E・H・ゴンブリッチ著作の「芸術と幻影」には以下のような文章が紹介されている。それは20世紀初頭、ヨーロッパに渡った日本人美術家マキノ・ヨシオの回顧録にある彼の少年時代のエピソードだ。
「透視画法については、いささか父にまつわる思い出があります。私が中学の図学の教材を買ったときに、その教科書の中に正しい透視画法で描いた四角な箱の図が出ていました。父がそれを見て、『何だこれは。この箱は四角どころか、ひどくひんまがって見えるよ。』と申したのです。それから九年ほど経て、父が同じ教科書を見ていたときに、私を呼びこういったのです。『妙なことがあればあるものだ。覚えているだろうが、俺は以前この四角の箱の図がゆがんで見えると思っていたものだが、今見るとまったく正しいものに思えるのだよ。』(中略)この一例でもおわかり頂けると思うのですが、自然の法則を知らない者には、まったく正しい物がまったく間違っているように見えるのです。私が科学的な訓練を受けなければならないという理由もそのようなわけからでして、気に食わなく思えてもこれは必要なことで、人の勘だけに頼るべきではないと思いますし、それは非常に危険なことです。」
このエピソードに描かれているマキノの父とマキノその人が抱いた感想こそが、この先、延々と続く日本美術の姿勢と方向を決定付ける象徴になっている。
こうした感想を胸にマキノはヨーロッパに赴き、美術の勉強に励むのだが、この時点でマキノは、あるいは我々は、熟慮を重ねるべきもう一つの重要な可能性を破棄してしまったのだ。そしてこの状況は現在においても大筋で変わっていない。
このエピソードをマキノのホラ話だと主張するなら、そう主張する者に対してそれを覆す術は何もない。しかし私はこのエピソードは真実だと思うし、又、マキノの父が特殊な事例でないといえるのは、「自然の法則を知らない者には、まったく正しい物がまったく間違っているように見えるのです。」…とマキノがいうように「自然の法則」つまり透視法を知らない者一般と解釈できるからだ。
透視法が日本に入り、絵師たちの一部がそれに夢中になるまで日本人は透視法を知らなかったのだ。マキノの父も知らなかったし、中学生のマキノ自身もそうだったろう。だから彼がそれを知った時、「気に食わなく思えてもこれは必要なこと」と、ヨーロッパに渡る動機になったのではないか。
ホラ話だとする主張に対し、これを覆すのが難しいのは、我々のいわゆる視覚に対する信頼の度合いが極めて高いからだろう。絵師たちは四角い箱の描写はいうに及ばず、真っ直ぐ伸びる寝殿造りの廊下やタタミさえ何処まで行っても平行に描いている。しかし我々が寝殿造りの廊下に立ったなら、遠くへ行くほどそれは先細り、「ハ」の字を形成し、又、そう認識する。
この「そう見え、そう認識する」という自身の知覚の揺るがぬ信頼において、絵師達もそう見え、そう認識したはずだということになる。そして絵師が廊下を「ハ」の字に描かなかったのは厳格に規定されていた当時の絵画様式に縛られていたからだとなる。しかし、もし、絵師たちが「そう見え、そう認識する」ならば「そう描く」のが絵描きの本性だと私は思うのだ。そして絵師達は「そう見え、そう認識する」ことがなかったからそう描かなかったのであり、透視法を知らなかったマキノの父が教科書に描かれていた箱を歪んでいると評したエピソードが真実であると思うのもそうした理由からだ。
マキノの父は透視法で描かれた四角い箱を歪んでいると認識した。そのことは実際に在る四角い箱は描かれた図のように認識されていなかったからであり、もしそう認識されていたなら歪んでいるとは思わなかったはずだ。しかしこの図を見ているうち、歪んでいると思わなくなったのは実際の四角い箱がこの図に適合したからである。
つまり物の形や空間の知覚は、流通する図像において規定されるという可能性だ。これが熟慮を重ねるべきもう一つの重要な可能性だ。
しかしマキノが透視法を「自然の法則」とし、それを「知らない者には、まったく正しい物がまったく間違っているように見えるのです。」と断じてしまったこと、あるいは透視法を人間の見えに最も忠実な絵画技法と、ほんの少しでも同意することは、それはもう一つの可能性を破棄することであり自動的に近代から現代に至る西洋美術の文脈に沿うことを象徴的に意味している。そしてこれが正に明治以降の日本美術の姿勢と方向だったのではないか。
E・H・ゴンブリッチはその著作において、驚くべきことに、西洋人でありながら、この本家本元の西洋美術の文脈に疑問を呈しているのだ。それも物の形や空間の知覚は、流通する図像において規定されるというもう一つの根本的問題を持ち出すことによってだ。
惜しむらくは、何故こうした意見が日本人から提出できなかったかということだ。
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