなどの現象によって,ずっと昔に既に知られていました。また,天動説の時代にも精密な天体観測が行われており,どうにも計算が合わない,説明がつかない現象があることが既に知られていました。この種の認識は人類の直観にはあたらないと思います。
普遍的概念が実在するか否かが論じられたのであって,個物の実在が疑われたことはありません。あなたの誤解です。
> 「見える通りの実在」はガリレオなどの「データ」や「論理」により生まれたのです。それ以前はそんな前提はありません。
大嘘です。天体観測のデータははるか昔からありました。天動説ではどうやっても惑星の動きが説明できないため,地動説が支持されるようになったのです。
> そして今、「データ」や「論理」から「見える通りの実在」は無く、脳が構成したものであると多くの人が思っています。
あなた以外に誰がいるのですか。
> 「データ」や「論理」から量子力学は実在そのものを否定しようとしています。
これも嘘です。矛盾する観測結果を今は受け入れるしかないという態度をとっているだけです。
仏教は,どのように考えれば苦しまずに生きられるかという,心の操縦法を真理として求める宗教です。ですから,仏説はすべて「……と考えれば苦しまずに生きられる」と解釈してください。仏教には認識論だけがあって,存在論がありません。出家修行者は乞食と布施で生活していますから,認識論だけで生きられるかもしれませんし,むしろそうあるべきなのでしょう。しかし,在家はそうもいきません。犯罪者を客観的事実に基づいて裁かなければならないこともあります。「リアリズムの否定」など寝言にすぎません。
あるいは,世界は脳が構成したものだから,裁判はムダであり,皆に嫌われているヤツを処刑すればいいということでしょうか。恐ろしいですね。
> これが「何も考えずただ信じるだけで、創作者の足を引っ張る」所以です。ググってください。
何をググれと言うんですか。
> 「見て見て攻撃」が「見える通りの実在」を示すとあなたが言ったのです。今更「幼児の描く画はそもそも「見えた通り」を志向していません。」とは骨子がありません。
子育てに関わったことのなさそうなオヤジが何か頓珍漢なことを言ってますね。全く意味不明です。2 歳では普通なぐり描きしかできませんし,3 歳でもまだ画らしいものは描けません。描いたものを大人に見せたがることもあまりありません。しかも私は,画を描いたことのない子供さえ存在すると言っています。
> リアリズムを信じた人が「見えた通り」描こうとしているだけです。
早い子供なら 6~7 歳から,普通でも 8~9 歳から,見よう見まねでそういう描き方を始めます。
違います。唯名論者としてのオッカムの論争相手は、いわゆる実念論者で、実念論は明治以降リアリズムに対する造語であり日本独自です。しかし上手く訳したもので、観念(idea)が実在するというもので、これはプラトンから来ています。目の前(オブジェクト)にある個物は実体ではなく、実体はその下(サブジェクト)にあり、「その犬は黒い」の犬の下(サブジェクト)にある「犬」という観念が普遍実体で、目に見える「黒い(犬)」(オブジェクト)はただの変わりゆく現象だということです。これが当時の実在論であり日本語では実念論です。この後、実在論は「目に見える個物が実在する」と大きく変化しますが、明治の国語学者は180度異なる「実在」をそのまま放置したくなかったのでしょう。つまり「実在」という語の持つ意味が変化したということであり、当時の「実在」は目の前にある個物を指すものではそもそもなかったのです。オッカムの論争相手は、観念(idea)が実在するという実在論者だったというのが重要な点であり、あなたはシュプレヒコールを繰り返すことしか出来ないのでしょうが、「個物の実在が疑われたことはありません。」は、理論的にも意味的にもあり得無いのです。又、実在の変化と共にサブジェクトとオブジェクトも変化します。主観と客観は実に上手い訳ですが、この概念が成立するのは近代初頭です。カントが最初に定義したといいます。
>あなた以外に誰がいるのですか。
今、過剰すぎるほど、脳科学が流行っていて、数名のカリスマ脳科学者が喧伝しているでしょう。知らないのですか。又、生理学の分野でも人間はRGBを感知する視細胞しかないのにも関わらず、黄色が見えるのは脳が作っているためだといいます。
ガリレオは熱心なキリスト教信者であり、データの解析結果が教会と対立することは解っていましたが、それを撤回することはありませんでした。これが科学的態度であり重要なのです。それに引き換え、デカルトは審問裁判を恐れ、地動説発表を取り下げたとされています。
>「リアリズムの否定」など寝言にすぎません。
あなたにはこう言うしか手がないのでしょうが、これは全く幼稚なすり替えです。かつて西洋中世にも日本にも「見た通り世界は実在する」というリアリズムは無かったといっているのです。目の前の(オブジェクト)の非実在性も「諸行無常」「色即是空」も共通点があるということです。あなたが信じたいことを歴史や地域や個人に押し付け、捻じ曲げるというのは、…少しでも証拠があるのならまだしも、それも無く、ただシュプレヒコールとすり替えを繰り返すというのは、それは我がままで、利己主義というのです。そしてそのことはあなた自身、遠の昔に気付いていることと思います。
>2 歳では普通なぐり描きしかできませんし,3 歳でもまだ画らしいものは描けません。
あなたやH・ガードナーらは発達の五段階説を信じ、子供は写実に到達すると言うのでしょうが、それは盲信です。私も娘もそれはありませんでした。それにそもそも明治までの子供には写実というものがどこにも存在しなかったのです。
混乱していませんか。ヒステリーですか。上でも言いましたが、当時、特に教会では「実在する客観世界」など何処にもありません。実在するのは「観念(idea)」であり、実体ではないオブジェクトが「客観」に変化するのはずっと後です。当時、直観としてはダヴィンチもガリレオも教会の実在論者も同じ実念論だったと思います。しかしガリレオは自分の直観や信じる神に反する解析を見つけてしまうのです。こうした葛藤があって実在論が反転し主観客観が生じ、あなたの直観に至るです。
>客観的事実が存在するという直観を否定するために,客観的事実を使うことはできません。
ガリレオの頃と全く同じように、今まで直観的に信じていた客観的事象に反するデータが技術の進歩により出てきたのが現在です。そのデータを見出した人は、内容は異なりますが創作者としてのガリレオの立場と同じと言えます。そして内容は異なりますがそれを否定し創作者の足を引っ張るあなたは当時の教会と同じだと言えるのです。
>「存在するという客観的根拠のない事物は存在しないものと見なす」というルールは,客観世界が実在することを前提としているので,…
ヒステリーですか。客観がカントからだとすると、主観客観という概念はたかだか200年ちょいで、日本では100年ちょいです。今、客観世界という実在性が疑われているのです。
違いません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E9%81%8D%E8%AB%96%E4%BA%89
「個物とは中世において自明的に存在すると考えられた個別的な事物のことで」「個物が存在することは疑いがないが」と書いてあるでしょ。
個々の薔薇の花はいずれは枯れ,消え失せてしまう。しかし,「薔薇」という花の名前は永遠に残る――ウンベルト・エーコの小説『薔薇の名前』に引用された,普遍論争に関わる中世の詩です (原文はラテン語)
> 今、過剰すぎるほど、脳科学が流行っていて、数名のカリスマ脳科学者が喧伝しているでしょう。知らないのですか。
知りません。例えば誰ですか。その人たちは,実在しない世界で実在しない原稿料やテレビ出演料を受け取っているのですか。
事実を明らかにするものはデータであって,教会が主張する価値観ではないと,ガリレオには分かっていました。なおかつ,価値観は事実によって揺るがされるものではないと,彼は考えていたでしょう。
もし,データが世界は実在しないということを指し示した場合,ガリレオならどう考えるでしょうか。世界が実在しないということは,データも実在しないということです。しかし,科学者としてデータを無視することはできません。予想される答は 1 つです。すなわち,当該の現象について,人間は今のところ観測する方法を持っていない,自身の努力も含めて将来に期待するほかないということです。ガリレオが,ああ,世界は実在しなかったんだと納得して,研究をやめてしまうようなアホだったとは考えられません。そして,量子力学の立場も同様です。
「シュレーディンガーの猫」というたとえ話は,箱を開けずに猫の生死を知ることはできないという前提に立っています。もしこれがたとえ話でなく実際の状況だったら,箱を開けずに猫の生死を知る方法は,現代の技術を使えば確実にあります。自分で考えてください。
> あなたにはこう言うしか手がないのでしょうが、これは全く幼稚なすり替えです。
何を何にすり替えているのですか。説明してください。
仮に,そんなことを明言した人はいなかったとしましょう。それでも,すべての人間が「リアリスト」です。そうでなければ誰も 1 日も生きていけず,人類はとうに滅びていたでしょう。
> あなたやH・ガードナーらは発達の五段階説を信じ、子供は写実に到達すると言うのでしょうが、それは盲信です。私も娘もそれはありませんでした。
五段階説なんて知りませんし,どれくらい描けるようになるかは個人差が大きいですが,たいていの子供は写実 (みたいな画) に到達します。到達しない子供は要するにセンスがないということです。
> それにそもそも明治までの子供には写実というものがどこにも存在しなかったのです。
それはあたりまえです。絵師に弟子入りしないかぎり,ほとんど,あるいは全く画を描くことなく,人々は一生を終えたでしょう。
> 上でも言いましたが
上でも言いましたがあなたの間違いです。
> 客観がカントからだとすると、主観客観という概念はたかだか200年ちょいで、日本では100年ちょいです。今、客観世界という実在性が疑われているのです。
ほう。それなのに,「存在するという客観的根拠のない事物は存在しないものと見なす」というルールは有効なのですか?
