カテゴリ: 陶芸家小野清生について

小野清生像


 陶芸家小野清生(清々)という人は、大正から昭和にかけて実際に生存していた。確かに彼は存在した。何故ならば、彼は私の祖父だからである。彼がいたからこそ私は現在、ここにいる。
 しかし、彼の出自や生い立ちは全く謎だった。何処から此処…つまり京都にやって来て、我々を残し、去っていったのか。
 
 清生は九州の何処か、熊本か佐賀、あるいは大分から美術学校に入り、卒業し、京都で陶芸を始めたという。

 京都において彼は5人の娘を儲けた。その四女、妙子が私の母である。長女は清生が存命の頃、若くして亡くなり、二女は私が中学生の頃、母である四女妙子は17年前、そして先だって令和2年1月に五女道子が亡くなった。残るは三女紀子だけとなった。
 清生は40そこそこで亡くなり、二女と三女は親戚の家に預けられ、幼かった四女と五女は孤児院に引き取られ、そこで成人した。これが私が知る全てだった。

積慶園3
この画像は孤児院、積慶園の同窓会の記念写真(部分)と思われる。左の女性は4女妙子で抱かれているのは私。右の水玉のブラウスの女性は5女道子。20歳前後の頃と思われる。

 ずっと以前、創作に携わり、芸術を志す者として、あるいは残された者の責務、そして彼の作品を見たいという興味から、私は祖父清生の仕事の発掘を試み、母妙子に幼い頃の記憶を尋ねたことがある。しかし妙子は私の要請を頑なに拒絶し、二度と清生の話はしないという確約を取らされた。
…妙子は清生から酷い虐待を受けていたのだ。
 そのトラウマから父である清生の記憶が蘇るのを妙子は嫌がった。そして他の姉妹も多かれ少なかれそうした理由からなのだろう、清生の出自や生い立ちは封印され、子や孫には殆ど伝わっていない。小野清生は歴史から消去されようとしているのだ。いや、既に消去されてしまったのだろう。
 そして五女道子が亡くなったのを期に、再び清生の発掘を試みようと思う。以前と違い今ではネットという強い武器がある…。

卒業写真

 家に伝わる清生の写真は二枚しがない。その一枚が巻頭の画像でもう一枚が上の記念写真と思われる画像だ。その裏に左から小野清々、彫刻科大分県とあり、次に石田瑛、園技科石川県、右端の座る人物が高野重人、漆工科熊本県と書かれている。
 この情報を基にネット検索してみると非常に驚くべきことが判明した。
 国立国会図書館デジタルコレクションから、東京美術学校卒業名簿にその名があった。

 小野清生 大正5年彫刻選科卒業 大分出身
 石田瑛 大正6年図案科本科卒業 石川出身
 高野重人 大正5年漆工科本科卒業 熊本出身

 ここで小野清生は大分県出身で東京美術学校彫刻科を大正5年に卒業したことが判明した訳だが、その後がもっとすごい。

 高野重人氏なる人物をネット検索するとコトバンクから「高野松山」がヒットした。それによると、デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説「1889-1976 大正-昭和時代の漆芸家。明治22年5月2日生まれ。白山松哉に白山派蒔絵をまなび,松哉より松山の号をうける。竹塗りを2代橋本市蔵にまなぶ。昭和30年蒔絵の人間国宝。」
 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説「漆芸家。本名重人。熊本市(現在の西区池上町)に生まれる。…13歳で飽託(ほうたく)郡立工業徒弟学校漆工科に入学。のち京都市立美術工芸学校描金科、東京美術学校漆工科を卒業。…」とある。

 私の目が凍り付いたのは「…のち京都市立美術工芸学校描金科、東京美術学校漆工科を卒業。」…の京都市立美術工芸学校である。…これは紛れもない私の母校なのである。
 そこで本棚にある2016年版「美工同窓会名簿」を急いで広げてみた。
 …我目を疑った。…衝撃だった。3人の名が2016年版美工同窓会名簿の30頁に載っていたのだ。