現に人類は生き延びています。それに中世までの「リアリスト」は観念が実在するというリアリズムです。「見た通り世界は実在する」というリアリズムは西洋でたかだか200年、日本で100年です。そしてこの先、又、変わろうとしています。
>たいていの子供は写実 (みたいな画) に到達します。
深く考えもしないで自分の思うことばかり言ってないで、資料を漁ってください。それに「みたいな画」とは何ですか。そこは子細な説明が必要です。
>あるいは全く画を描くことなく,人々は一生を終えたでしょう。
想像ではなく、資料に基づいて言ってください。江戸期には世界的に見ても文化度が高く、識字率や襖の普及率などは高かったのです。襖は絵のメディアであり、武家、商家、寺社、農村に普及していました。それに寺子屋がありました。
>「存在するという客観的根拠のない事物は存在しないものと見なす」というルールは有効なのですか?
現在ではその論拠は生きていますが、客観が無かった頃でも政治、哲学、学問はあったのだし、それは容易に想像できます。以前、コメントで「客観」を取り上げたことを思い出しましたが、あなた、「客観」という意味、解ってます?
>世界が実在しないということは,データも実在しないということです。
何故そうなるの?客観的物質世界が実在しないというデータもあるのです。それにあなたは頑固にも近代の実在に囚われています。前回も言ったように、中世の実在は今のとはかなり異なっており、もし量子力学が客観的物質世界の実在を全否定しても、中世の実在論者は「やはりそうでしょう。」と言うだけです。
…そうか!…解りました。あなたは客観的物質世界が実在しないということは何もかも消えてなくなると思っているでしょう。ハハ…。それは単に実在の意味を知らないでけです。「実在(じつざい、英: reality)は、認識主体から独立して客観的に存在するとされるもの。 実在は認識主体により生み出されたものと区別される。…」
ここではっきり解りました。あなたは単に「実在」という意味が解ってないのです。実在(reality)=存在(existence)と思っているようですがこれは違います。存在は非実在でも在り得るのです。そうでなければ、つまり、個物=実在=存在ならば唯名論者と実在論者の論争など意味ないでしょ。ここで重要なのは当時の実在は実念、つまり観念だったということです。オッカムはそれを変革する創作者の一人だったのですが、その後、唯名論はソシュールによって綺麗に否定されます。記号学者でもあったウンベルト・エーコは『薔薇の名前』においてオッカムを修道士ウィリアムとして登場させ、その弟子アドソの実念論への転向を綴ります。あなたが引用した、あるいはエーコが引用した「個々の薔薇の花はいずれは枯れ,消え失せてしまう。しかし,「薔薇」という花の名前は永遠に残る」というのが正にそれで、目に見える移ろいゆく個物と、普遍の観念の対比であり、これが中世の実在論です。記号学がそれに一致するとは思えませんが、エーコの小説は興味深いものがあります。
「見た通り世界は実在する」という直観は,現生人類が発生してから絶滅するまで不変です。観念が実在するなどというのは中世の実在論者だけです。ただ,錯覚ということもあります。これもどんなときに起こるか,視覚が重要な生業をもっている人は,経験的に知っていたでしょう。
> そしてこの先、又、変わろうとしています。
「又」って何ですか? 変わったら人類は滅びてしまいますから,変わりません。
> 深く考えもしないで自分の思うことばかり言ってないで、資料を漁ってください。それに「みたいな画」とは何ですか。そこは子細な説明が必要です。
到達しなかった子供を知らないので,特に資料は要りません。「写真と見紛うように描けなければ写実ではない」とか,どうせまたあなたはクッダラナイことを言い出すでしょう。それで「写実みたいな画」としたのです。視覚像を写そうとする描き方を,ほとんどの子供はある時始めます。どこまで成功するかは子供によります。
だから誰もが今の子供と同じように画を描いていた,それが資料に基づく結論だと言うのですか? 寺子屋で画を教えたという話は聞いたことがありません。
群青は 60g で米 1 俵 (約 30kg) 買えたといいますから,今の 3 万円以上,その 1/10 の値段だったという緑青でも 3 千円以上に相当します。画はかなり裕福でないと,素人が描けるものではなかったことが分かります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%8D%E9%8A%85%E9%89%B1
http://www.teiocollection.com/kakaku.htm
> 現在ではその論拠は生きていますが、客観が無かった頃でも政治、哲学、学問はあったのだし、それは容易に想像できます。
客観という概念がなかった頃でも,世界は見えるとおりに存在するととらえられていたことは容易に想像できます。
> 従って蓋を開けずX線やエコー、磁気で測定したとしても、それは測定ですから、収縮が起き、どちらかのネコが測定されます。
それらの方法ではダメですね。本質的に蓋を開けるのと同じです。もっとよく考えてください。たとえ話でないなら何をしてもいいのです。
観測結果が矛盾する場合も,科学者はそれを受け入れなければなりませんが,「だから世界は実在しないんだ!」ではなくて,われわれはまだ観測の方法を知らないのだと考えるべきなのです。観測を何よりも重んじたのがまさにガリレオであり,望遠鏡を駆使しました。
「データ」ってどこにあるんですか? 世界の外ですか? 世界の外ってどこですか?
> あなたは単に「実在」という意味が解ってないのです。実在(reality)=存在(existence)と思っているようですがこれは違います。
そういうゴマカシが来るのも予想どおりです。「…唯名論者は……実在するのは具体的な個々の個物であるとした。つまり、人間のミケーレや犬のフェリスや柏の巨木が、個物(レース)として実在しているのである」と書いてあるでしょ。個物の実在が疑われたことはないのです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E9%81%8D%E8%AB%96%E4%BA%89
> 存在は非実在でも在り得るのです。
そのような「存在」は,普遍論争の出発点では問題になっていません。
> 個物=実在=存在ならば唯名論者と実在論者の論争など意味ないでしょ。
いいえ。普遍的概念が実在するか否かが論じられたのであって,個物が実在することを疑った人はいません。なお,実在するものは必ず存在するので,「実在」は「存在」に含まれます。
> その後、唯名論はソシュールによって綺麗に否定されます。
ソスュールが否定したのは実在論の方です。ソスュールにそのような意図があったかどうかは知りません。
これはあなが信じることなのでしょうが、そんなシュプレヒコールを繰り返すだけでなく根拠を示してください。…このセリフを幾度繰り返したことか…。解っているのでしょうけど、そんなシュプレヒコールを繰り返したところで何も変わりません。
例えば、「現実 rieality」に対応する江戸期までの日常的言葉として「現 うつつ」があります。これを古語辞典で調べると「起きている状態」「生きている状態」であり、それが抜けると夢うつつです。一方「現実 実在 rieality」は寝ていようが死んでいようが認識主体とは関係なくそこに在るという全く異なった考えになります。それが実在=riealityです。かつての日本人は直観的に現実世界を前者のように捉えていたことが伺えます。…というような根拠を示してください。
>到達しなかった子供を知らないので,特に資料は要りません。
あなたは到達したとでも言うのですか。よく考えてください。現に私も娘も家内も…家内は美学出身の画家です…隣のおばちゃんも、私が受け持った多くの学生たちも、誰一人としてそんな人はいません。大人になってから、リアリズムを盲信し、沈没していった可哀想な人は数人いますが、日本において「視覚像を写そうとする描き方を,ほとんどの子供はある時始めます。」と言える根拠を示してください。
リンクの資料は面白かったです。それによると浮世絵が天ぷらそばと同額だったと言うのは驚きです。今、天ぷらそばは幾らしますか。1000円くらいでしょう。高級店で1500円から2000円くらい?つまり浮世絵版画が1000円から2000円で売られていたということです。今時、美大生が画廊で売っている版画でも1000円から2000円はないでしょう。あればお買い得です。大量出版の少年ジャンプが250円、週刊新潮が400円、青林工藝社の季刊アックスが933円、月刊美術手帳が1728円。ネットオークションでの浮世絵版画落札価格が平均10000円で京都浮世絵版画保存協会の新作なら数万円します。西洋を虜にした精緻きわまる多色刷りの木版画が当時、天ぷらそばと同額など、こんな文化的な国、何処にも無いでしょう。
あなたが知らないだけです。インテリジェンス=情報量の問題です。シュレディンガーやノイマン、ペンローズを読めとはいいませんが、それらとはうんとレベルが下がる「どうして空は青いのか?」を読めば解ります。視覚生理学は客観的物質世界の実在を否定する論拠を提示し、片や、青の波長うんぬんという一般的解答は素朴実在論をベースにしているということです。
>個物の実在が疑われたことはないのです。
疑われたことがないのなら、論争など起きません。又、ここウィキペディアにはアリストテレスが「実在するのは具体的な個々の個物であるとした」と書かれていますが、これは疑問です。もしここでアリストテレスとプラトンの対立する実在が均衡するならば、何故普遍論争で実在論者VS唯名論者だったのかです。均衡するならば「実在論争」であり、そうではなく言葉「実在」の意味するのは観念の実在だったのです。重要なのはその後、同じ言葉が「見える通りに世界は実在する」と変化したことです。
「人間が樹立する事物間の絆は、事物に先立って存在し、事物を決定する働きをなす。」ソシュールの有名な言葉です。(万物流転の)ヘラクレイトスは個物と名称は自然的に結び付いており、(原子論の)デモクリトスは結びつきは単なる慣習だという。これをいずれも言語命名論といい、これが「普遍論争」の原初です。ソシュールはこの言語命名論自体を否定するのです。実念論と唯名論の否定です。
●リアリズム(実在論)(写実)の否定、あるいは懐疑する、私が提出する根拠。
1かつての日本の絵、あるいは文学には一人称視点が一切なかった。又、青空も描かれなかった。
2かつての日本の絵制作において、対看写生(実物写生)が為された痕跡が全く見つからない。仮に見つかったとしても、視覚像を対象にしたとは100%言えないが、見つからない場合は視覚像の対象は100%無かったと言い切れる。又、反対に、絵手本であった粉本や画帳は山ほど残っている。
3視覚の記憶による維持は殆ど不可能という私の実感と科学実験による実証。
4視覚が対象として関与しない絵制作の私の実感と、マンガ家や多くの画家の視覚が対象として関与しない制作実態。
5一人称視点絵画(透視法)の原初が光学機器によりなされたという辻茂の書籍と光学機器が19世紀まで日常的に使われていたというホックニーの書籍。
6「画家は見たものは描けない」模写により獲得される「図式」によって作画される、というゴンブリッチの書籍とその論証のため集められた膨大なデータと論考。
7視覚生理学や脳科学、物理学の知見。
8かつて日本で日常的に使われていた言葉「現 うつつ」「現身 うつしみ、うつせみ」などが持つ意味。又、「色即是空」「諸行無常」の意味。反対に現実世界の実在を意味する言葉は皆無。後は略。
●リアリズム(実在論)(写実)を唯一の絵制作とするあなたが提出する根拠。
1あなたの直感。その直観に基づくシュプレヒコール。
以上です。
ですから,根拠は要らないのです。根拠が必要だと思う方が何かの病気です。※「シュプレヒコール」は 1 人ではできません。
世界が見える通りに実在しなくなった (と感じられる) ときの混乱をうまく表しているのが,アンデルセンの「裸の王様」です (原作は 14 世紀のものらしい)。あるいは,ホラー映画でよくあるでしょう,朝起きたら夫が別人に変わっている,それなのに,他の家族も近所の人たちも,あなたの夫は間違いなくこの人だと言う……
> あなたは到達したとでも言うのですか。よく考えてください。
自分の経験に基づいて言っているのです。クラスメートたちも,図工の時間の写生はマンガやイラストとは違うと,ちゃんと心得て描いていました。
> 現に私も娘も家内も…家内は美学出身の画家です…隣のおばちゃんも、私が受け持った多くの学生たちも、誰一人としてそんな人はいません。
そうですか。では仕方がありません。※隣のおばちゃんの子供の頃はよく分からないと思うんですが。
> こんな文化的な国、何処にも無いでしょう。
だから, 誰もが今の子供と同じように画を描いていたと言うのですか。答えてください。それと「大日本病」うざいです。
はい,知りません。量子力学の観測データはどこにあるのですか。そもそも,観測データというからには,何かの現象を対象として観測したものでしょう。その現象はどこで起きたのですか。答えてください。
> インテリジェンス=情報量の問題です。
うわっ,こりゃダメなはずだわ。データベースに知性がありますか?