 明治43年3月25日卒業、彫刻科 小野清生
 明治44年3月25日卒業、描金科(後に漆芸科に統合) 高野重人(雅号松山)
 明治45年3月25日卒業 図案科 石田瑛(雅号玉英)

 謎の人物だった祖父小野清生は、何と私と同じ京都の美工を卒業した先輩であり、驚くべきことに私は私と祖父清生が、この同じ一冊の美工同窓会名簿に同時に名を連ねていたことなど今の今まで全く気付かずにいたのだ。この奇跡的偶然的顛末は一体どういうことなのだろう。

 …想像を巡らすと、私が影も形もなかった明治末に、三人の若者が大分から、石川から、そして熊本から芸術を志し京都にやって来た。同じ学校で学び、そして交友を育み、励まし合い、あるいは競い合い、そして三人はその後、東京美術学校で未来を語りその絆を深め合う。…そうした三人の絆を私は信じたい。それがこの記念写真の示唆するところなのだろうか。

 しかし、芸術は時には独善的であり過酷で悲惨だ。残された者はその恩得に預かることもあろうが、その多くはそれ故に翻弄される。そうした例は私が知る限りにおいても枚挙に暇がない。…そしてこの時期の大戦はそれに輪をかける…。


 …小野清生の作品の所在、あるいは情報を求めています。…






 
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神楽岡奥津城

 京都吉田山神楽岡に小野清生は眠っている。墓標には「黒住教神楽岡奥津城」とある。奥津城とは「おくつき」と読み、神道系の墓であり、彼は黒住教の信徒だったのだ。
 墓地名は吉田神葬墓地とあり、黒住教宗忠神社のすぐ南に位置し、その北西に吉田神社、そして京都大学がある。

 先だって、私はそこを探し当て、訪ねたのだが、その墓地にひときわ目を引く墓石があった。田能村直入の墓石だった。田能村直入は幕末から明治にかけて活躍した画家であり、最後の文人画家といわれる。
 そして直入は京都府画学校の設立に尽力し、初代校長を務めていた。京都府画学校とは清生、それに私が在籍していた京都市立美術工芸学校(現銅駝美術工芸高校)の前身であり、そして京都市立芸術大学の前身でもある。
 2016年版美工同窓会名簿「歴代校長」には一行目に「摂理 田能村小虎(雅号直入)明治14年〜17年、とあった。そして彼も清生と同じ郷里の大分だったのだ。
 同じ郷里の、在籍した学校の創立者が、しかも同じ墓地で眠っている。清生が京都にやって来た理由として、これが全くの偶然とは思えない。

宗忠神社

 前回引用した国立国会図書館デジタルコレクションにアーカイブされている東京美術学校卒業者名簿月報第二十五巻第六号付録(大正十五年版)によれば、清生の所在地は「京都市上京区(現東山区)粟田口三條坊町四〇」となっている。彼は最初大分から京都にやってきて、京都市立美術工芸学校彫刻科(図案科クラスメートに堂本印象がいる)を明治43年に卒業し、そして東京に渡り東京美術学校彫刻科(現東京芸術大学)を大正五年に卒業する。そしてこの名簿が編纂された10年後、つまり大正十五年には彼は再び京都に戻り、粟田口三條坊町に住んでいたことになる。

 粟田口三條坊町四〇といえば、当工房から徒歩僅か約5分の所だ。現在は宿泊施設のビルが建っている。そして大正十五年には私の祖父英次郎(父方)により、今私が居るこの工房は既に開かれており、私の父萬治は当時5歳である。私の母、つまり清生の四女妙子はこの時、未だ生まれていない。
 この極めて近い所に同世代だったであろう二人の祖父、清生と英次郎は居を構えていたことになる。道ですれ違ったことはあったかも知れないが、この時二人は何の接点も無い全くの他人だったのだろう。
 それが如何なる経緯で清生の四女妙子と英次郎の長男萬治が結婚し私が生まれることになったのか。