それより,収縮を起こさずに猫の生死を観測する方法は分かりましたか? わりあい身近なものですよ。
> 視覚生理学は客観的物質世界の実在を否定する論拠を提示し、片や、青の波長うんぬんという一般的解答は素朴実在論をベースにしているということです。
色彩は実在しませんが,いろいろな波長の電磁波は実在します。
> 疑われたことがないのなら、論争など起きません。
起きますよ。個物が実在するのは自明であり,普遍的概念が実在するか否かが普遍論争の焦点だったのですから。あなたがいくら頑張っても,普遍論争はあなたが考えているようなものとは違います。しつこい。
嘘です。多くの日記作品が書かれました。
> 見つからない場合は視覚像の対象は100%無かったと言い切れる。
言い切れません。スケッチがすべて散逸した可能性が残るからです。
> 視覚の記憶による維持は殆ど不可能という私の実感と科学実験による実証。
「殆ど不可能」だから,対象を見ながら描くんでしょうに。
> 視覚が対象として関与しない絵制作の私の実感と、マンガ家や多くの画家の視覚が対象として関与しない制作実態。
何を描いたものか分からないということにならないのは,絵手本に視覚が対象として関与していたからです。
> 一人称視点絵画(透視法)の原初が光学機器によりなされたという辻茂の書籍
嘘です。辻茂氏は『遠近法の発見』 (現代企画室,1996 年) で,「遠近法にも前時代からの経験の蓄積があった」ことを明確に述べています。
> 「画家は見たものは描けない」模写により獲得される「図式」によって作画される、というゴンブリッチの書籍とその論証のため集められた膨大なデータと論考。
ゴンブリッチ自身が,画の基になった図式が消えてしまうまで,画が視覚像に合わせて修正されることがあると述べています。実質的に視覚像を写していることになります。
> 視覚生理学や脳科学、物理学の知見。
ブログ主はそれらを理解していないようです。
> 反対に現実世界の実在を意味する言葉は皆無。
当然すぎて言及する必要がなかったと考えられます。
> リアリズム(実在論)(写実)を唯一の絵制作とする
唯一と言った覚えはありません。人を惹きつける点で写実にはなかなか敵わないという趣旨のことは言いましたが。
> あなたの直感。その直観に基づくシュプレヒコール。
直観の完勝です。あなたを除くすべての人の直観ですから,それこそシュプレヒコールが起こるでしょう。「王様は裸だ!」「この画は本物そっくりだ!」と。
あなたの直観が、何の根拠もなしに多くの人の直観であると言ってしまえるのは、正にあなたこそ充分に「裸の女王様」の特徴を備えています。…「裸の女王様」!?…何か卑猥ですね。
又、「色彩は実在しない」…それでいいです。我々が見る世界の多様な色彩は我々の脳がつくるのです。そのことだけでも「世界は見える通り実在する」は無いのです。
いえいえ,最初から根拠はありませんし,要りません。
> 私の意見の訂正や間違いを認める可能性が100%無くなったということです。
反知性主義の典型ですね。しかも嘘つきですし。
小学生の頃の記憶はやや曖昧ですが,遅くとも中学生になって,美術の時間に「例えばモデルとしての同級生のB子さんが……それだけの違いだけだった」といった描き方をする生徒はいませんでした。はじめての石膏デッサンも,上手な生徒は誰に習ったわけでもないのに,けっこうサマになっていました。美術系の高校で「クラスの誰一人、それを上手く描け」なかったというのは,虚偽だと思います。
> あなたの直観が、何の根拠もなしに多くの人の直観であると言ってしまえるのは
言ってしまえない人は,裸の王様と同様,詐欺師に騙される人です。
自分に見えない衣装は,他人にも見えない,誰にも見えない,つまり客観的世界に実在しないのです。その直観にどんな根拠が必要だというのでしょう。
> 我々が見る世界の多様な色彩は我々の脳がつくるのです。そのことだけでも「世界は見える通り実在する」は無いのです。
「脳がつくる」の意味が分かっていないと思います。色を感じさせる何ものかが外界に実在することは間違いありません。色彩自体が実在しないことは,白色光をプリズムでスペクトルに分光し,それをまたプリズムで白色光に戻すという,ニュートンの実験によってはじめて明らかになったのです。他の現象について同じ資格の実験ができないにもかかわらず,「そのことだけで『も』」と言うことはできません。あくまで「そのことだけ」です。
なお,「シュレーディンガーの猫」については,私と似たことを考えている人がいたので,リンクを貼っておきます。
http://www.asahi-net.or.jp/~jc1y-ishr/yota/SchroedingerCat.html
これは毎日新聞に載った論評らしいですが、…私は百田さんへのこうしたラベリングには問題があると思っていますが…この論者の反知性主義の定義は、あんたそのまんまではないですか。このブログで「批判は受け付けつける」からコメント欄を設けているのです。その批判に正当な根拠があるなら、いくらでも意見を修正し、場合によっては取り下げます。そのためのコメント欄です。しかし何の根拠も示さず、そして「要らない」とまで公言し、自分の直観が100%正しいと「自分こそ正しい」と「批判は受け付けない」ただただ、シュプレヒコールを繰り返す。これが反知性主義の典型なんです。根拠を出し合い、議論することが「自分こそ正しい」「批判は受け付けない」ではない態度なんです。又、この場合のシュプレヒコールは誰の賛同も得ず、ただ独りぼっちで繰り返す、寂しいシュプレヒコールという意味です。
>色を感じさせる何ものかが外界に実在することは間違いありません。
それでいいです。後は物理学や脳科学の分野になり、私の専門ではありませんから、ここでは我々が見る色彩に満ちた世界は、色彩は実在しないことによって、少なくとも「世界は見えた通り実在する=リアリズム」は否定されるということです。
⑴測定前の物理量は実在しない、もしくは測定前の物理量について議論をすることは無意味だ。⑶射影公理を認める。(状態の収縮を認める。)⑷粒子と波の二重性を認める。…からの「状態の収縮を認める」が「状態の重なり」を認めなかったシュレディンガーがアンチテーゼ、あるいはアイロニーとして提出したのが「シュレディンガーの猫」の話です。どうやって蓋を開けず、ネコの生き死にを確かめるかという話ではないのです。もしそうだとしても観測に繋がる機器を設置した時点で重なりが収縮するならば、どちらか一方しか観測されないのではないですか。心電図や光子モニターも観測機器です。この状態の重なりは⑷粒子と波の二重性を認める。に関係していると思われ、有名な二重スリット実験に原初があると思います。それについては「花田恵理の画廊における試みと量子力学」(リンク:シュレーディンガーの猫の撮影に成功)「リアリズムと量子力学」で取り上げています。
本質からは少しずれてますね。反知性主義の根幹は事実の軽視あるいは無視,嘘への無頓着です。どのような理由であれ,「私の意見の訂正や間違いを認める可能性が100%無くなった」すなわち間違いを認めず直さない,嘘を吐き続けるということです。
たしか,記事の石膏デッサンを 2 時間足らずで描いたと言ってましたよね。それも絶対に嘘です。4~5 時間はかかるはずです。
https://www.youtube.com/watch?v=IeFuZEu1gF4
> しかし何の根拠も示さず、そして「要らない」とまで公言し、自分の直観が100%正しいと「自分こそ正しい」と「批判は受け付けない」ただただ、シュプレヒコールを繰り返す。これが反知性主義の典型なんです。
根拠を要しない直観があると理解するのも知性です。われわれは現にそのような直観に頼って生きているのです。「王様は裸だよ!」と叫んだ子供 (14 世紀の原作では黒人奴隷だったという) がどんな根拠をもっていたというのか,答えてください。
> それでいいです。
世界は実在しないのではなかったのですか?!
> 少なくとも「世界は見えた通り実在する=リアリズム」は否定されるということです。
ウィキペディアの「素朴実在論」の備考に,興味深い記述があります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%A0%E6%9C%B4%E5%AE%9F%E5%9C%A8%E8%AB%96#.E5.82.99.E8.80.83
「世界は見えた通り実在する」の否定は,「世界は見えた通り実在することもあり,実在しないこともある」となります。リアリズムは実在する場合を問題にしているのです。
・逃げ水は実在しないが,水溜りは実在する。
・蜃気楼は実在しないが,オアシス都市は実在する。
・映像は実在しないが,俳優たちは実在する。
・色彩は実在しないが,石膏像は実在する。
現象ごとに考えなければなりません。
実験が始まる前から設置しておけば,そもそも重なりは生じず,収縮も起こりません。
> この状態の重なりは⑷粒子と波の二重性を認める。に関係していると思われ、有名な二重スリット実験に原初があると思います。
つまり,光がスリットを通り抜ける過程の様相を観測できればよいわけです (猫に心電図を付けて箱の外からモニターするのと同じ)
それができたら苦労はないって? その通りです。この場合は,観測の方法に限界があるために,矛盾した結果が生じているのです。
>根拠を要しない直観があると理解するのも知性です。
直観はあります。このブログを書こうというモチベーションの80%くらいは私の直観です。しかしこの直観をあえて表に出さないのは、この直観が普遍性を持つかどうかで、実際、あなたの直観と対立しています。従ってこの直観をホロ―する根拠や証拠、データが要るのは当たり前でしょう。その根拠が要らないというのは、そこには「自分こそ正しい」「批判は受け付けない」「自分の直観だけが正しい」という単なるシュプレヒコールの繰り返しであり、これが反知性主義の典型です。巷ではこれを「輩」というのです。そんなものに何を答えろというのですか。根拠や証拠を出し合ってこそ議論は成立するのです。
顔だけのスケッチなら20分くらいでできます。あなたは一年かけてもこのレベルのデッサンが描けないだろうというように、人それぞれです。ここにも「自分こそ正しい」「自分の直観だけが正しい」という反知性主義が表れています。巷ではこれを「輩」というのです。
>リアリズムは実在する場合を問題にしているのです。
違います。「世界は見えた通り実在することもあり,実在しないこともある」…こうした文章は「無意味」といいます。結局「実在しない」です。「神を信じることもあり、信じないこともある」…は「信じない」ということです。「禁煙をする時もあり、しない時もある」…は「禁煙しない」ということです。
実験を始める前に設置した時点か(シュレーディンガー)、それを観測した時点で重なりは収縮するということです。観測という行為が対象物に影響を与えるというこどです。あなた、頭は動いていますか?