 家に伝わる、これも謎だった二枚の写真がある。

積慶園1

積慶園2

 この二枚の写真は祭壇や鴨居の形状から撮られた年代は異なるが同じ場所だと解る。一枚目の花嫁の左隣にいる人物は二枚目では後列左隅におり、前回で示したように私を抱く妙子と五女道子が写っている。そして二つの写真の襖には同じ丸い紋章が描かれている。
 この紋章は江戸中後期に長松清風によって開かれた日蓮系本門仏立宗の紋章である。そして本門仏立宗は祖父英次郎が浄土真宗から改宗した宗派であった。

 この二枚の写真が意味することが府立図書館に所蔵されていた「積善 (積慶園)創設七十周年」(2016年出版)という書籍により全て判明したのは僅か数週間前のことだった。
 積慶園という名称は私が小さい頃、母妙子がよく口にしていたので私の記憶にこびり付いていた。…ごねる私に「そんなこと言うてると積慶園に預けるよ」…と言う具合に…。

 「積善(積慶園)創設七十周年」によると、積慶園とは1945年(昭和20年)旧宥清寺の敷地に京都府知事の要請を受けた古村正樹が当時の戦災孤児の受け入れを主たる目的として設立した施設だった。又、宥清寺とは日蓮門下の関西最古の寺院であり、本門仏立宗の根本道場である。
 そして古村正樹(僧名昭正師)が積慶園初代園長となる。

 この書籍「積善」の頁を繰っていて又しても私の目が凍り付いた…!「積善」55p、「積慶園の歩み」の項で何と私の父萬治と母妙子の写真が「園の花嫁」として掲載されていたのだ。

積善  創設七十周

 上の写真は間違いなく私の父萬治と母妙子の婚礼の写真であり、撮影場所は当工房の二階奥の間の床の間の前である。この原本と思われる写真が家に遺されている。
 そしてこの掲載写真により、上記の謎だった二枚の写真の意味することが全て判明したのだ。
 上記二枚の写真の撮影場所は旧宥清寺の積慶園であること。一枚目に写った花嫁は母妙子であること。そして左隣にいる人物は積慶園初代園長の古村正樹氏であること。二枚目の写真はその数年後の同窓の記念写真であると思われる。
 これらのことにより、次のような物語が示唆される。

 前回でも記したように、清生の死後、4姉妹の内、幼かった4女妙子と5女道子は当時設立されたばかりの孤児院、積慶園に預けられる。積慶園で成人した4女妙子は親代わりの園長古村氏の尽力により、その宗派の関係において岡田家との婚姻を成就させたのではないか。そしてその「園の花嫁」第一号として園の歴史の一端を担っているのではないか、…ということだ。

 これに関して私の出生には積慶園、そして本門仏立宗、あるいは初代園長古村正樹氏には多大の恩義があるのは言うまでもない。しかし、ここで母妙子の生前の言を記さない訳にはいかない。

 母妙子は幼い私に常々言っていた。暴力を振るう父清生との生活は辛かったが、積慶園の生活はもっと辛かったと…。そしてここから逃れられるのであれば添い遂げる相手は誰でもよかったと…。
 そしてこの工房において萬治とのささやかな婚礼を終え、夜のとばりが降りる頃、関係者が皆引き上げ、二人きりになり、殆ど初めて萬治の顔をまざまざ見る。
 …そしてこの一寸先、どうしていいか全く解からなかったと…。本当に、本当に、先程の皆と一緒にこの場から引き上げたかったと…。



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集合写真トリミング












 上の集合写真は我が家に伝わる謎の写真の一つだ。撮られた年代も場所も全く分からない。写真隅に写真館京都西山というロゴがあるから京都のどこかなのだろう。(この写真館はネット検索しても見つからなかった)

 見れば見るほど興味をそそる写真で、女性達は和服に髷を結い、一応に地味だ。一方男性陣は白い作業着?をまとい、ヘヤースタイルも視線も色々で各々が好き勝手なポーズを取って一応に派手で華やかだ。タバコ?をくわえ足を組んでいる人もいる。直観的にこの集合写真は芸術系の学校であろうと、美校同窓会名簿2016年度版の明治13年の京都府画学校から明治27年の美術工芸学校、明治42年の絵画専門学校の歴代校長や教授のネット検索を試みた。