あなたの直観には普遍性がなく,私の直観には普遍性があります。
・裁判で,私は実在しない,犯人も実在しない,だから私と犯人とを同一人と見なすことはできないと,被告人が主張したらどうしますか。あるいは,世界は脳が構成したものだから,裁判などムダであり,皆に嫌われているヤツを処刑すればいいということですか。
・世界は実在しない,自分が見ている世界と他者が見ている世界とは違うと思っている人の創作が,共感を得られた例はありますか。
・何も書き残さない無文字言語の話者は,何も認識していないのですか。
・カリスマ脳科学者とやらは,脳が構成した実在しない世界で,実在しない原稿料,講演料,テレビ出演料を受け取っているのですか。
・「リアリズムの否定」など寝言にすぎないというのは,何を何にすり替えているのですか。
・江戸時代にも誰もが今の子供と同じように画を描いていたと言うのですか。
・量子力学の観測データはどこにあるのですか。また,観測の対象となった現象はどこで起きたのですか。
・「王様は裸だよ!」と叫んだ子供は,どんな根拠をもってそうしたのですか。自分に見えない衣装は,他人にも見えない,誰にも見えない,つまり客観的世界に実在しないという直観に,どんな根拠が必要なのですか。
・世界は実在しないはずなのに,色を感じさせる何ものかが人間の外界に実在するというのはなぜですか。
あなたは,この記事についてだけで,これだけの問いに答えることができませんでした。私の直観に従えば,1 つの疑問も生じません。
根拠や証拠の目的をあなたは勘違いしています。直観では決められない場合に,根拠や証拠が重要になるのです。これを逆転させると,「天皇や吉永小百合はウンコをしない」といったおかしな命題が生じます。あなたが以前に持ち出した下品な例ですよ。
> 顔だけのスケッチなら20分くらいでできます。
そんなこと聞いてません。記事のデッサンが 2 時間やそこらで描けるのかと言っているのです。前に 2 時間で描いたと言いましたよね。
> こうした文章は「無意味」といいます。
無意味なのは「リアリズムの否定」です。
> 結局「実在しない」です。
私もあなたも実在しないんですね。では,ここで一体何事が起こってるんでしょう?
> 「神を信じることもあり、信じないこともある」…は「信じない」ということです。「禁煙をする時もあり、しない時もある」…は「禁煙しない」ということです。
これらの文は,「(自分の眼に) 見えた (通り)」のような従属節を伴わないので,無関係です。
> 実験を始める前に設置した時点か(シュレーディンガー)
シュレーディンガーが「実験を始める前に」と述べている文章を引用してください。
それはあなたが勝手に決めることですか?「自分こそ正しい」「批判は受け付けない」これが反知性主義の典型です。巷ではこれを「輩」というのです。裁判はそのためにあるのです。根拠、証拠を提示し合い、そのどちらが整合性があるかを判定するのです。根拠、証拠は必要無い、「自分の直観こそ正しい」と言っているのはあなたです。裁判などムダであり,皆に嫌われているヤツを処刑すればいいと言っているのはあなたです。こうした人を巷では「輩」あるいはテロリストというのです。
●共感を得られた例はありますか。…以下質問略。
少なくとも絵に関する私のキャリアはあなたとは比べものにはならないでしょう。異論があるならあなたのキャリアを提示してください。
●何も書き残さない話者がいるというのなら、まずその根拠を提示してください。
●実在しないということが実証されればそういうことです。●意味不明です。
●当時の日本の子供たちは世界で絵を描く比率は高かったと思っています。現在の子供と同じなどとは言っていません。
●色彩の非実在から少なくとも「見える通り世界は実在する」は無いと言い切れると言ったのです。色彩を感じる何かが実在するというのなら、ありとあらゆる表象、例えば絶望、空虚、幸福、夢、美醜、旨い不味い、不快、快楽、恐怖、意識、概念等々に対応する何かが実在することになってしまいます。
あなたの直観に問題がなければ勝手にすればいいのです。ただし人の直観が間違いだと口出す限りは、正常な限り、そこには根拠、証拠などの論証が最低限必要なのです。
あなたの直観と私の直観が対立しているこの場合が正に根拠や証拠が必要なのです。しかしあなたは強引にも、反社会的にも、やくざであるが如く、根拠や証拠など必要ない、自分の直観こそが正しい、私の直観は間違っているから問答無用で撤回せよと言っているのです。これが反知性主義でなかったら一体何かということです。巷ではこういう人を「輩:ヤカラ」というのです。
>前に 2 時間で描いたと言いましたよね。
約2時間で描きました。当時、関西美術院に朝10時ころ出向き、昼過ぎには仕上げ、後は食い扶持を稼いでいました。この事実を何をもって否定するというのですか。どういう根拠であなたが否定できるというのですか。それでは私の受賞歴や公立美術館の所蔵も全て嘘だと否定してください。いいですか、あなたと私は”チ・ガ・ウ”のです。糞もミソも一緒くたにしないでください。
>「(自分の眼に) 見えた (通り)」のような従属節を伴わないので,無関係です。
いいですか、このブログは「見えた通り描く」ことが本当に可能なのかということを論じているのです。知らなかったの?「世界は見えた通り実在することもあり,実在しないこともある」…という文は「実在」の意義を取り違えているということで「無意味」なのです。「信じる」は「信じなかった」時点で「信じる」とは言えないのです。「禁煙」は喫煙した時点で「禁煙」とは言えないのです。それと同様に「実在」が在ったり無かったりするのは「実在」とは言えないということです。何故ならばそういう意味だからです。
実験を始める前にではなく、実験を始める前の観測装置を設置した時点です。これは「量子力学とリアリズム」で引用した「量子力学の哲学」森田邦久著 講談社現代新書刊に書いてありました。私がシュレディンガーに直接会って聞いた話ではありません。
いいえ。あなたが多くの問いに答えられず,私の直観に従えば疑問が生じないことによって決まります。
> 裁判はそのためにあるのです。根拠、証拠を提示し合い、そのどちらが整合性があるかを判定するのです。
その根拠,証拠は,世界は実在する,誰が見ても同じだということを大前提としています。その前提自体の「根拠」「証拠」は問われません。自明だからです。
> 裁判などムダであり,皆に嫌われているヤツを処刑すればいいと言っているのはあなたです。
無意味な鸚鵡返しです。リアリズムを否定すれば裁判は成立しません。
> 少なくとも絵に関する私のキャリアはあなたとは比べものにはならないでしょう。異論があるならあなたのキャリアを提示してください。
異論はありませんが,例が示されないので何も分かりません。また,別にあなたの作品である必要はありません。
> ●何も書き残さない話者がいるというのなら、まずその根拠を提示してください。
「文字化された言語は,世界におそらく数 % しかないのではないか。実際的に世界のほとんどの言語が無文字言語なのである」国立民族学博物館 (編)『世界民族百科事典』p.186,丸善出版,2014 年。
> ●実在しないということが実証されればそういうことです。●意味不明です。
どの問いに対する答,あるいは問いが理解できなかったのかが不明です。
> ●当時の日本の子供たちは世界で絵を描く比率は高かったと思っています。現在の子供と同じなどとは言っていません。
そのレベルでは,「明治までの子供には写実というものがどこにも存在しなかった」としても,ただの偶然かもしれませんし,描かれたものがすべて散逸したのかもしれません。
色を感じるのは知覚です。実在しない対象について「旨い不味い」を感じたら,病気の疑いがあります。他のものは無関係です。
> ただし人の直観が間違いだと口出す限りは、正常な限り、そこには根拠、証拠などの論証が最低限必要なのです。
「間違い」だとは言っていません。普遍性がないと言っているだけです。 直観と「根拠」「証拠」「論証」とは無縁です。たくさんの哲学的不具合を生じるあなたの直観を普遍的だとこじつけるためには,たくさんの嘘が生じてきます。私が言いたいのは,嘘を広めるなということです。
> あなたの直観と私の直観が対立しているこの場合が正に根拠や証拠が必要なのです。
その対立は,「根拠」や「証拠」では解決しません。人間の生存を脅かさない方が普遍的だということです。
> 約2時間で描きました。
そうですか。特に技量の高い人が描いてもそれの 2 倍はかかるという事実と対置して,この件は終わりにします。
> それでは私の受賞歴や公立美術館の所蔵も全て嘘だと否定してください。
ですから,それらがどのように評価され,誰に影響を与えたのかを示してくださいと言っているのです。
> このブログは「見えた通り描く」ことが本当に可能なのかということを論じているのです。
それは論じるまでもなく,不可能でしょう。対象が実在しないからではありません。
> それと同様に「実在」が在ったり無かったりするのは「実在」とは言えないということです。何故ならばそういう意味だからです。
そんなわけはないでしょう。蜃気楼は実在しませんが,オアシス都市は実在します。この違いが分からければ,砂漠で行き倒れてしまいます。
私は自分の直観を盲信してはいませんし納得できる根拠が提出されればいくらでも意見を取り下げます。そのためにこのブログがあるのです。しかし、あなたとの長いやり取りで、あなたの意に反し、私の直観が正しいと思われる度合いが増す情報が得られたのは幸いです。例を上げれば継承されてきた「図式」に皴法、点苔などの名前が付けられていたこと、ゴンブリッチを知ったこと、…これは大きいです。あるいは開散(外斜視の状態)が容易に作れること、等々です。これらの情報はこのブログの主旨に大きな貢献を与えたと言えます。それだけの知識があるのに如何してそれに対立するだろうリアリズムを盲信するのか全く不思議です。恐らくその情報の本質を柔軟に、あるいは正確に解析する能力が欠けているのでしょう。折角の情報を稚拙な直観という思い込みで捻じ曲げるのです。ゴンブリッチの解釈の強引な捻じ曲げなどを見ても解ります。これを読み込んだ労力は全くの無駄であり、もったいない話です。そのあなたの徒労を私が価値に換えてあげます。
又、人類の存亡で言うならば、20世紀は、つまり近代は人が人を最も多く殺した世紀で民族の殲滅も幾度も行われました。その多くはロシアを含む西洋と中国によって為されました。もちろん日本も例外として誹りを免れませんが、それは近代主義というものが基盤であり、それは主観客観というリアリズムが基盤であり、その出自は西洋です。そしてその近代主義が今、衰え、崩壊しようとしています。
「実験を始める前の」とも,そのような趣旨のことも,どこにも書かれていません。また嘘をつきましたね。
実験を始める前から観測を始めることもできます。猫に心電図をつないでデータを取り始めた時点で,それより前に存在した状態の重なりが収縮するのでしょうか。勤め人は毎年心電図を取りますが,その時はじめて生きていることが観測されるのでしょうか。創作落語ですか?
同書には「いま開閉式の窓が取り付けられている箱を用意する。この箱の中の様子は窓を開けて覗かないとわからない」 (p.83) とはっきり書かれています。「シュレーディンガーの猫」のたとえ話の前提はこれです。実際の観測にはそんな前提はありません。われわれが知りたい現象を観測できない場合があるだけです。
しなくていいです。嘘さえつかなければいいのです。嘘に基づいて「頭は動いていますか」などと言う人を非常識人と呼びます。
> 今、問題にしているのはリアリズムが普遍かどうかです。
「このブログは「見えた通り描く」ことが本当に可能なのかということを論じているのです」 ← あなたが言うような意味では不可能です。「見えた通り描く」ことを試みた人は言われなくてもみな知ってます。しかし,視覚像を近似することはさまざまなレベルで可能です。だから人間はそれをあきらめません。論点をあれこれずらしても無意味です。
> そうした概念や表象しか発掘されないということは、リアリズムという概念は日本には無かったと結論付けるのが考古学や地質学、言語学、あるいは科学全般の鉄則です。
概念,言葉はなかったかもしれませんね。しかしだからといって,昔の日本人は,世界は実在しない,自分に見える世界と他者に見える世界とは違う,眠りから覚めたら自分は床についた時と違う世界にいるかもしれない,などと考えていたのでしょうか。「そう考えていたはずだ」とするのが「リアリズムの否定」です。
われわれは昔の歌や物語を,多くの場合,大きな違和感なく理解することができます。それどころか,深い共感を覚えることさえあります。また,以前にも述べたように,昔の画は建築史や服飾史の重要な資料になっています。「一人称視点」のみがリアリズムではありません。昔の日本人がわれわれと別世界に生きていた形跡は全く感じられません。
> 言っておきますが、かつての女流日記や紀行文は一人称視点ではありません。
どのように違うのか説明してください。
(天皇は新たに天下を平定して,やっと即位されたのである。このため祝賀の使者以外はお召しにならない。その事はお前たちが自分の目で見たとおりである)
誰が見た世界も同じです。根拠はありません。お互いに人間だから根拠は要らないのです。
> 裁判も法の基で行われていました。
「リアリズム」という概念はなくても,皆リアリストだったからです。
> 実在しないということが実証されればそういうことです。
> 科学全般の鉄則です。
> 衰えつつあるリアリズムベースに代わる非リアリズムの知が蓄積された日本文化の検証が重要ではないか
「実証」とは,世界が実在するということを前提にしなければ不可能ですから,世界が実在しないということを実証するのは不可能です。「リアリズムベース」は「非リアリズム」に代わられるべきだというのに,完全なリアリズムベースである「科学全般の鉄則」に従って,日本文化を非リアリズムだと結論付けることは有効なのでしょうか。
> 20世紀は、つまり近代は人が人を最も多く殺した世紀で民族の殲滅も幾度も行われました。
もし世界が実在しないなら,それも事実ではありません。「事実」が意味をなさないからです。そのような立場では,大殺戮の前に,自分が生きられそうにありません。
我妹子が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人そなき
鞆の浦の磯のむろの木見むごとに相見し妹は忘らえめやも
磯の上に根延ふむろの木見し人をいづらと問はば語り告げむか
妹と来し敏馬の崎を帰るさにひとりし見れば涙ぐましも
行くさには二人我が見しこの崎をひとり過ぐれば心悲しも/見もさかず来ぬ
(万葉集 446~450)
大伴旅人の絶唱です。旅人が見た世界と妻が見た世界とが違ったはずはありません。
私は岡田さんのおっしゃる事が正しいと思いますが、今後の美術教育なんかはちょっと異論があります。
お手本を重視するのは良いと思うんですがいわゆる答え合わせとして写生や写生に準ずる実物の観察は必要だと思います。
特に昨今の人気ある漫画でも首のつき方がおかしかったりデフォルメが極端だし実物のもつ実在感を感じるという精神論的な事も必要じゃないでしょうか
その上でお手本として利用するのは賛成なのですが
……こんな人の「おっしゃる事が正しい」わけがないでしょう。
「バンビ」って知ってますよね。ディズニーのキャラクターです。
http://www.disney.co.jp/fc/bambi.html
こんなデフォルメされたキャラクターを制作するときも,ウォルトがやったことはまず小鹿の写生でした。
https://s-media-cache-ak0.pinimg.com/564x/6f/71/65/6f7165af46005a11151e76a2f44099ef.jpg
これはウォルト 1 人ではなく,スタッフ全員がまるで小学生のように写生大会をやったのです。
漫画を描くときはいちいち写生してられないので,「お手本」を写すことももちろん必要ですが,自分が「お手本」を創るのだという気概もまた必要だと思いますよ。
日本では写生をベースにした自由画運動が浸透するまで、お手本を写す臨画教育が行われていました。写生をベースにした自由画運動は、臨画教育を否定することによって打ち出されたという歴史的経緯があります。つまり二者は対極にあり、それは「答え」はお手本などではなく、外部世界の客観的実物の方にあるという合意によって前者が支持されるという経緯です。しかしそれは正しいのかという懐疑に基づきこのブログを続けています。その懐疑とは、経験上、私の描く絵と私の視覚像の関係の無さは言うまでも無く、もし「答え」となる、全人類が等しく知覚認識できる唯一無二の外部世界が在るとするなら、何故、平安絵師たちは私が知覚認識する廊下の「ハ」の字や青空を一切描かなかったのか等といった疑問です。ストーカーのぺー氏が言う、屋根が葺かれる前に絵師が大木に登って廊下をスケッチしたなどというおバカな説は無視して、平安絵師は知覚認識とは全く別の特殊な様式に従って描いたとする説を採用するとしても、もう一つの可能性、…平安絵師は知覚認識を描いた、つまり描かれた絵が知覚認識を示している、…という可能性は完全否定はできません。可能性として残るのです。