 その結果松本亦太郎という人が判明した。真ん中の髭を蓄えロングのチェスターコートを着た人物だ。歴代校長や教授陣はそうそうたる人達で、竹内栖鳳や菊池芳文、山元春挙らがいる。しかしネットでは肖像画が少ないので照合は不可だった。もしかしてこの集合写真に彼らがいるのかも知れない。松本亦太郎のネットページには肖像画があり特定ができたのだ。

 松本亦太郎とは群馬県出身1865年~1943年の東京帝国大学哲学科卒業の心理学者であり、彼は明治43年(1910)から大正4年(1915)まで美術工芸学校と絵画専門学校の校長であった。(当時は2校兼務だった)従ってこの集合写真は明治43年(1910)から大正4年(1915)に京都のどこかで撮られたもので美術工芸学校か絵画専門学校の集合写真のいずれかだと判明した。いずれにしても彼らは我々の大先輩で、もしかするとこの写真は至って貴重なものかも知れない。
荒谷芳雄?





























 上の写真は我家に伝わる最後の謎の写真だ。この人が何者で何故この写真が家にあるのか全く謎だった。そしてこの写真の人物らしき人が前出の集合写真に写っているのを発見する。

集合写真トリミング2
中央が松本亦太郎で右端の男性がその人

 私の母妙子は私が小さい頃荒谷という名を口にしていた。極近い親戚だと言っていた。そして美校同窓会名簿を調べると明治45年(1912)彫刻科卒業の荒谷芳雄という名が見いだせる。小野清生の二年下の後輩でしかも同じ彫刻科だ。
 荒谷芳雄をネット検索すると、あるブログがヒットした。彼は痕跡を残していたのだ…。

荒谷芳雄 古墳時代





























 このブログはJapanese Old Art Meda  https://prewar-sculptors.blogspot.com/2017/11/blog-post_13.html  というもので2017年にアップされている。この作品の素材はテラコッタで昭和4年(1929)開催の第10回帝展に出品され、この画像はその際作られた絵葉書だという。
 このブログ主は荒谷芳雄の経歴について「上野製作所標本部技師で、博物館の展示物を作る本職だったようですが、詳しい事は不明です。」…となる。
 上記の集合写真において荒谷芳雄かも知れない人物はどう見ても学生ではなく教師の風格が感じられる。…しかし美術工芸学校や絵画専門学校の資料からは教員としての荒谷芳雄の名は見いだせなかった。
 ただ、京都芸大100年史の資料から教授深見芳雄の名が見いだせる。そしてその名を検索すると京都市工業試験場の論文がPDFで今でもアーカイブされている。タイトルは「一般陶磁器の構造に関する観察」というものであり、やはり焼き物関係だ。

 これらのことから京都の産業に関わる物語が紡ぎ出せる。何故、彫刻科出身の小野清生と荒谷芳雄が京都で陶芸に転身したのか。荒谷芳雄については前出の東京美術学校の卒業名簿には見出せなかった。恐らく彼は京都市絵画専門学校(現京都市芸術大学)を出て、絵専の教員に就いたのではないか。そして深見芳雄と荒谷芳雄は同一人物であり、上記の集合写真、あるいは肖像画は、荒谷芳雄その人ではないか。

 …ここで私の祖母であり小野清生の妻であったサトについて少し触れようと思う。祖母サトについては清生以上に何も知らない。写真も無いし、どういう人だったのかも全く知らされていない。ただ虚弱体質で大戦直前に何らかのショックで数週間寝込み、そのまま息を引きとったという。それを境に清生は変貌し、「陶芸家 小野清生について1」で語ったように娘たちに暴力をふるい出し、そこから一家の悲劇が始まる。
 私の母である4女妙子が言ってたように、サトの旧姓は荒谷なのだろう。荒谷といえば荒谷芳雄の近しい人、ひょっとして清生は二年下の後輩荒谷芳雄の姉か妹を娶ったのではないか。もしそうであるなら荒谷芳雄は私の叔父ということになる。そしてこの二枚の写真が我が家にあるのも納得できる。