目にする風景、例えば、山や木や川などは習得された「山」「木」などの言葉によって意味を持ち分類されます。つまりそれが知覚認識です。外部世界は習得された言葉の体系において姿を現します。それと同様に習得された「図式」の体系によって外部世界の形態が姿を現す、といったもう一つの可能性があるのです。
この「図式」の体系は言葉の体系と同様に、移り変わります。そのことにおいて、「いわゆる答え合わせとして…実物の観察」VS「図式の習得」の正否が改めて問われるべきだと思います。
なるほど、わかりました
ただ私も「見たとおり描く(所謂石膏デッサンのような感性を鈍らせるようなもの)」は必要ないかなとは思います。
見て解釈して描く、あるいは記憶で描くは有効だとは思ってます。
谷川晃一なんかがテレビで紹介している方法はいいなと思ってます。
並行してお手本をというのは大いに賛成です。
ただ現代の漫画(劇画)には所謂写真模写やトレースもみてとれ同じような事を安易にする人も増えています。パソコンの発達によるものでしょうが
その辺りはどうお考えですか
現代の画家でも描き方がさまざまなのと同じことです。共通の知覚認識の通りに描くとは限りません。
http://manufacturadecentauros.com/wp-content/uploads/2013/11/bollmann_manhattan.jpg
ヘルマン・ボルマンの傑作「ニューヨーク鳥瞰図」 (1948 年) です。透視法など使っていませんね。
また,「一切」というのは文字通りに受け取るなら嘘です。
> 屋根が葺かれる前に絵師が大木に登って廊下をスケッチしたなどというおバカな説
廊下だけスケッチはしないでしょう。絵師はめったに寝殿には上がれなかったと考えられるのに,建築物は正確に描かれています。どうやって描いたのだと思いますか。
ちなみに,人物を描くのにモデルを使ったことはほぼ間違いありません。源氏物語絵巻の復元模写の過程でそれは明らかになりました。
「近藤〔富枝〕氏は二人のために,「宿木三」で主人公が着ていたと思われる夏の直衣を用意し,モデルに着せて絵巻のポーズを再現してくれた。// モデルは,徐々に「宿木三」の登場人物たちに変身していった。絵と見比べながら慎重に衣装を動かしていくと,不明だった絵の部分部分がしだいに見え始めた。二人は平安の絵師たちの鋭い観察眼に驚かされるばかりだった。装束は「ひだ」の出方一つまで,実物に忠実に描かれていたのだ」
『よみがえる源氏物語絵巻 全巻復元に挑む』pp.63-64,NHK 出版,2006 年。
パソコンはマンガ制作のためにあるような道具といっても言い過ぎではないでしょう。もし、十代後半にパソコンがあれば私はマンガ家になっていたと思います。100%パソコンで作った「卯辰山奇談」の梅ノ橋から卯辰山を望む一コマは写真をトレースしたものです。今では自動トレースソフトが充実しており、写真を取り込むのは簡単です。今後そうした傾向が増すと思いますが、一方でパソコンやネットの普及により、後者の系譜の要素が露わになっています。例えば「顔文字」や作者から創作物が独立する「キャラ立ち」「汎心論性」「写し」原理である「二次制作性」等々です。90年代あたりから後者の系譜の優位性が見てとれます。
Paさんに関しては相変わらずのワンパターンで応答する興味も失せますが、例えばセザンヌは100%と言えるくらい彼の作品には廊下の「ハ」の字は描かれません。それは意識して避けたか、あるいはそれを知覚認識できなかったか、という可能性は全く個別で特殊な問題であり、この文脈からははずれます。何故なら他に描かれた廊下の「ハ」の字は多く在り、それを我々は知覚認識として共有できるからです。しかし、廊下の「ハ」の字が全く無かったとした場合、それは話が異なり、人類の知覚認識の問題として一般化できるのです。廊下の「ハ」の字が一点でも発掘できればこの話は解消できます。
私も写生の絵はもうかれこれ20数年描いてません 写生じゃない絵の楽しさは良く知ってるつもりです。
漫画は私自身ガロ系が好き(つげ義春、諸星大二郎、高野文子、ますむらひろし)なのでリアル派だったのですね
つげ義春はリアル系とそうじゃ無い系統の作品があるように思います。
バスキアこそ言葉のように絵を扱い言葉を絵にしてたように思います。
あなたが懲りもせず誤った論理を繰り返すからです。間違いを指摘するのもワンパタンで十分です。
> 例えばセザンヌは100%と言えるくらい彼の作品には廊下の「ハ」の字は描かれません。
ハの字がどうこう以前に,彼が廊下なんて退屈な物を描いた画がありますか?
http://livedoor.blogimg.jp/g_artisan/imgs/7/9/794baa2f.jpg
映画の 1 シーンとしてはいいかもしれませんが,絵巻の中では使いみちがありません。まさに廊下が主役,廊下フェチな画です。
透視法のためには,固定された視点だけでなく,視野を限定する枠が必要です。政信の一枚物の浮世絵では,透視法にちょうどいい枠が出来ています:
http://home.c01.itscom.net/a-hakken/KJ01-01-perspective.html
絵巻には枠がありません。人間の自然な視野からかけ離れた縦長の掛軸なども,そこに枠を想定することは困難です。これらは透視法を使ってはいけない種類の画ということになります。あなたの上の画を絵巻に描いてしまうと,右へも左へも続けようがなくなります。
> しかし、廊下の「ハ」の字が全く無かったとした場合、それは話が異なり、人類の知覚認識の問題として一般化できるのです。
できません。認識されたものは必ず描かれたという保証がないからです。画らしい画を描かない民族もいますが,彼らはほとんど何も認識していないということにはなりません。あなたの論理は根本的に誤りです。
廊下のハの字が全くなくても,廊下がハの字に見えていた可能性は消えません。廊下がハの字に見えず平行に見える人の視力は無限大です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Magimi_no_maki_(nun_chapter).jpg
描き手から遠ざかる平行線がハの字に描かれています。この場面では視点が固定され,枠が設定されていて,通常の絵巻のように時間が右から左へと流れません。そこでどうしたかというと,同一人 (尼公) の異なる時点における姿を,複数の姿として同じ場面に描き込んだのです (異時同図法)
> 解釈は実証とはいえません。
過去を再現することはできないし,タイムマシンで過去に行くこともできないので,本質的に実証は不可能です。現代の科学技術に基づく復元模写は,最も実証に近い解釈といえます。
http://ken.image.coocan.jp/Genji-Yadorigi.jpg
https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=1920x400:format=jpg/path/s9daac478116be163/image/ia00243d1748eb33e/version/1449238717/image.jpg
切手にもなった名場面です。装束の繊細なドレープが浮かび上がりました。
有元利夫は好きです。早く亡くなられて本当に惜しい。バスキアはあまり見ていませんから何とも言えませんが、80年代、ヘッジファンドをやっているコレクターの人からマイアミの別荘で絵を描いてくれと頼まれ、結局断ったのですが、その後、彼の別荘にバスキアとジェニファーバートレットが数点ありました。もしかすると彼は私の絵にバスキアとバートレットの共通点を見たのかも知れません。グラフィティアートで言うなら、へリングは好きです。彼の絵は本当に怖い。バンクシーは評価しません。
つげ義春はリアリズムなんでしょうか?
岡田さんの絵を見てヘリングの影響を感じない人はいないです。
ドイツのペンクも
私は所謂アフリカとかアジアのプリミティブアートをみて凄い感銘を受けましたがその辺りはどうお考えですか?
ペンク!いいですね。ペンクもへリングも初めて観た時、「先にやられてしまった」という思いがありました。
タンザニアの素朴な染作品を持っていますが、それよりマヤ、アステカ、インカの文様や陶器類にとても惹かれます。しかしこれらはプリミティブアートとは呼びたくないです。これらは最も洗練された芸術です。
前回、へリングは本当に怖くて好きだといいましたが、あなたの絵もかなり怖いです。芸館の展覧会、楽しみにしています。
こんな殊勝な文言をあなたが書くとは思いませんでした。少しは進歩しましたか?あるいは反省し態度を改めたのですか?廊下がハの字に見えていた可能性は確かにあります。私はあなたと違い、何が何でも「見えて無かった」とは主張していませんし、がなってなどいません。しかし可能性とした場合、見えていた可能性が消せないように、見えてなかった(知覚認識されなかった)可能性も消せないということです。私はその観点に立ち、証拠や文献を探っているのです。ですから、あなたは「見えていた」という観点に立つなら、そうした証拠や根拠を出すのが議論というものです。にも拘らず、根拠は必要ない、自分の直観だけが正しい、問答無用だ。など、やくざの脅しかテロリストだと思いませんか。野蛮そのものです。そんな輩と関わるのは時間の無駄というものです。しかしそう無下にしたくないのは、面白いことに…前にも言いましたが…あなたの意に反し…あるいは知ってか知らずか…私の観点、立場といってもいいですが、それを補強する情報を提供してくれるということです。今回のリンクの宮崎克己「空間のジャポニスム」は面白く拝見しました。これは多少の意見の食い違いはあるものの、あるいは観点は異なっているものの、概ね、私の観点を否定するものでは無く、むしろ補強するものと思います。あなた、この文章をちゃんと読んだのですか?あなたの論点は絵画様式が知覚認識とは関係なく存在するということらしいですが、この文章にも、あなたが提供したゴンブリッチにもそんなことは書かれていませんし、私もそう思いません。そう思うなら是非それを論証してください。
ぜひねじ式のお好み焼き屋行きたいです。
勉強になりました。
はァ? 最初からそればかり言ってるんですが。
> 私はあなたと違い、何が何でも「見えて無かった」とは主張していませんし、がなってなどいません。
「人類の知覚認識の問題として一般化できるのです」見えてなかったと主張しています。
> 見えてなかった(知覚認識されなかった)可能性も消せないということです。私はその観点に立ち、証拠や文献を探っているのです。
見えた通りに描くことは不可能なんですよね? それなら,描かれたものが見えた通りであるはずはありませんから,画から「知覚認識そのもの」を探ることはできないのです。何万点の画を示しても「知覚認識そのもの」についての証拠は一つとしてありません。
> あなたは「見えていた」という観点に立つなら、そうした証拠や根拠を出すのが議論というものです。
「どの人にも見えていた」という過去のことについては,実験ができませんから,証拠も根拠もありえません。「見えている特定の人がいた」証拠ならあります。
「湖(うみ)の上白く見えわたりて……乗らむとする舟の差掛(さしかけ)のかたへばかりに見くだされたるぞ,いとあはれにあやしき」 (蜻蛉日記) 遠くの舟が沓の片方ぐらいの大きさに見えると言う道綱母の視力は無限大ではなかったようです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Magimi_no_maki_(nun_chapter).jpg
この画の描き手には,自分から遠ざかる平行線がハの字に見えたようです。
視力が無限大の人間がいた可能性がある,否,平安時代の日本人は皆そうだったと,あなたは考えるわけですね。私はそんな可能性はないと思います。
根拠がなくても「あるわけないじゃん」と判断できる直観は重要です。「賢者には見えて愚か者には見えない服地」「ウンコしない人」「視力が無限大の人」「神の子孫」「他民族より優秀なゲルマン民族」「生身の人間が空中に浮かぶ術」「分化した状態から未分化な状態に戻る細胞」…こういったものを「ある (いる) わけないじゃん」と一笑に付することができないと,悲惨な結末に至ります。裸の王様,皇国日本,ナチス,オウム真理教,STAP 細胞… 「輩」の方が賢いんですよ。
> これは多少の意見の食い違いはあるものの、あるいは観点は異なっているものの、概ね、私の観点を否定するものでは無く、むしろ補強するものと思います。
全然違うと思います。西洋の透視法が入って来るまで日本人の視力は無限大だったと,宮崎氏が考えているはずはありません。
> あなたの論点は絵画様式が知覚認識とは関係なく存在するということらしいですが
そんな主張は一度もしていません。
結構周知の事実だと思ってました。
基本的にリアリズムの絵は描き方が存在するのはみんな知っていて某美術雑誌などは良く作者自身が制作方法の解説していますよね
岡田さんの方がよくご存知のリアリズムの絵描きさんの描き方なんて30年前の美大生もよくやっていました。
第一美大受験研究所でも石膏デッサンの時に変な位置に座って描いている予備校生に「回り込んでみえない位置の形を意識して辻褄合わせて」なんて指導している講師もいます。
実際もしみたままなら人体なんて胴体のボリュームが板みたい見える角度があったりするのは皆知っていることだと思ってました。
案外自覚のない人いるんですね
「もしみたままなら人体なんて胴体のボリュームが板みたい見える角度があったりする」試験でそういう席をあてがわれた場合は,板みたいに描かなければ評価されないでしょう。採点者は受験者が描いていたのと全く同じ位置から観察して,十数秒で合否を決めるといいます。辻褄を合わせた画は落ちると思います。席を立って回り込んで見ることが許されない試験もあるらしいです。
ある意味精神的リアリズムなんでしょう
そういう意味ではジャコメッティや麻生三郎のいう実在やリアルというのも精神的なものなんでしょうか
そちらのリアリズムは非常に面白いし興味ありますね
そうですよ。それが何か?
石膏は退屈です。人物を描くのが最高ですが,モデルは高いし,プロでも少しは動くし,初心者のために 5 時間も 6 時間も雇うことはとても無理です。
この頃は美大・芸大の入試でも石膏デッサンを課さず,ガラスや毛糸や木や金属やプラスチックを描かせる所が多くなりました。あれ難しいですよ。石膏より易しいとは思いません。
岡田さんのおっしゃるようなやり方や谷川晃一氏が提唱するやり方海外でも色々なカリキュラムが存在します。
あの真っ白なものを有難がってたのは明治のヨーロッパに追いつけというのと簡単にはヨーロッパにいけない人らのコンプレックスでしょう。
昨日、ゲーカンでの展覧会を原田のおっさん、桜井氏の三人で見せてもらいました。師匠の作品と共に、あなたの作品、高い評価でしたよ。
励みになります。