 そして京都の産業に関わる物語としては、大正15年島津製作所3代目島津良蔵が東京美術学校を卒業して京都に帰ってくる。(清生の10年後輩でこれも彫刻科だ)
 彼は島津製作所に元々あった標本部をベースに日本初のマネキン制作を始める。この時、京都の多くの陶芸家や彫刻家が協力したという。(当時のマネキンは陶磁器製だった)
 前出のブログの上野製作所標本部は島津製作所標本部と技術的に近しい関係だったのだろう。

 そしてここからは私の想像だ。
 京都で島津良蔵にマネキン開発で協力していた荒谷芳雄は東京美術学校を卒業した美工の先輩小野清生を京都に呼び寄せ、島津良蔵のマネキン開発の協力を要請したのではないか。そして清生は荒谷芳雄の近しい人、例えば彼の姉か妹を娶り、ここに彫刻から転身した陶芸家小野清生が誕生する。
 荒谷芳雄や小野清生が島津良蔵のマネキン開発にどれだけ貢献したかは分からないが、結果的にマネキン制作、あるいはそれに関わるプラスチック造形は京都の主要産業となる。島津マネキンを始祖として京都はマネキン制作のメッカとなるのだ。

 我が家には二枚の写真の他、清生の作品や遺品など一切残っていない。母妙子が言うには、先にも書いたように清生、サトが亡くなった後、小野家の生活は一変し、上二人は親戚に預けられ、下二人は孤児院に預けられる。上二人の姉妹は女学校を出してもらったようだが遊ぶ金欲しさに家にあった清生の作品を安価で全て売り払ったという。(これは母妙子の言で真偽は分からない。親戚が売り払ったという話もある)
 母妙子は「私も女学校に行きたかった」とよく言っていた。そして預けられた孤児院積慶園園長古村正樹氏のはからいにより岡田家に嫁いだことは前回記した通りだ。

 これは典型的な悲運の没落の物語だ。

 …没落と言えば岡田家も没落家だ。

 ここからは小野清正と関係のない余談となるが、我が家は相当な貧乏で私が小さい頃、借金取りが玄関扉を蹴っていたのを今でも覚えている。本当に怖かった。
 しかし岡田家は曽祖父萬次郎まで陶芸の粟田焼窯元だったという。その萬次郎の父は岡田久兵衛という人で岡田久太の長男だったという。

 岡田久太とはデジタル版 日本人名大辞典+Plusによれば「京都粟田口に住み青木木米(もくべい)の轆轤(ろくろ)師をつとめ,名手として知られた。白泥(はくでい)の薄作りの急須を得意とし,茶人に愛玩された。銘は桜花の輪郭内に「久」,楕円印の「久太」。桜久太ともよばれた。天保(てんぽう)3年(1832)8月20日死去。号は給花亭,桜隠。」とある。

 岡田久太は粟田焼の発展に尽くし、パリやウイーンなどの万国博覧会出品を経てヨーロッパに輸出されブレイクし、それがあのジャポニズム発生の基礎となった。粟田焼が輸出される際、北斎などの浮世絵版画の名品が梱包材だったという。(当時日本の行政は浮世絵版画は評価していなかった。)
 そして大戦が始まり貿易相手が敵国だということもあり芸術の貿易がストップし、ヨーロッパへの輸出で持っていた粟田焼は衰退し、そして現在、完全に消滅している。粟田焼作品は博物館や美術館に数点あるのみだ。

 つまり京都の産業の一端を担ったかも知れない小野家と岡田家は色々な不運な事情により衰退し、没落した。そして没落した子孫同士、岡田萬治と小野妙子は結婚し、そして私が生まれた。
 私は現在、粟田口の岡田の窯があった場所から数歩のところで芸術関連の工房を運営している。これはもしかすると先祖のDNAのなせる業かも知れない。そしてそれ以上に先祖を発掘し後世に伝えることを責務として課せられているのかも知れない。

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